たとえ雪で洗っても Ⅱ
鉛色の天から黒点が舞い降りる。よくよく目を凝らせば尖った形が見て取れるそれは、大の男の身の丈をも凌駕した。猛禽はけものたちの居の方角へと恐ろしい翼を羽ばたかせている。地を歩くけものとその家畜がひしめき合って暮らしている彼らの狩場は、ツァレが目指す場所でもあった。
少女は空舞う獣の翼と同じ黒褐色の袖を握り、はしたなく鳴る薄い腹を抑える。しかし狼の唸り声めいたその音はより大きくなるばかりで、自分の空腹の程度を自覚せずにはいられなかった。塩を舐めても水を飲んでも、干した果物を徒に咀嚼しても誤魔化しきれないこの欠乏は、生命を取り込まなければ鎮まらないだろう。飢えた身体は犠牲を求めているのだ。
脂と鮮血が滴る肉を一口頬張れば萎えた手足にはたちまち力が漲り、喉元で蟠る小さな氷の粒もたちまち融けきってしまうに違いない。そうすればツァレは再び狼になれる。鋭利な爪が生え温かな毛で覆われた四本足の獣になりさえすれば、不可思議なぬくもりに遭遇した日のような胸の痛みからも逃れられる。
心臓に刺さった柘榴の棘を、誰かに抜いてほしかった。辛うじて痩せた胸に食い込んでいるに過ぎない聖なる樹の破片が、魂も神の火花も宿らぬ肉の器を砕かぬうちに。
二つ脚と森の獣の世界を分ける境界線に足を踏み入れる。枯れ、おどろに縺れる藪を通り抜けて辿りついた道なき道の先は、厚い雲に遮られた光に照らされてもなお色鮮やかな喧騒が息づいていた。
膝を擦りむいて泣きじゃくっていた幼子は、数瞬の後には涙を拭って立ち上がって追いかけっこに興じる。ツァレと同じ年頃らしき少女も混じる、洗濯籠を持った娘たちは井戸に集まって談笑していた。
「ねえ。あんた、カプサジの方から求婚されたって本当?」
赤く腫れた耳をくすぐる声は堪えようにも堪えきれない喜びとを湛えている。
「ええ。だからもうすぐあんたたちともお別れね」
しかし名も知らぬ彼女の声には一抹の哀しみと不安の影が射してもいた。彼女はいつか住み慣れた巣と家族の庇護の元から離れなければならないのだ。
けものの古老たちは同じ群れの娘と若者による
想う娘が求婚に応じなければ――あるいは彼女の父母が娘を受け渡すことに了承しなければ――男は仲間を引き連れて彼女を盗み出す。どうしても適当な娘と巡り合えなければ、人間の集落に忍び込んで人間の娘を盗み出す。
人間ならば野蛮だと顔を顰めるその行為はけものにとっては自らの武勇と知略を示す絶好の機会でもあり、新たな物語が育まれる母体でもある。そうして生み落とされた伝説は彼らの子や孫の血肉となり骨となって、永久に受け継がれるのだ。
だが恐らく、ツァレの生命がその大いなる流れの一部になることはないのだろう。父母から分け与えられた炎は、ツァレの内側で燃え尽き枯れ果ててしまうのだ。なぜなら、ツァレは人間にも他の二つ脚にも弾かれる孤独なけものだから。
もしかしたら、自分は狼などではなく、群れから逸れた羊だったのかもしれない。
胃の腑からこみ上げ、口内に広がったのは諦観とも失望ともつかぬ感情だった。
白い群れの中でただ一匹の、血がこびり付いて黒い毛をしたみすぼらしい羊。仲間には追われ主には見離されたけものを気にかけてくれるのは……。
一度は押しとどめた嘲りが、引き結ばれた口元を噛み締めさせる。灰色の瞳が見下ろす乾いた大地には、細長い闇が黒々と伸びていた。仄暗い洞窟や鬱蒼とした樹々の下では目立たぬそれは、光の中にいるからこそより鮮明に浮かび上がっていて。
数日前に赤子を浚った禿鷲の影を見とがめた男達の囁きも、甲高い悲鳴も何もかもが遠くなる。水面に映った太陽のごとく揺らめくそれは、少女にとってはもはや自分の眼前で繰り広げられている出来事ではなかった。
鷹の尾羽を付けた矢が虚空を切る。鷲は羽ばたく。折れんばかりに細い足首は闇に縛られたままぴくりとも動かない。
銀の
太陽から火を盗んだ英雄の
栗鼠の毛の隙間から這いより素肌を濡らす赤い液体の生臭さは、あの日に屠った罪人のそれと非常に似通っていた。似ても似つかぬはずの、空舞う獣と地を歩む人間の亡骸がだぶったぐらいには。
急に、心臓が軋んだ。うっすらと開かれたあの嘴に腸を掻き乱されているかのような激痛が全身を貫く。
二本の脚はやがて己が役割を放棄し、痩躯が大地に投げ出される。顔を覆う指の隙間では、けものたちがめいめいの得物――ある者は棍棒であったり、またある者は節くれだった木の枝を握って亡骸を打ち付けていた。二つ脚の肉を嘴に挟んだ鳥に科される罰だ。
天上で全てを目撃したであろう死した彼の仲間に侮られぬように、彼らが復讐を企てられぬほど恐れるようにと、二つ脚は見せしめのために禿鷲を虐げる。見覚えがある杖が振り下ろされると褐色の羽毛が辺りに飛び散り、翼が折れて白い骨がむき出しになった。泣き叫んでいるのは赤子を啄まれた母親だろうか。彼女が尖った石を投げつけると、鳥の胴は砕けて桃色の肉が四散した。黒ずんだ血の色した臓物はぬらぬらと光っている。
広い額に滲んだ汗の珠は薄い頬を伝って首筋にまで流れ、乾いた土に吸い込まれてゆく。
「ツァレ」
骨が浮き出た肩に投げつけられたのは、少年の澄んだ囁きのようであり、女の秘めやかな吐息のようでもある音だった。
「あんたもやらないの?」
振り返ると、長い髪を垂らした少年じみた面立ちの女が立っていた。大きな灰色の双眸を眇めたエルメリこそが、ツァレとこの群れを繋ぐ唯一のか細い糸。同じ群れに属する二つ脚とは異なり、腹を空かせたツァレがうろついていても眉を寄せず、何くれと世話をしてくれる女だった。
山を越えた地からやってきた古老の息子の妻となったために、例外的にこの群れで生まれこの群れで死ぬ女は、じっとりと湿った手を握る。
「ちょっと待ってなさい。今ちょうど、鶏を焼いてるところだったのよ」
エルメリは肉片がこびり付いた枯れ枝を傷んだ銀の髪の少年に渡し、彼女たちの巣へと駆けて行った。エルメリの息子でありツァレを無用に痛めつけた古老の孫である彼は、がむしゃらに棒を振り下ろしている。
倒れ伏した少女はどこか見覚えがある横顔に、過ぎ去った日の彼の祖父と、罪人を屠る際の自分自身の姿を重ねた。なぜならその凛々しい造作には、水鏡に映る自分や父を思い出させる特徴があって――人間の眼を通した自身の姿をありありと突き付けられてしまったから。
血の匂いに刺激された空っぽの胃が糧を求めて蠢き、咆哮を上げた。生え揃った睫毛に囲まれた目が捉える全ては色彩を失い、定まった形状すらも手放して入り乱れる。同時に、凋落した禿鷲はその羽以外の生の痕跡を砕かれ、細かな肉片となり果てた。
自らの意に反して降りる目蓋と抗っていた少女が感じたのは、砂埃に塗れざらつく肌にへばり付く生肉の柔らかな冷たさ。そして肩を掴む誰かの熱だった。
「お前」
少女にしては低いツァレの声音よりもなお低いそれの主は、ふと眼裏に浮かんだ少年ではありえない。彼の声はもっと澄んでいて柔らかい。何よりあの無垢で優しい少年が、恐ろしいけものの群れの中にいるはずなどないのだ。きっと彼が一歩でもこの集落に足を踏み入れれば、狼の
二つ脚の男たちの気性は概して荒い。自らの僅かな財産――家畜や妻子を守るために常に目を光らせている彼らは、群れの外からやってきた者には一切の容赦をしないのだ。遠方から来る客人は、歓待すべき神の使いである一方で、不遜な盗人でもあるから。
このままここに転がっていたら、どんな目に遭うか分からない。
強風に煽られ、かき消されんばかりに揺らいでいた炎が目覚めた。焔はゆっくりと、だが確実に身体の隅々で燻っていた熾火を燃え立たせる。
犬歯の疼きを治める物質を求め開かれた口に、生ぬるい何かが押し込まれる。固く締まっていて、歯を食い込ませれば肉汁滴らせるそれは、飼いならされた家禽の脚だった。大地に身体を横たえたまま、無我夢中で久方ぶりにありついた肉を咀嚼する。細かな骨ごと筋を噛みちぎりすり潰して嚥下すると、燃料を得た炎はますます大きくなった。
金の雫が薄い唇の端を伝う。
鋭い鼻は更なる食糧の気配を嗅ぎ取る。ぎらつく目の前に差し出された籠には、炙った肉と麺麭が盛られていた。
全身の力をかき集め、起き上がって黄金色に焼けた肉を掴む。ふわふわと柔らかい麺麭で鶏肉を挟み、湯気を立てるそれに被りついた。溢れ出る汁を吸った生地は舌の上で蕩け、確かにそこにあったはずの糧は瞬く間に消えてゆく。蛇や鼬の生臭さとは無縁の肉は美味だった。
籠の中身をあらかた平らげると周囲を窺う余力も湧いた。少女は脂がこびり付いた指先を舐りながら周囲を観察する。けものたちの暗い影は落ちていなかったが、代わりに銀の煌めきがあった。
「早く戻らねえと、またジジイに殴られるぞ」
少年は淡い紫の目で蹲るけものを見下している。彼が咥える手羽先にはまだ肉が残っていた。膨れた腹は未だに熱を求めて叫んでいる。
これっぽっちでは積もり積もった飢えはなくならない。
華奢な腕は考えが湧き起こる前に動いた。尖った歯に挟まれた肉に爪を食いこませ、こちらに引き寄せたのはツァレであってツァレではない者だった。
「ざけんじゃねえぞ」
少年は縄張りを荒らされた狼めいた呻りで不遜な略奪者を威嚇する。重い踵が少女の腹部にのめり込むまでに大した時間は要されなかった。
薙ぎ払われ地に伏したけものの擦れた指先は半ば埋もれた何かを手繰り寄せる。しなやかに撥ね、艶めくそれはあの禿鷲の羽だった。
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