汝、殺すなかれ Ⅱ

 神殿を中心とした都を囲む城壁の「羊の門」の側の「けものの門」から一歩踏み出せば、そこは二つ脚を筆頭とした獣たちの世界である。彼らの住処である森は紅と黄色の絨毯を敷かれたように色づき、冬の息吹が吹き付けるごとに模様を変えていた。

 鬱蒼とした森を独り歩む少女は、自らの棒のように細い脚の元をそっと見下ろす。足を包む栗鼠の毛皮の靴は父がどこかから手に入れてきた品であり、成人した男の足の大きさに縫製された品は使い勝手が悪い。歩を進めるたびにずれ、皮膚を擦り水疱を生じさせる。破裂した肉刺に尖った砂利が突き刺さる激痛は、薄くかさついた唇を噛みしめなければ堪えられなかった。

 濡れた口元を手の甲で拭うと、不快な風味が乾いた口腔に染み渡った。黒ずんだ赤がこびり付いた掌は、使い込まれしっとりとした飴色に艶めく革袋を握っている。蔓でぐるぐる巻きにした口を開けて収められた白い礫――塩を掴むと、ささくれた指先に鈍い痛みが奔った。

 反射的に指先を舐ると、塩と鉄錆と脂肪の味が口いっぱいに広がった。口内の細かな擦過傷は悲鳴を上げたが、自らを苛む物体を吐き出すのは忍びなかった。半ば意地が混じっていたかもしれないが、遠い遠い海の味わいは少女が労苦の対価として得た貴重な品だったから。

 ツァレたち二つ脚のけものの「飼い主」である神殿が支配する土地はペテルデと呼ばれている。今日も強かに不手際を責め、薄い腹を長靴の踵で抉った神官たちの口上によると、ペテルデの外は、一応は至高神を崇めているが神聖な掟を忘れてしまった不敬の輩や、人間を偽りの神に捧げる蛮族が住まう大変危険な場所らしい。

 それでも内陸の山岳地帯に位置し、取り立て地味ちみにも恵まれていないペテルデは、不本意ながらも彼らと交流しなければならないのだった。ツァレが振り回す塩はそうして手に入れた品である。

 塩がなければけものも人も病気になる。だからこそ神殿は「塩の民」と称される獰猛な民と時に刃を交えてまで獲得した貴重な塩を、けものにまで分け与えてくれるのだった。

 確かに塩を振りかけるとどんな肉でも、それこそ蛇や鼠でも美味しく食べられる。だが塩そのものは美味だとは言い難かった。摂り過ぎれば喉が渇いて、どうしようもなく水が欲しくなるのだ。

 一刻も早く至るところにこびり付いた汚れを落としてしまいたい。森の中にひっそりと佇む泉の水で顔を洗って、心身ともに不快感から解放されたい。罪人の血はべとべととしていて生臭く、どうしても好きにはなれない。それに、これから塩を届けに行く同じ集落のけものたちは、きっとツァレのこの姿を厭うだろう。

 少女はやはり身の丈に合わぬ――そもそも「女」が纏うように作られていないのだから当然だが――脚衣の裾を折り曲げる。痩せた四肢はしなやかに跳ね、塞いだ気分を幾らか晴れやかなものにした。父がまだ生きていた時分は、目的地までどちらが早く辿りつけるかよく競争していた。身のこなしが軽いツァレは三回に一回は父に勝った。お前は鼬みたいにすばしっこいと褒められると、どことなく誇らしい気分になったものだ。

 原始の闇に還った父がツァレに笑いかけることはない。思い出や夢の中でならばともかく、現実ではもう二度と。

 戻らぬ日々の追憶は穏やかな春の午後に似ていて、走りすぎたために生じたのではない脇腹の痺れをしばし忘れさせる。

 何か、いる。

 どれ程在りし日に還っていたのだろう。一瞬のようでもあり永遠のようでもある時間が流れた後、少女の鋭い耳は自分以外の何者かの気配を捉えた。ざくざく、かさかさと木の葉を踏む音が遠くから近づいて来る。その響きの大きさから察するに、恐らくは大きな獣――狼か野犬であるかもしれなかった。兎などの小動物なら、捕えて皮を剥いで焚き火で炙ってかぶりつけもするのだが、これでは……。

 足を止め、得体の知れない者の正体を探る。周囲の空気には自分以外の獣の臭いは混じっていないが、風上であるのであまりあてにはならない。

 もしも、背後にいるのが血の臭いに釣られた猛獣だったら。

 ありえない、と自嘲しながらも嘆息せずにはいられなかった。だから罪人を殺すのは嫌だったのだ。

 二つ脚のけものはもちろん他の獣も、人間に必要以上に近づくことはない。そんなことをするのは、野性の誇りを手放す見返りとして安寧を与えられた家畜や犬猫ぐらいのものだ。だが、一度でも人の血と肉の味を覚えた野獣は自らの力を過信し、むしろ好んで人間に近づくようになる。人間がその身に備えた唯一の武器である「知恵」の刃の鋭さを忘れて。

 賢いけものならば教えられずとも知悉する簡明な掟は、神官たちにとっては嘲笑に値するものなのだ。ツァレは本当は、きちんと身を清めてから森に入りたかったのだが、神官たちは聖域が穢れるとまともに取り合ってくれない。苛酷な採石と採鉱の労役を、穢れた処刑を担うけものが死に絶えれば、困るのは彼ら人間たちだろうに。

 慈悲深い至高神はこの世から立ち去ってからも、預言者を介し人間たちに様々な掟を与えてくれていた。例えば、食べるに値しないもの――蛇や地虫の類を、あるいは二つ脚の肉を口にしてはならない、また人と獣が番ってはならないとするのはその一つである。そのために二つ脚は、幸いにも狩りの獲物とされることを免れ、その肉の代わりに労苦を捧げることで、現在に至るまで細々とその命脈を受け継がせてきたのだ。

 だがどんなに神殿が警戒の目を光らせても戒律を破る者はいて、そういった輩は二つ脚を捕らえ人間と偽り、奴隷として遠い国で売り払ってしまうこともある。住み慣れた森や山、家族から引き離されたけものは衰弱し、若くして闇の一部となってしまうのだと父に聞いたことがあった。今日首を落とした男は、そうして財を成した商人なのだ。

 もしも、後ろにいるのが悪い人間だったら。

 急に、氷の手で撫でられたように背筋が震え、心臓は息せき切って足を動かしていた数分前よりも激しく脈打った。

 ――あたしを守れるのはあたししかいない。

 肉付きが悪い腰に巻いた帯に括りつけた短刀の存在を、これほど心強く思ったことはなかった。ツァレのために、ツァレの小さな手でも扱いやすいようにと、この剣を拵えてくれた父に感謝した。

 そっと、背後の何者かに感づかれてはならないと用心しながら、短剣の柄を握り引き抜く。濡れた刃は頭上の木の葉越しの赤みがかった光を反射し、ぎらぎらと輝いていた。

 深く深く――これ以上は堪え切れぬほどに、娘らしい丸みに乏しい胸が膨らむまで息を吸う。そうして早鐘を打つ心臓が静まるのを待つ間に、自分がなすべきことが見えてきた。

「ねえ、きみ……」

 ――肩越しに掛けられたのは、澄んだ少年の声。小川のせせらぎや泉の表面を照らす陽光を思わせる、少女にしては低く掠れたツァレのそれよりも高い声だった。少年の他には人間はいないようだった。

「あ、あの、」

 覚悟を固め振り返った先に立っていたのは、至高神が坐す天空の――ひいては神官の色である青い衣を纏った少年。ふわふわとしていて緩い癖がある白茶の髪を冷たい風にたなびかせた、生白い肌をした少年だった。彼の背丈はツァレとさほど変わらない。体つきは華奢で、力もあまりなさそうだった。これなら、不意を衝けば勝てる。

 利き足を軸に身体全体を回し、少年の足元を薙ぎ払う。すると彼は丸い目を瞬かせる間もなく尻もちをついた。

 落ち葉の褥に倒れ込んだ少年は、ひたとツァレの手元を見つめている。

「……待って。その、僕は……」

 正確には、彼の鼻先に突き付けられた短刀を。

 屠られる寸前の子羊のように無垢な瞳は未知の恐怖に震えていた。ツァレは名も知らぬ少年の双眸がくすんでいるが優しげな――大樹の幹や岩に生す苔そのものの緑を宿していることに気づいた。ついでに、彼の右手に薬草らしき草が握られていることにも。

「僕は見習いの神官で、」

「それは見れば分かる」

 ツァレが知りたいのは少年が何者なのかではなく、なぜツァレの後を付けてきたのか、だった。返答次第では、鈍色の刃は再び柔な肉を切り裂き鮮血を啜るだろう。

「普段は神殿の中で聖典の写本を作ってるんだけど、今日はたまたま外にいて……」

 迫り来る生命の危機を肌で感じ取ってか。うっすらと紅潮していた頬を蒼ざめさせた少年は、それでも無垢な右手をツァレに差し出した。

「君が、その、先輩たちに殴られているとこを見かけたから、」

 穢れのない、初夏の陽光に温められた泉のごとく全てを包み込む掌が、血塗れの手に触れる。母の乳のみで育まれた子羊の毛を思わせる皮膚の柔らかさが、向かい合う少女の頑なな拳を解きほぐした。

「これを君に渡したかったんだ」

 少年は鋭利な切先をちらちらと見やりながらも、覆いかぶさるツァレにぎこちない笑みを寄こす。

 少女は予想だにしなかった言葉に大きな目をさらに大きく、眦が裂けんばかりに見開きながらも、短刀を鞘に収めた。

「……なんで?」

 やっと絞り出した声が自分の喉から絞り出されたものだとは、にわかには認められなかった。あまりにか細く、みっともなく震えていたから。

「実は僕、一年ぐらい前にイングメレディの村から来たんだけど、まだ友達がいなくて……」

 いつか子守歌代わりに聞かされた、永遠の炎が燃える渓谷を有する不毛の荒野リャンベテア。至高神の怒りに触れたために滅んだ地とペテルデを隔てる侘しい乾いた土地で生まれた少年は、今度こそ満面の笑みを浮かべる。

「僕は、君と友達になりたいんだ」

 密やかな、拒絶への怖れと了解への期待が入り交じった吐息が剥き出しの項をくすぐる。凋落する日は目映いばかりで、頬に差した赤みを少女自身にも隠してくれた。

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