そのぶどうは毒のぶどう Ⅱ

 額から右頬にかけて刻まれた刀傷が目立つ老人は片方だけの淡紫の目を細める。杖をつき、不自由な左足を引きずる古老は、遠い集落からこの地まで妻子と共に流れてきたけものであった。若かりし頃の武勇ゆえにツァレが属する群れに受け入れられた彼は、しかし元来は「よそ者」である。彼や彼の一家はそれゆえ、他のけものから厭わしい役目を押し付けられることが多々あるのだ。

「明日、金の葡萄をもぎに行け」

 例えば、理由は定かではないが他のけものからも疎んじられるツァレに、神殿から伝えられた処刑の日取りを伝える労苦はその筆頭に挙げても良いだろう。

 「金の葡萄をもぐ」とはけものたちの特別な言葉で「誰かを殺す」あるいは「戦を行う」ことを意味する。

「はい。わたしは大神ヤシャリの園丁にございますれば」

 少女は父の生前の口上と身振りを真似、恭しく頭を垂れた。

 神殿の解く教えにおいては、至高神はその偉大さゆえに人が彼の名を呼ぶことが禁じられている。人間ですら舌に乗せてはならぬ神聖な音を、罪深き二つ脚が発して良いはずはない。しかしけものたちは神を「ヤシャリ」と呼び表すのだ。妹であり妻である女神ダルジと仲違いした後に男を創った、世界の善の創造主と。

「“神の園丁”などと、どの口がぬかすか! 忌々しい悪魔の僕めが」

 古老は憤慨と不機嫌もあからさまに右手の杖を振り上げる。擦り減り、砂に塗れた木は骨が浮いた肩を抉り、枯れ木同然の腕を打った。

「――っ」

 少女は予期せぬ嵐の訪れに目を丸くする。ざんばらに切り揃えた前髪の合間から覗く老いたけもの形相は、悪鬼と見紛うほどだった。自分ではどうしようもない何かに憤っている顔だ。

「なりを繕うても、お前の本性は変わらん」

 荒く息を弾ませる老いた男は銀色の後頭部目がけてもう一度杖を振り下ろす。

 ツァレは、どうして彼が自分に暴力を振るうのか分からなかった。

「お前は所詮、あの恥知らずの娘だ」

 亡き父が悪し様に罵られる理由も、他のけものたちが仲間であるはずの自分を爪弾きにし、必要以上に関わろうとしない原因も。

 古老は身体の均衡を崩しながらも、少女を最後の一撃で打ち据えることは忘れなかった。

「う、」

 が、と鈍い音が湿った岩壁に反響し、か細い身体はとうとう硬い褥の上に倒れ込む。薄い肉越しに伝わった衝撃は脆い骨を揺るがし痩せた身体全体に反響し、か細い身体では受け止めかねる大きさになる。

 しかし少女は尖った犬歯で薄くひび割れた唇を噛みしめ迸る悲鳴を押し殺した。ツァレをツァレたらしめる何かが、猟犬に追われる狐か猫に捕らえられた鼠よろしく甚振られても、このけものの前で苦痛を訴えることを赦さなかったのだ。神官たちに踏まれ罵られてもなお砕けぬ矜持は、父から受け継いだ大切な、決して手放してはならないもの。二つ脚と言葉を解さず火を扱わぬ他の獣を隔てるものなのだ。

「呻き声一つ上げねえのか。つくづく親父とお袋両方に似て可愛げがない子供だ」

 赤く染まった目蓋の裏では夜空にしか浮かばぬはずの星が点滅し、泥跳ねが目立つ黒褐色の踵も、洞窟の入り口に掛けた穴だらけの牛の皮も――乾いた灰色の眼に映る全てがぐらぐらと揺れる。

 散々に打たれた箇所は熱をもち、魂を宿さぬ心臓が脈打つごとにじくじくと痛んだ。血の巡りと共に全身に猛毒が回っているのかと錯覚してしまうほどの痺れは、普段は固く押し込めているはずの頑なな堰を切り、押し広げる。

 物心がついたばかりの頃の、けものの子供たちの群れに入ろうとして拒絶された日の、白々とした太陽の光。初めて神官たちに殴打された日の、柘榴の葉の隙間から眺めた空の青さ。目に入ればやっかいな黄色の土埃に、日当たりが悪い原の痩せた牧草の緑。いつの間にかひたひたと忍び寄っていた夕闇の黒と紫。そして他の何より鮮やかな血と臓物の赤。

 精彩に乏しい感情はそれでも勢いよく溢れだし、乱れた脳内を様々な色で塗りつぶす。

 奥底に仕舞われた最も古い記憶はか細い意識が暗黒に呑みこまれるごとに鮮明になり、やがて少女の現在を呑みこんだ。


「ねえ、あの子のこと、聞いた?」

 山を一つ越えた群れからやって来たけものの女は、薔薇色の頬した子供を抱いていた。小耳に挟んだ噂が正しければ、あれは彼女の五番目の子供だったはずだ。赤子は母の温もりと柔らかさに守られ、すやすやと寝入っていた。

「母親はあの子を産んで死んでしまったんだってね」

 同じく見覚えがない顔立ちの女は、はちきれんばかりに膨らんだ腹を撫でながら片頬を歪める。 

「きっと、罰を受けたのよ。だってあんなこと――そりゃ神様なら話は別だけど――犬や猫だって、他に相手がいるなら……」

 身籠った女の唇から滴り落ちた言葉の仔細は曖昧だが、彼女の意図は幼かったツァレにもはっきりと察せられた。

 ――あたしのおとうさんとおかあさんは。

 ツァレの父母は至高神に与えられた、守るべき決まりに背いた。そのために彼らの間にできた子供の多くは生まれながらに息をしておらず、あるいは流れてしまったのだと。天上界でもっとも年若く位が低い女神でありながら、至高神を知ることを欲した彼の娘「智慧」が、父なる神への熱情ゆえに独りでに孕んだ子を月足らずで産んだように。彼女の子――この世を創り出した闇の主が、処女おとめの肉体に雄獅子の頭と男の徴を備えた、母親にすら恐れられ下界に投げ捨てられる醜怪な容貌をしていたように。

 言いようのない恐れにしがみ付かれた幼児は、一刻も早くこの薄暗く冷たい荷を降ろすために洞窟の父の元へと急いだ。

「ねえ、おとうさん」

 父は頬を蒼ざめさせ、息を切らせながら舞い戻ってきた我が子を抱きしめてくれた。がっしりとした腕は温かく、少女は心の底から安心できた。優しい父が、あの意地悪な女たちですら明言することを避けた大罪を犯すはずはない、と。

「あたしたちはけものなのに、なにかわるいことをしたら人間とおなじように罰をうけなきゃならないの?」

「まさか」

 泉の淵を除き込めば映る自分のそれとそっくりな双眸には揺らぎや迷いはない。

「俺たちがこれ以上どうやって罰を受けるんだ?」 

 だが声音には僅かながら隠しようがない躊躇いが潜んでいて、背筋に張り付いた恐怖は大好きな体温ですら融かしきれず、ますます冷たさを増すばかり。

 圧し掛かる寒気に耐えかねた少女は勇気を振り絞ってこう呟いたのだった。

「じゃあ、あたしのおかあさんやおにいさんやおねえさんはどうして死んだの?」

 父はその問いには何一つ――それこそ瞬きや溜息すらも返さず、凛々しい目を驚きに見張って娘の顔を見ていた。そしてしばらくして父は、

「お前、もしかして独りで村に行ったのか」

 とだけ呟き、小さな頭をそっと撫でた。罪人の血がこびり付いた、赤い爪をした手で。硬い掌は鉄錆の臭気が沁み込んでいてもなお慕わしかった。

「だめだったの?」

「駄目じゃないけど、あそこには怖いやつらが沢山いただろう?」

 幼子は頭を振り、父の指先をひしと握り締める。母の乳房に吸い付いて離れぬ赤子の無垢な仕草は、少女に向けられる眼差しを再び柔らかなものにした。

「いいか、ツァレ」

「なに?」

「お前のお母さんが死んだのは、運が悪かったせいだ。誰のせいでもないことなんだ」

 その言葉とは裏腹に、丸い頬の産毛をそよがせる吐息は深く重かった。

「お前の兄さん姉さんが死んだのは、ヤシャリに捧げる羊を分けてもらえなかったからで、」

 それでもあの日のツァレは、厚い胸板に隠された懊悩に気づけなかったのだ。

「だから俺は、お前が生まれた時にはここらで一番立派な羊を長老にこっそり借りて・・・・・・・生贄にしたんだ。だからお前は風邪一つひかないでこんなに元気に育ったんだ」

 なぜならこれまた自分によく似た面に広がる笑みからは、違えようのない愛が伝わって来たから。

「お前はお前のお母さんにそっくりだ。お前は俺の宝だよ」

 顔も覚えていないのに、時折古傷が疼くような懐かしさに駆られ求めてしまう母も、ツァレが生まれる日を楽しみに待っていた。そう聞かされて、ささくれだった心は大いに慰められた。

 あの日の二人組の片割れの女の子の息の根は流行り病によって絶やされた。もう片方の女の子供は、狼に食い荒らされた無残な姿で発見された。また、神殿兵に牽かれて採石場に赴いた女たちの番は、落石に砕かれた。熟れ、爆ぜた柘榴さながらにひしゃげた頭部は直視に耐えぬ有様だったらしい。

 夫を喪った女たちは、彼女らを守る親類のない村で緩やかに孤立し、やがて飢えて死んだ。自らを嘲った者たちの無残な末路を風に乗って届いた囁きから知った少女は、溶け残った氷の存在自体を忘れていたはずだったのだ。


 寒風に煽られる獣の皮がぱたぱたと揺らめく。すっかり鼻腔に馴染んだ臭気に呼ばれて目蓋を上げた少女の瞳に飛び込んできたのは、大地に落ちゆく木の葉よりも紅い空だった。

 常ならばしなやかな関節は凝り固まっていて、老いたけもの怒りを浴びた箇所は熾火のように燻っているのに、粗末な衣服に包まれた手足は芯まで冷え切っている。これでは明日の処刑に支障を来しかねない。もしも罪人を徒に苦しめてしまったら、ツァレもまた無用な苦しみを味わうはめになる。それはできる限り避けたかった。

 こんな日は干した肉と野草の夕食を早めに摂り、さっさと寝入ってしまうに限る。穏やかな眠りは執拗な痛みを退散させ、元の健やかな肉体に戻してくれるはずだ。微かに父の匂いが残る山羊の皮は、安らかな夢を見させてくれるかもしれない。

 なのになぜここにはいない誰かの面影を思い出して、こんなにも胸が軋むのだろう。彼と出会うまでは半ば諦め交じりとはいえ慣れ親しんでいた孤独を厭わしく感じてしまうのは、いつか自分もその一部となる闇を恐れるのはどうしてなのか。洞窟の暗がりは最も古い友であるはずなのに。

 ――ひとりは、寒い。

 光に照らされた苔の色した双眸の温かさは、いつの間に虚ろな胸の隅々にまで根を張っていたのだろう。

 少女は鶏明まで尽きることのない謎の答えを追い求めるが、結局得られたのは不眠に蝕まれた気だるい肢体。そして前回よりも一層峻烈になった罰だけだった。

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