そのぶどうは毒のぶどう Ⅲ

「ツァレ。それ、どうしたの?」

 白く滑らかな――蛇の腹を連想させるひんやりとした指が痛々しい桃色に染まった頬に触れると、硬いあばらに守られた胸の奥が締め付けられた。雛鳥の羽毛で撫でられているかのように軋むそこは、何故だか神官たちに横腹を踏みつけられ、苦しさのあまり息もできなかった半刻前よりも激しく脈打っている。ツァレが住む洞窟に足を運んだ少年に誘われ、いつもの泉まで散策に出て以来ずっと。

「うん。ちょっと殴られちゃって」

 少女は向かい合う少年の不安を払拭させようと勢いよく薄い唇の端を吊り上げる。その際に広がった擦過傷はひりひりと疼き、舐めるとむせ返る鉄錆の味がじわりと舌の上に滲む。臓腑からせり上がってきた酸味と不愉快な苦味の混合物はいつかの薬草めいていて、懐かしい日を思い出させた。

「また神官さまたちに?」

 森の木々が見守る中ルヴァシュと出会った、これまでの生涯で最も輝いていた夕暮れを。

 あの夕陽は地に落ち土に塗れた柘榴のように、鮮血滴る心臓のように赤かった。少女の白皙の皮膚や衣服を濡らす血潮とは比べ物にならないぐらいに美しかった。

 できれば近いうちに、彼と一緒に沈みゆく夕陽を眺めてみたい。ツァレの飲み水の供給源であり水浴場でもある泉の近くの、楢の大木の上で。ルヴァシュは木登りを不得手としているようだが、自分が手を貸してやればなんとかなるはずだ。

 彼はきっと、ツァレのそれよりも丸みを残す頬をほころばせるだろう。――ツァレはやっぱりすごいね、と。癖がある前髪に隠れて分からないが、よくよく覗うと存外にくっきりと通った眉を下げて。緑の目を夜空の星のように煌めかせながら。

 ルヴァシュの笑顔には喉を鳴らし母犬にすり寄る仔犬に通じる愛嬌がある。そしてツァレは、彼のそんな表情を好ましく思っているのだ。この顔をずっと見ていたいと、叶わないと分かり切っている願いを抱いてしまうぐらいには。

「……まあ、そんなとこ」

 少女はいかにも蟻を探しているというさりげない体を装い、殴打によるものではない不自然な頬の赤らみを少年の眼から遠ざける。

「あたしはまだお父さんみたいに上手くできないから、仕方ないんだよ」

 実際は、少年が痛ましげに眉を寄せて眺める殴打の痕は、昨日けものの古老に杖で打ち付けられたためにできたものであった。熱こそは引いたものの未だにくっきりと赤らんでいる腫れが引くまでには、一体幾つの朝と夜が巡ればよいのだろうか。できれば片手の指で数えられる程度であってほしい。あの澄んだ瞳が憂いの雲に覆われると自分まで悲しくなってしまうから。

「ねえ、ツァレ」

 黒雲から垂れる雨のように、密やかに零れ落ちた声に応じて振り返る。

「僕、ずっと考えてたんだけど」

 黄金の水面を背に立つ彼の細い身体は白金に縁どられていて、あまりに眩くて直視できなかった。

 子守歌代わりに父にせがんだ、落日の刻の物語。無謀にもその光に挑む者はかわうそ以外のどんな動物でもその目が潰れるが、頃合いよく獺の毛皮を清らかな泉に浸せば同じ重さの黄金に変わるという。幼かったツァレが胸躍らせた黄昏の光芒は、不毛の荒野の程近くに住まう二つ脚が川底に沈めた羊毛から集める砂金は、このような輝きなのかもしれない。

「なに?」

 少女は曇天の空を映した双眸を眇め、赤黒く濡れた手で影を作る。父を喪って以来ただ独りで生きるツァレが光をも失うこと。それは即ち死を意味するのだ。

 少年の薄い茶の毛髪は陽光に透かされて糖蜜色を帯びている。少女はふと、彼がこのまま光明に蕩けてどこかに――二つ脚には手が届かない場所に行ってしまうかのような奇妙な不安に駆られた。

「言いたいことがあるなら、早く言って」

 神妙な面持ちで押し黙ったままの彼にしびれを切らし、青い袖を引いて続きを促す。その時の彼の面に過った年相応の驚きと不安は、彼を聖霊に等しい存在から迷い多き人の子に押し戻した。

「ツァレは、その、あの……」

「もっとはっきり」

 来るべき冬の、剣のごとき鋭さを纏った風が少年と少女の肌を刺す。薄い頬や首筋を縺れた毛先に撫でられると、尾骶骨から脳天にかけて怖気を震わせる寒気が這い上がる。

「たとえ初めて会った人でも、誰かが死ぬのって、辛いと思わない?」

 この世に死をもたらした者の吐息を思わせる旋風がびょうびょうと吹き荒ぶ最中でも、柔らかな弧を描く唇から押し出されたものは鮮明に悴んだ耳に届いた。

「僕は、ナナお姉ちゃんが死んだ時、とっても悲しかったから」

 伏せられた薄い目蓋の奥に潜むのはかつて己も舐めた苦み――肉親を喪った悲哀だった。

 ルヴァシュの年の離れた異母姉ナナ。生まれてすぐ母に旅立たれた異母弟を育て、やがて望まれて隣の村の青年に嫁いだものの、難産のために赤子ともども命を散らした儚い女性。

「僕だけじゃなくて、お父さんやお兄ちゃんたちもみんな泣いて。特に、お義兄さんは……」

 彼女の夫は妻と初めての子を喪った哀しみを受け止めかね、谷底に身を投げて自死してしまった。

 いつかの午後にルヴァシュがぽつりぽつりと吐き出した火山の麓の彼の故郷スタヴ村での和やかな日々は、ツァレにも馴染みのある――その断片を知るのみの父母の生涯に似通った悲劇で幕を閉じるがゆえにもの悲しい。とうとう探し出せなかった義理の兄の亡骸の代わりに、彼の遺品を埋葬した墓所に花と葡萄酒を供えた少年の嘆きは、冷たい父の身体を掻き抱いた日の己のものでもあったから。

「ツァレも、ほんとうはあんなこと――処刑をするのは嫌なんでしょ?」

 歳月で薄められてもなお飲み干せぬ哀しみの葡萄酒の雫は、人間の上にもけもの上にも平等に降り注ぐ。そしてその酒は涙ではなく血の色をしているのだ。

「……」

 他のけものたちに「頭の血の巡りが悪いのではないか」と揶揄されることがあるツァレでも、ルヴァシュの意図するところははっきりと理解できた。

「処刑をやめたいって思わない? 他の人に代わってもらうことはできないの?」

 彼はきっと、処刑のたびに怪我を拵える自分の心配をしてくれているのだろう。ツァレがほとんど毎回神官たちの怒りを買い暴力の的となるのは、ツァレが罪人の死に動揺するあまり、手元を狂わせてしまうからなのだと心を痛めて。

 少女はそっと小さな頭を傾け、ひたひたと忍び寄る波に身を任せる。音も気配もなく接近し、骨が目立つ足首を掴む漣は哀しみではなく、怒りでもない。もっと温かで明るい、喜ばしいうねりだった。

 自分は、彼にとっては、このような心配をされるに値する存在なのだ。ルヴァシュは、自分のことをこんなにも真摯に考えてくれている。ただそれだけで、腹の底から熱い塊がこみ上げてきた。久方ぶりに新鮮な肉を食したかのごとく身体が燃える。芯から生み出された炎は全身に広がり、肉付きが悪い肢体を重く戒める苦痛を遠くへ押しやった。気だるかった身体は羽が生えたように、あるいはただか細いばかりの手足が狼の太く力強いそれに化したのかと錯覚してしまうほど軽い。

「大丈夫!」

 横溢する歓喜は弾けんばかりの笑顔となって溢れ出る。精彩に乏しい面を彩る輝きは少女とも少年ともつかない中性的な面を娘らしく――ごく普通の人間の少女と見紛うほどに華やがせた。

「あたし、知ってるもん」

 大きさよりも鋭さや凛々しさが際立つ眦は柔和に垂れ、血色に乏しい頬や唇は大杯に注がれた葡萄酒を飲み干したのかと見紛うまでに紅潮する。

 少女は祭事の最中の都の路地のあちこちに転がる酔人か佯狂者ようきょうしゃの足取りで闊歩し、いと高きところから彼らを見下ろす楢の樹の目がけて駆け出した。

 少年を地上に残し樹上に登った彼女は森の恵みを携え大地に舞い降りる。

「処刑って、こういうことでしょ?」

 光の加減によって青にも紫にも艶めく山葡萄の実は熟れ、甘い匂いを発していた。

「ルヴァシュも言ってたじゃない――熟した葡萄は、摘み取らなきゃなんだって。そうしないと葡萄酒は作れないんだって」

 鼻腔をくすぐる芳醇な香気の誘惑は抗いがたく、少女はおもむろに二粒をもぎ取った。

「神官さまたちだって、犠牲の羊を屠ったりするじゃない」

 一つを少年の掌の窪みに、もう一つを自分の舌の上に乗せる。

「ツァレ?」

 皮も向かずにそのまま放り込んだ葡萄の実は匂いとは裏腹に甘さよりも酸味が勝っていて、とてもではないが美味とは評しがたかった。

「人間だって罪を犯すとあたしたちとおんなじけものになる。自分の物じゃない家畜がいなくなったって、惜しむ人は誰もいないでしょ?」

「でも、人間は羊や山羊とは違うよ」

「おんなじだよ! だって、お父さんがそう言ってたもん――神様が決めたことに逆らったら、罰として魂を砕かれるんだって」

 獣の遠吠えに怯える幼い娘に父が語り聞かせた物語は、人間の言葉を解する禽獣や太陽から火を盗んだ英雄が闊歩する、摩訶不思議なものだけではなかった。父はツァレがせがむと、語り継がれている限りの二つ脚の歴史を紡いでくれたのだ。

 日当たりの良い肥えた草地を巡って人間と繰り広げた争い。敵に攫われた妹を奪い返すべく奮闘する兄たちの雄姿。

 胸躍る物語には幾つかの事実だとされている冒険譚が紛れていた。

 心奪われた人間の女を手に入れるべく知恵を巡らす賢いけもののは、数多の困難に打ち勝ちついに望んだ娘を妻とする。神の怒りに触れたために魂を砕かれ、処刑場に牽かれていった哀れな娘を救い出して。

 ――俺たちの母親もなあ、わざとではなかったけど掟を破ったせいで……。

 この人間と同じ形をしていながらも魂を有さぬ肉体にも、かつて人間だったけものの生命が流れている。人間と二つ脚はもとは同じ土から創られた生き物なのだから、血を混ぜ合わせることはできるのだろう。

 再び葡萄を差し出すと、ルヴァシュは震える手でそれを受け取った。

「……そんな風に言われているところもあるらしいけど、それは、」

 少年の柔和な面差しが歪み引き攣れているのは、葡萄の渋みのためだろう。だがそれにしては、彼の眼差しは暗く翳っている。その上、うっすらと潤んですらいた。

「それ、いらないの?」

 紫と赤の汁に塗れた指先が、揺れる白い手の中の最後の一粒を掠める。 

「え、あ、そんなこと……」

 少年と少女の指の間から転がり落ちた葡萄は栗鼠皮の靴底に押されてぐしゃりと潰れた。

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