たとえ雪で洗っても Ⅲ

 仄白い、ぼやけた光が灰の双眸の奥底を射す。尖った爪先が僅かながら膨らんだ胸部に沈み、浮き出た肋がみしみしと軋む。圧し掛かるそれは土の湿った匂いを漂わせていて、少女は堪えがたい胸のむかつきを覚えた。  

 口内の擦過傷は臓腑からの酸味に苛まれている。つんと鼻腔を刺激する諸々は出口を求めてせめぎ合っていたが、神官たちに囲まれたこの状況では嘔吐することすらままならない。

 凍てついた光を背に佇む神官の面差しからは一切の感情が読み取れなかった。自身の命に従わぬ家畜を仕方なく鞭打っている。彼の身じろぎから伝わるのはそのような煩わしさだけで、喘ぎ、悶えるけものへの憐憫は見出せなかった。

 成人した男の重みが鳩尾に沈む。

 ひゅ、と細い喉がなり、霞む空には柘榴の汁がぶちまけられた。眼裏では真昼には浮かばぬはずの星がちかちかと点滅する。その輝きは紺青の裾や飾り袖に金糸で刺繍された生命の樹に変化し、無性に腹立たしくなった。

 あの棘は未だツァレから去らず、取り去ろうともがくごとにかえって深く肉に食い込んでいる。不器用な指先は思惑とは裏腹に鋭い破片を体内に押し込み、傷を徒に広げただけだったのだ。

 かさついた皮膚を突き破り、血の管の中に入ったそれがどこにあるのかすら、もはやわからない。だが、ここで何もかもをぶちまけてしまえば、楽になれるかもしれなかった。どろどろと粘つく胃液は、ずっと昔から胸を蝕んでいた氷の粒も何もかもを押し流してくれるはずだ。もしかしたらその中にはあの柘榴の棘が混じっているかも……。 

 腹の底に溜まった不快感が捌け口を求めて迫り上がる。

 頑なに閉ざしていた唇の隙間から淀んだ黄色の液体が零れた。細い顎を伝って流れる濁流は穢れ一つ赦さぬように磨き上げられた長靴をも呑みこみ、少女の上半身を濡らす。

「この、」

 その惨状は激高した神官が拳を振り下ろすことを躊躇うほどだった。吐き出した汚物に塗れたけものは、砂埃と自らと他者の血と胃液に彩られたその面をくしゃりと歪める。

 葉を落とした木立の隙間で翻るそれは、天頂ではなく地平線の色。大地と天空が交わる場所の柔らかな青だった。

 乾いた一陣の風が吹き、饐えた臭気を薙ぎ払う。木の葉を散らし枯れ枝を騒めかせるそれは金属の澄んだ音――祈りの刻の始まりを居並ぶ者たちに知らしめた。地に爪立てるけものにも、湿った幹を掴む少年にも。七つの天の向こうの至高神に届けと打ち鳴らされる鐘。からからと清澄な律動はふとした折にもの悲しく反響する。

 異教徒や異端を駆逐すべく遠方に赴いた亡き勇士たち。亡き彼らを讃える葬礼の鐘の音はいつまでも鳴りやまない。

「行くぞ」

 ツァレは自らの掌に爪先を押し当て吐瀉物を拭った男の背に冷めた一瞥を投げる。歯が軋むほどに食いしばっても滲む本能的な涙で覆われた眼は、差し出された華奢な手を捕らえた。

 至聖所を温かに照らす銀の燭台に立てられた蝋めいた五本の指の白さは、先端の爪の薄紅のためにより一層鮮やかだった。


 取り巻く木々と空を映した泉は時折魚の影が過る。小さな、血まみれ掌が研ぎ澄まされた水に浸される。指の隙間から零れ落ちる水に唇を寄せると悪寒が奔った。あらぬところに入った水は凍えるほどに冷たく、不快な酸味に苛まれた喉は清冽なそれすらも跳ね除けて縮こまる。

「だ、大丈夫?」

 まろみに乏しい薄い背を撫でる指先は偶然にいつのものとも判然としない青痣を掠め、忘却していたはずの感覚を蘇らせた。暗い澱から這い上がってきたそれは鈍く疼き、耳にこびり付いた鐘の音と一体となって少女を苛む。しかしツァレは要らぬ苦痛を齎す手を跳ね除けたいとは思わなかった。

 擦り切れた布越しに伝わる熱と柔らかさは踏みしめられ、凝り固まった心をゆるゆると解す。穏やかな熱はひび割れた大地を打ち付ける滋雨のごとく乾いた心に染み入り、陽だまりよりも柔らかに肉付きが悪い四肢を包む。

「ごめんね」

 ルヴァシュは何故だか申し訳なさそうに――彼自身がツァレを打ち付けた訳ではないのに――苔色の目を伏せている。

 丸い頬に落ちる懊悩は、年相応の幼さが残る横顔に大人びた陰影を与えている。少女は凪いだ水面を見据える少年に、我が子を残酷な牙から救うべく狐の巣穴に潜り込んだ母羊の姿を重ねた。

 父の低い声で歌われた物語の主人公は最期にはあえなく狡猾な獣の腹に収められてしまう。ツァレは彼女の勇敢さに胸躍らせ、白い体が血の海に沈むたびに欲深い狐に憤りを募らせたものだった。

 伸ばせば互いの手と手が触れ合うほど近くで身を寄せ合いるのに、ルヴァシュの心は遠い所にある。

「……なにが?」

 彼をこちらに引き戻すべく発した囁きの返事はない。

「ねえ」

 一抹の怒りと不安、そして焦燥が痛む頭を掻き乱す。千々に乱れるそこから身体の隅々に広がる騒めきは鋭いいばらの藪に潜って摘み取った木苺を思い出させた。

 幾つもの引っかき傷と引きかえに得たあの果実はただ甘いだけだったのに、胸を焦がすそれには苦味が混じっている。

 ついに堰切って溢れだした困惑のうねりは脆い堤を押し流した。

「ルヴァシュ!」

 ありったけの力を込めて垂れ下がった青い裾を引く。赤と緑の果実の文様はひしゃげ、白い星は砕け散って蒼穹に呑みこまれていった。

「……ツァレ?」

 二つ脚には赦されていない場所を求めて彷徨っていた視線は降ろされたが、丸い目は驚きに見張られている。

「どうしたの?」

 少年は訝しげに長い睫毛を瞬かせる。

「あ、」

 今度答えに詰まったのは少女の方だった。

 自分があのような――いささか乱暴な行動に出た理由が分からない。ただ一つはっきりしているのは、彼の目が自分の元から離れたことが原因だということ。しかしそれを口に出して説明することなどできるはずがなかった。

 北風と冷水に奪われていたはずのぬくもりが蘇り、凍えた痩躯を燃え上がらせる。生命が流れる管を通って全身に――血色に乏しい薄い頬にまで伝わった。

「えっと」

 何か気の利いたことを言って、ルヴァシュの注意を不自然に赤らむ顔から遠ざけなければ。そうしないと、自分はこのまま死んでしまうかもしれない。人間ではないツァレがツァレでいられるのは生きている間だけなのに。だから、今にも破れんばかりに荒れ狂う心臓には、一刻も早く鎮まって貰わないと困る。

「あたし、今日は“娼婦”って人を処刑したんだけど」

 絞り出した声は掠れ、みっともなく震えていた。

「う、うん?」

 少女は真っ先に今日の罪人に辿りついた自身の頭に失望しながら縺れる舌を動かす。

「その人、どんな悪いことをやったの? ルヴァシュなら知ってるよね?」

 この日最後の葬礼の鐘の音が、静まり返った辺を揺るがした。荘厳な余韻が去る頃には、少年の滑らかな頬はいつか共に食んだ野の林檎よりも赤く色づく。陸に上げられた魚のようにぱくぱくと開閉する口から漏れ出たのは困惑だった。

「あ、ああああああああの、そ、そそそそれは……」

 汗ばむ額を抑える手の甲すら真っ赤に染めた少年の眼差しは潤んでいる。

「そ、その……ツァレは、僕たち神官がいつか“聖霊の伴侶”になることは知ってるよね?」

「うん」

「定められた伴侶を裏切って、他の人と仲良くするのは悪いことで」

 どもり、痞える、蝿の羽ばたきにすら掻き消されそうな囁きは聞き取ることすら困難になった。

「その女の人は、相手が神官だと分かっているのに誘惑して罪を犯させた“罪深い女”だから……」 

 ルヴァシュはしまいには膝に顔を埋め、これ以上の説明を打ち切ってしまった。緩やかな弧を描く髪がかかった首筋は白く頼りない。少年の姿勢は裁きの直前になって犯した罪の重さに打ちひしがれる罪人のそれだった。

「ねえ、ルヴァシュ」

 ルヴァシュは後悔しているのかもしれない。天上に伴侶を持ちながら、この悪しき世界で最も罪深い二つ脚などを気にかけた、自身の愚かさを自覚して。

「じゃあ、あたしたちがここでこうして話しているのもその……“聖霊”は赦してくれないの?」

 吐き出しきれなかった氷の粒が痞える喉は引き攣れ、奇妙な音を漏らす。猛っていたはずの生命の源はすっかり縮こまっていた。ルヴァシュの返答次第では、永久に動きを止めそうなほどに。

「それは、」

 一応は女であるツァレのそれよりも色艶の良い唇が開くと、偽りの神に創り出された世界の全てはツァレから隔てられた。小動物のがさついた気配も、衣服をはためかせる北風の叫びも、意味を成さない振動の塊に――原初に還元された。光も闇もなく、ただ混沌が広がっていた始まりの刻。昨日がない今日まで。

 新たに生み出された世界に存在するのは、見つめ合う一人と一匹だけ。創造主であるはずの少女にはままならぬ世界を支配するのは柔和な笑みを湛える少年で――

 告げられるのは、残酷な裁きと幸福の福音のどちらだろう。

 いずれにせよ卑小なる罪人は彼の裁きを待ち、甘んじて受け入れることしかできない。至高神の決定を覆す不遜は何者にも赦されていないのだから。

「もちろん」

 ――神は言葉によってこの世を創られた。御言葉によって混沌を切り開き、光と闇を、天と地を分けられた。

 祭儀の折に厳かに唱えられる聖句が耳を打つ。偽りの神によってなされた行為であっても、それは確かに世界の始まりだった。

「いいに決まってるよ」

 その宣告が下った時、世界が揺れた。揺れているのはツァレだけかもしれないが、どちらにせよ同じだろう。

「僕たちは“友達”なんだから」

 少年と少女を包む膜もまた言葉によって切り開かれ、時は戻された。醜悪なる神に創られたはずの世界は隅々まで美しく光り輝いている。真っ直ぐな木漏れ日は蜂蜜色に煌めき、波打つ水面に映る像は両者の境界が蕩けて一つになるほどに近しい。

「ツァレはここに来て初めての友達なんだ」

 少年は少女の瞳をじっと見据え、微笑む。だから、これからもずっとここで会おう、と。荒れ、ささくれた手を握りながら。 

 一瞬、緑の鏡の中の娘が自分だと認められず、交わる眼差しを落とした。

 穢れない肌に包まれた指先には血がこびり付いていた。懸命に洗い清めてもなお残った罪の最後の一滴が。

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