そのぶどうは毒のぶどう Ⅰ

 ひび割れた楢の大木の幹をそっと撫でる。乾いた暗褐色の肌はぼろぼろと剥離し、内部の洞を、冬ごもりの支度をしていた蟻たちを露わにした。

 突然に冷気に晒された蟻は、この世の終わりが近づいたと言わんばかりに慌てふためいている。世界の終焉はいつか始まるものだが、人間の中に閉じ込められた神の火花が至高神の元に帰還するまでは決して訪れないのに。

 ささくれが目立つ指を伝い、芯に柔らかさを残す掌に登った蟻は円らな目でツァレを見つめている。二本の触角を訝しげに振る彼らは、いつもツァレの頬を緩ませるのだ。

「ルヴァシュ、来て!」

 楢の側の泉の淵に佇んでいた少年が小走りに近寄ってくる。彼の青い衣の裾には赤い実をつけた生命の樹が刺繍されていた。

「黒い蟻がいたの。この蟻はとっても力持ちなんだよ」

 そっと、黒い粒たちが落ちぬように、滑らかな手の甲に移してやる。

「……へ、へえ」

「蚯蚓をあげるとね、蟻は小さくて蚯蚓はとっても大きいのに、みんなで一緒に持ち上げて巣まで運んだりするんだよ。凄いでしょ?」

 ルヴァシュは蟻が潜んでいた楢の幹に生す苔そっくりの双眸を瞬かせ、蠢く者たちを見つめた。

「う、うん。凄いね」

「ほんとにそう思ってる?」

「……」

 ツァレは、少年の柔らかだがどこか強張った――そもそも蟻は至高神が定めた穢れた動物に分類される生き物であるので、見習いとはいえ神官である彼が蟻との接触に戸惑いを表すのは当然なのだが――返事に不服を覚え、少女にしては鋭い目を眇める。向かい合う少年の手つきはいかにもぎこちなく、心からは蟻と打ち解けられていないようだった。

 そうだ。あれを使えば。

 少女は得意げな笑みを薄い口元に刷き、腰にぶら下げている袋の口を解いて中指ほどの長さの棒のような物を取り出す。暇な折にあちらこちらを探し回って集めた死骸は干からびていたが、大地と命を宿していたもの特有の生臭さを残していた。

「ツァレ」

「なに?」

「それ、まさか……」

 少年は少女が握るものが何者であるかを察知し、さっと頬を蒼ざめさせる。

「うん。蚯蚓だよ。蟻は蚯蚓が好きなんだよ」

 少女は彼の怯えた様子もお構いなしに、震える肌の上に一際肥えた蚯蚓の亡骸を置いた。蟻たちは与えられた餌に狂喜し、踊り狂いながら獲物の身体にかぶりつき、彼らにとっては重すぎるだろう赤茶の枝を仲間の許まで運ぼうともがいている。微笑ましい、ツァレは大好きな光景なのだが――

「う、うわあああああぁぁ!」

 蚯蚓を乗せられた少年は甲高い絶叫をあげ、さっと手を裏返した。よくよく観察すれば彼の華奢な肩は震えていて、目元にはうっすらと光るものがある。

「ご、ごめんね」

 さすがに罪悪感を覚えたツァレは、悪魔に出くわしたかのごとくしゃがみ込み、荒い息を吐く彼の肩に手を置いた。

「あたし、ルヴァシュが蚯蚓が嫌いだったなんて知らなくて」

「……別にいいけど、」

 煌めく滴を青い袖で拭った少年は髪よりも濃い茶色の眉根はきつく寄せる。彼にしては珍しく怒っているのだ。


 神官とは来るべき時に聖霊の伴侶となるべく純潔を守り、また何よりも穢れを厭う者である。その証拠に、神殿にはあらゆる穢れは――特に血や病、死の気配は持ち込んではならぬのだと禁じられ、破った者は罰を受けるのだ。

 だのにどんな動物よりも罪深い二つ脚に「友達になりたい」と言い放った少年の言葉は熟考するまでもなく奇異なもので、ツァレは最初は彼の言葉を受け入れることができなかった。もしかしたらこの少年は神官に化けた奴隷商の手先で、耳に快い甘い言葉で自分を唆そうとしているのではないかと。

 最初の女は蛇の甘言に唆されて神の怒りを買う事態を招いた。だから人間の男達は女を「愚かな生き物」と呼ぶし、それは二つ脚においても同じである。同じ集落のけものの古老たちは、男は至高神によって神の園に生える葡萄の守り人として創られたのだと語る。一方女は、地下世界の主である悪しき女神に送り込まれた闇の手先であるらしい。

 父は例外的に優しくて、娘が生まれてすぐ妻が死んでしまってからも、ツァレを育ててくれた。だが他の男達ならば、きっと獣に喰わせていただろう。父が死してからは、この世で唯一のツァレに優しくしてくれる存在となった二つ脚の女。彼女からそんな話を聞くごとに、骨が浮いた背筋は恐ろしさに凍った。父やツァレと同じ傷んだ銀の髪に灰色の眼をした女が、麺麭パンや羊の肉と共に差し出す忠告を丁寧に咀嚼して呑みこんだものだった。

「……あたしは女だけど、あんたよりは強い」

 ほんの一瞬とはいえ揺れ動いた心を固く引き締め、頼りない首筋に刃を向ける。白い皮膚の下の青い管に刃を当てると、抑え込んだ身体がびくりと震えた。

「今ここであんたを殺すこともできる」

 人間も獣も、首に這う血の管を断ち切れば遠からず死を迎える。迫りくる恐怖に怯える少年はこれに懲りて二度と優しく愚かしい嘘などつかないだろう。少なくとも、ツァレ相手には。

 そんな期待と共に発した決意は、しかし少年の囁きによってあっけなく吹き飛ばされたのだった。

「女?」

 少年は、驚きを滲ませた声色で無礼極まりない文句を吐く。

「きみ、男じゃなかったの?」

 確かに泉の水面に映るツァレの面差しは、少年とも少女ともつかない性の区別が曖昧な造りをしている。また、種類を問わず女は髪を伸ばすものなのに、ツァレの髪はどうにか肩に付く程度の長さしかない。夏の暑さと煩わしさに負け切り落としてしまったから。

 だがそれでも、たとえ父が人間の棲み処から調達してきた男物の衣服に袖を通しているとしても、紛れもなく女である自分を男と間違うとはどういうことだ。

「違う! あたしは、」

 薄い胸の間から生じた熱は喉にせり上がり、血の巡りに乗って全身に広がる。しかし怒りに燃える手足は何故か萎え、それまでの力と威勢を失ってしまった。

「だったら、余計に自分の身体を大事にしないといけないんだよ」

 少年は肉が薄い身体をそっと押しのけ立ち上がった。彼は衣服に着いた落ち葉の欠片を払い、一連のやり取りの馬鹿馬鹿しさのあまり項垂れる少女にもう一度薬草の束を差し出す。

「これをすり潰して傷に塗って。少し沁みるかもしれないけれど、きっとすぐ良くなるから」

 少年の気迫に負けて受け取った草は瑞々しく、青々としていた。

「じゃあね。えっと……」

 木々の隙間から侘しく辺りを照らす落ちかけた陽を浴びたありふれた草を尊く感じた理由は恐らく一生分かるまい。

「あたしはツァレ」

 去りゆく少年の背にたわいのない問いを投げかけた意味も。

「あんたの名前はなんていうの?」  

 少年は幸福そうに――ようやく母に巡り合えた迷える子羊のように、小さな我が子を長い探索の果てに見出した雌羊のように微笑んだ。

 彼に貰った草は少し・・どころか大層傷に沁みたけれど、その分よく効いた。

 ルヴァシュは、ツァレが礼にと持ち寄った苔桃を喜んで食べた。旬の時期に採取し干して蓄えておいた実は酸っぱかった。

「これ、美味しいね」

 少女は苔桃も長い冬を越すための貴重な食糧であったことに気づいたが、それもすぐに忘れてしまった。

 ルヴァシュといると耳の奥でざわざわと牧草が揺れる音がする。ペテルデで最も天空に近い白き山々からの雪解け水と黄金の日差しで育まれた、極上の若草の海が爽やかな風を受ける様が眼裏に広がるのだ。ツァレは母の胎から出てからずっと、恐ろしくも頼もしいけものたちの母なる森の中にいて、一面の草原や青い水の塊などこの目に映したことなどないのに。これからも目にすることはないのに。

 ――ルヴァシュはきっと、あたしのこと蟻みたいに思ってるんだ。  

 少年と少女が森の泉の側の楢の樹の元に並んで、団栗を埋める栗鼠の愛らしさに目を細めるまでになるには、大した時間は掛からなかった。闇の主である神による天地創造から今に至るまでの年月と比較すれば、まさしく瞬きほどの間の出来事だっただろう。

 だがそれは、少女と少年にとってはかけがえのない時であり、その日々にツァレは様々なことを学んだのだ。

「ツァレは水切りがとっても上手なんだね」

「べつに普通だよ」

「そう? でも僕が投げた石はすぐ沈むのに、ツァレのはよく跳ねるよね」

「水切りにはコツがあるんだよ。走るのと同じ。……後で教えてあげようか?」

 父以外の誰かと――同じ年頃の少年と親しく言葉を交わすのは、茨の隙間から木苺を見つけたかのようの心躍る出来事だということを。ルヴァシュのぬくもりが側に在れば、父を喪って以来ツァレにしがみ付いて離れなかった、山羊の毛皮だけでは堪えきれない寒さと侘しさを忘れられることを。

「ルヴァシュ。これ!」

「え、なに? まさかまた……」

「違うよ。ほら!」

 少女は未だ蚯蚓の件を引きずる少年に野生の林檎の実を投げてよこす。果実は見事な弧を描き、少年の掌ではなく右肩に吸い寄せられていった。

「あ、ごめん」

 打音と呻き声はくぐもっていた。

「……べ、別に、そんなに痛くなかったから」

「そう? 凄い音したけど」

「……うん」

「だったら大丈夫だよね? それ、すっごく美味しそうだから一緒に食べようよ」

 冬の気配が増すごとに乏しくなるばかりの、森の色彩を集めたかのように艶めく実は赤い。これを食べれば頑固な少年も機嫌を直すだろうと思い取ってきた林檎は小ぶりだが、光に愛された味がするだろう。

「あのね、ツァレ。虫を触った手で食べ物に触れるのは良くないんだよ。ちゃんと手を洗ってからじゃないと」

 案の定、ルヴァシュはぶつくさぼやきながらも林檎を袖で拭っている。

「あたし、もう二度とあんなことしないし、これからはルヴァシュの言う通りにするよ」

 少女は彼の真似をして林檎を磨こうと袖を手繰り寄せたが、そこではたと動きを止めた。

「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」

 袖に精緻な刺繍が施された青衣には染み一つ見当たらないのに、自分が纏うそれは大小も濃淡も様々な血の跡がこびり付いていたために。

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