見よ、主のいばらが罪深き者の肉を割く Ⅰ

 蒼空から真白の花弁が降っていた。天からの破片は銀の髪に、蒼ざめた肌に、粗末な衣に降り積もる。悴み赤らんだ指先は滴り落ちていった雫で濡れていた。雪は夜半に音もなく地上に舞い降り、辺り一面に白粉をはたいたのだ。

 冬が息吹をびょうと荒げる。めかしこんだ樹々が被る薄絹の面紗は剥がれ落ち、濃い緑の葉が覗いた。薄青い影や淡い光以外にこの穢れなき世界に存在することを赦された唯一の色彩だけが生の気配を残している。細長い枝が纏う水晶の鎧の煌めきはあまりに眩く凍てついていて、ツァレは灰色の双眸を眇めずにはいられなかった。

 水気を吸った牛の皮は固く、強風を前に半ば役目を放棄した覆いの隙間から入り込んだ冷気は足元で凝っている。栗鼠の毛を濡らすそれは厚い皮膚から柔らかな肉にまでも沁みこんでいた。小さな踵から旋毛までを揺るがした戦慄きは薄い胸の奥にも届く。洞窟の奥に残る湿った温もりへの恋しさは初雪への関心を瞬く間に打ち砕いた。

 温暖な気候で知られるペテルデも、山岳の峻厳な掟からは逃れられない。芽吹きの春が巡り、全ての創造物がその生を謳歌する夏を過ぎる。初穂と犠牲の家畜を添えて感謝の念を至高神に捧げる実りの秋が終われば、やがて死の季節がやってくる。物心ついてから幾度となく戯れ、煩わしさを募らせもしたそれに今更心躍ることなどあるものか。

 ここにいても面白いことなどありはしないのだと、物心ついた時分から囁かれていた。低く、太く、けれども朗らかで明るい父の声ではない、獣の遠吠えめいた冬の息吹に。なのに何故自分は、こうして己が身をひしと抱きしめながらも、来るはずがない青い幻の影を探し求めているのか。

 二つ脚を除く森の獣は死んだように眠り、蟻は木の洞に隠れる冬。この時期ありがたいのは飲み水に不足しないことぐらいだろう。

 おもむろに掴み食んだ雪は口内の熱を吸い乾いた喉を潤した。冷水に刺激された胃は食物を、冷え切った痩躯を温める燃料を求めて騒めく。それから薄い腹部から臓器の喘ぎが漏れ出、粗末な衣服の裾が翻るまでには瞬き二回ほどの時が流れれば十分だった。

 微かな足音は岩の壁と天井に当たって跳ね返る。こつこつ、こつこつと足音が反響すると、背後にいない筈の者の気配を感じてしまった。

『それはな、ツァレ。森の精がお前を怖がらせようとしてるんだぞ』

 耳を澄ませば蘇ってくる物語の中で闊歩する精霊たちは暇を持て余して退屈しているのか――あるいはそれこそが彼らの仕事なのかもしれないが――常日頃から森に迷い込んだ生き物を揶揄う機会を伺っている。彼らの悪戯は細やかなものから生命の存続を危ぶませるまでの多岐に渡るが、その餌食になるのは大抵人間か二つ脚だ。ツァレも、彼らが真似て出した雄叫びと自分の低く掠れたそれの類似に驚かされたことがある。

 父がそれは「やまびこ」と呼ぶのだと苦笑交じりに教えてくれたのはいつだっただろう。あれは確か、麗らかな日差しが若葉を透かすーー

「ツァレ」

 風の音とも誰かの囁きともつかない響きが朧に広がる穏やかな情景を断ち切り、かき集めた過去の陽光を吹き飛ばした。

 尖った肩越しに仰いだ薄闇には、自分以外の生者の影は射していない。

「ツァレ」

 寒さと空腹が織りなす幻にしてははっきり聞こえる呼び声には、少年の豊かな低音と少女の澄みきった高さが宿っている。ツァレの耳はこの声を知っていた。

「さっさと出てきなさいよ。いいもの持ってきたから」

 鋭敏な鼻が焼いた小麦の匂いをかぎ取る。すると身体は勝手に動いた。細い腕が持ち主の命を待たずにばたばたとはためく斑の牛皮を捲ると、すんなりとしていながら女らしい丸みを備えた姿が現れた。

「あんた、もしかして寝てた?」

 雪を被る女の口元からは麺麭から立ち昇る湯気にも勝る白い息が漏れている。エルメリはひび割れていながらも赤い唇を歪め、洞窟に足を踏み入れた。

「今日は雪が降ってるし、お義父さんはつい先日転んで腰を痛めちゃったから、あたしが代わりに来たのよ」

 彼女は妖精めいた仕草で片目を瞑ると、訝しげに引き結ばれた口に麺麭の端を押し込んだ。

「あんた、明日の午後に金の葡萄をもがなくちゃいけないわ。……なんだか最近、こういうこと多いわね」

 飢えた犬歯がこんがり焼けた肌に沈み、白い肉を露わにする。黄金の海から刈り取られ、石臼で挽かれた大地の恵みには仄かな青い海の気配が混じっていた。

「あいつらは最近塩をくれなくなって――代わりにぴかぴか光る円くて平たい金や銀を寄こしてくるけど、あんなの首飾りにしかできないわ――ほんと変なことばっかり起きるわね。……連れていかれた男は、いつまで経っても戻らないし」

 細やかな肌理の隙間に潜んでいた尖った粒は奥歯に挟まれじゃりじゃりと砕けてゆく。

 エルメリの細い眉は自分や父のそれと同じ弧を描いている。だがツァレは顰められた眉根から一人の少年の横顔を連想した。

 癖のある白茶の髪がかかる頬に淡い血の色を乗せ、くすんだ緑の瞳を忙しなく瞬かせる少年と言葉を交わしたのはつい先日のことだ。なのに妖精に誑かされたあの日と同じくらい遠く感じてしまうのは何故だろう。

『ああ、それはね……』

 ペテルデが「同盟」とやらを結んでいる「塩の民」を襲う「鉄の民」を討伐すべく、山を越えた地に送られた勇士たち。彼らが塩を得る代わりに物言わぬ躯となって帰還してからの神殿の騒めきは、白い門を超えて市井に膾炙し、都を囲む石積みの門を越えてけものの住居に届くほど大きかった。

 この悪しき世界で唯一至高神の掟を受け継ぎ守っているはずのペテルデが敗北を喫した。それも、自らを白い豹の子孫などと称する無知で野蛮な、二つ脚にも劣る生き物などに。

 峻厳な山脈な向こうの北方の蛮族や、「全ての悪徳の巣」と呼びならわされる退廃の都の住民ではない新たな外敵の出現は神の怒りの顕れである。

 高位の神官たちは敬虔なるしもべに苦杯を舐めさせた全能の支配者の意図を問い、偉大なる者に慈悲を乞うべく一切の穢れを我が身から隔てて潔斎に励んでいる。特別な祭事の折以外は静寂に包まれているはずの「羊の門」からは自らの運命を予見して嘶く家畜が絶えることはない。

 けれども迷える羊たちの叫びは七つの天に虚しく跳ね返されてしまったのか、祈りが聞き届けられた徴が下されることはなかった。戦地に赴いた兵たちが無傷で戻ってくることは稀で、彼らの身体には大抵残酷な刃を受けた痕がある。都の人々は――ある者は片腕を切り落とされ、またある者は片脚を獰猛な蹄に砕かれた――兵の語りに耳を傾け、「鉄の民」の恐ろしさに身を震わせた。

 そんな者が襲って来たら自分たちは終わりだ。蝗のごとく群がる奴らに何もかもを食い尽くされてしまうだろう、と。

 万能の庇護者の沈黙に募る不安と焦燥は雪のように都を覆い、人々を押し潰さんばかりに積もっている。甲斐のない祈りに苛立った神官や民には、この世の終わりを予感して都を捨てようと目論む者まで出てきたのだ。

「それにしても、今までは多くても一度に二つだったのに、今度は五つだそうよ。一体どうしたのかしら?」

 不遜なる脱走者の生命で泥濘んだ処刑場の土を踏みしめるごとに、心臓で蟠る氷片は大きさを増してゆく。ついに胃の腑にまで広がった冷気が胴体を超え四肢の末端を凍てつかせるまでに、この粒を融かさなければならない。

 でないと自分は――

「あら、あんたまだ食べるのね。もう空になったじゃない」

 少女は意に反して水浴びさせられた犬のように身を震わせ、ふわふわと膨らんだ欠片を喉に押し込んだ。がむしゃらに目の前の穀物を咀嚼して嚥下する。食いちぎられ唾液と混じり合った糧が胃の腑に届くと、細い身体のあちこちで熱が生まれた。だがか細い肢体が欲する熱を生み出すには麺麭だけでは足りなかった。

 この冷たい肢体を最も手早く温めるには一人の少年の笑顔がありさえすればよい。彼の体温を感じるとツァレの胸は不必要に早い鼓動を刻み、冬だというのに掌が汗ばむほど温もるのだから。 

 迫りくる祭日の準備に追われるルヴァシュは、それでも多忙の合間を縫ってツァレが籠るこの洞窟まで足を運んでくれている。

 高い声を張り上げて洞窟の奥に潜む少女の名を呼ぶ少年の柔和な面差しには、隠しきれない疲労の断片が張りついていた。僅かながら削げた丸い頬に落ちる睫毛の影の濃さは、目の縁を彩る赤みゆえに際立っている。

 まるで彼が眼前で息をしているかのように思い浮かべることができる面差しは、滲む懊悩ゆえに大人びていた。物事の機微に疎いツァレでさえ気にかかった陰影は、顔を合わせるごとに濃くなっていて――どうすればルヴァシュは元の年相応の顔を取り戻してくれるのだろうか。

 ルヴァシュには追い詰められた罪人の表情は相応しくない。ツァレは、自分と然程背丈が変わらない少年の面から憂いを取り払ってやりたかった。彼にはいつも明るく笑っていてほしかったのだ。

 ルヴァシュは雪合戦を好むだろうか。自分なら、大抵のことは身体を動かしさえすれば忘れられる。苦痛はツァレが知らぬ間に汗と共に流れ、跡形もなくなってしまうのからだ。

 だが人間であるルヴァシュの心は、二つ脚である自分よりも余程複雑な造りをしているのだろう。彼は時折――ツァレが難なく登れた木から落ちて、頭上から手が差し伸べられたりすると、暗い顔をしてしばし黙り込むのだ。どうやら、男である自分が、なりはどうあれ一応は女であるツァレに敵わないことを気にしているらしい。どんなに足掻いたって、ルヴァシュとツァレの身体能力には超えられない壁があるのだから、事実を素直に認めてしまえばいいのに。ツァレはルヴァシュがルヴァシュとして共にいてくれるだけで満たされるのだから。

 ……今頃、ルヴァシュはどこで何をしているのだろう。一日のほとんどを写本室で過ごすと教えてくれていたが、ずっと同じ作業をしていて飽きないのだろうか。

「ねえ、あんた、どうしたの?」

 物思いに耽る少女の掌の中から、齧りかけの麺麭が取り上げられる。 

「え?」

 半分以上残ったそれで尖った鼻先を軽く叩く女の眼差しには剣呑な光がちらついていた。いつの間にか脳裏に残る少年の気配を拾い集めることに没頭していた少女は、彼女の存在そのものを失念していたのだ。

 エルメリは細い腰と額に手を当て嘆息する。やっぱりあたしの話を聞いてなかったのね、と。その仕草はいささか滑稽に映るほど大げさに誇張されていたが、短い横髪をそよがせる吐息には真摯な熱がこもっていた。

「ダドがね、この間このあたりで知らない人間を見かけたって言ってたのよ」

 記憶の澱に沈んでいた少年の踵の鋭さがくちくなった下腹を重く打つ。

 ――だから、あんたも気を付けなさい。

 その警句は頼る者を喪った自分を案じて発せられたはずなのにどこか不吉な響きを伴って聞こえた。

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