この世の起源について

汝、殺すなかれ Ⅰ

 鉄錆の匂いを孕んだ風が垣根を揺らす。ざわざわと笑う柘榴たちは既に盛りを過ぎていたが、褪せた緑の中には一つの実があった。至高神の祭壇に奉げられる三種の果実の筆頭でありながら、穢れに触れたとして忌避される果実が。

 顧みられぬ実りは熟れ、独りでに弾けていた。硬い果皮の内に秘められていた種子は地に落ち朽ち果てている。ツァレの足元に伏せる肥った男の亡骸から流れ落ちる血潮のように。ぐずぐずに崩れた種はいつか地を這う虫の糧となり、実を結ぶことはないだろう。

 曇天の空を宿した灰色の双眸が見下ろす男の首は、凝り固まった脂肪で覆われている。彼は神の定めた掟に背いたとして、神殿から死刑を宣告されたのだった。しかし罪なき者を苦しめその肢体の肉と同様に私腹を肥やした咎人は、魂を喪った身でなお神の救済に与る資格はあるのだった。なぜなら、彼の内には神の火花が宿っているから。

 ほんの数瞬前まで処刑場に響き渡っていた断末魔の絶叫は、少女の耳には野獣の遠吠え同然に響いていた。

 男は、刑の始めこそは、目測を誤り然るべき部位ではなく左肩の肉を割いたけものの愚かしさを呪っていた。至高神から救いの御手を差し伸べられる栄光に値せぬ、唾棄すべき者たちだと。

 罪人たちの多くは、神官たちが与える薬草によって安らかな眠りに就いている者がほとんどで、神への赦しをこいねがって喚き唾を飛ばす者を処刑した経験はなかった。だからツァレは酷く狼狽え、ついでたらめな場所に斧を振り下ろしてしまった。すると、鈍く光る刃は丸い頭に食い込んだのだ。

 柘榴の裂け目に似た隙間から頭蓋に守られた肉色の大きな胡桃が露出すると、男はくぐもった悲鳴を上げた。呪詛は次第に血が滲まんばかりにひび割れ、か細く、意味を成さないものに変わった。三度目に斧を振り上げた時には、蜜蜂の羽ばたきにかき消されんばかりになっていた。それからしばらくしてようやく首が断ち切られると、罪深き雄羊の呻きは永遠に絶えたのだ。

 僅かに慄くか細い指が異形の神の像を象った柄を握る。鋭い鈍色で弛んだ肌を、ぬめる薄黄とまだ温かな桃色を切り開く。すると、父が娘に残した幸運の護符は血潮に塗れた。 

 短刀の刃を鈍らせる脂肪の奥に潜んでいた、神の火花が宿る心臓はすでに脈拍を止めている。亡骸は万年雪を戴く山々から忍び寄る冷気を浴び、すっかり冷え切っていた。娘に最期の挨拶を告げる間もなく息を引き取り、永劫の闇の中に消えていった父の抜け殻を思い出させるほどに。

 罪人の火花が燃え盛っていた頃は熱く滾っていただろう生命が流れる管を切り取り、滑る臓器を己が手で掴む。ツァレが知る乏しい単語だけではどうにも表現できないこの手触りに慣れることは一生できそうになかった。我が子を徒に不安がらせまいと朗らかに振る舞いながら、内心では己の役割を少なからず忌避していただろう父がそうであったように。

 小鳥の囀りと冷たく澄んだ陽の光に導かれ目を覚まし、擦り切れた山羊の毛皮に包まる大きな身体を揺り動かすという毎朝の日課がなくなってしまったのは、ほんの一月ほど前の出来事。ツァレが生まれて十四回目の秋の終わりと死の季節の訪れを感じ取った朝のことだった。

 逞しい肩に手を掛け揺さぶった際、父の顔を照らしていた、白々とした光の冷たさは今でも薄い胸の奥に息づいている。父と顔も覚えていない母が暮らし、母亡き後はツァレと父が身を寄せ合って息をしていた、家と呼ぶにはお粗末すぎる洞窟。ぽっかりと開いた虚ろは、少女が独りだけで住まうにはあまりにも広く、寂しい。

 だが少女は、ある女を除いては言葉を交わすことも稀だった同じ集落の他の二つ脚の元に身を寄せることもできなかった。彼らは父の生前から、ツァレを追い払ってきたのだから。あたかも少女が、家畜小屋の隙間から羊の様子を窺う飢えた狐であるかのごとく。

 そもそもツァレたち二つ脚は、人と同じ姿形を有しながら、人間とは永遠に相容れぬ動物である。遙かな昔――まだ至高神が七つの天の向こうの楽園ではなく、大いなる憐れみの念ゆえにこの世界に彼の声を届けてくれていた頃――祖先が犯した罪により、二つ脚は魂を宿すことが赦されていないのだ。

 それはすなわち、至高神が人間に特別に分け与えた「神の火花」を有していないということ。至高神への妬心に駆られこの世を創り土塊から人間を生み出し、傲慢にも全ての創造主だと自負するに至った闇の主を崇めたために、至高神に与えられた魂を失った者だということ。野の獣や囲われた獣たちと変わらぬ存在であるということなのだ。むしろ、正しい神に背いて劣位の悪しき神の囁きに従ったのだから、他の獣たちよりも罪深い存在だと言えるだろう。

 二つ脚は、慈しみ深き至高神と神殿の温情に縋って生きる呪われた動物。最初の女を唆し智慧の樹から禁断の実をもぎ取らせ、この世に「死」をもたらした蛇と同様に忌むべき者。道を歩けば石を投げられ、頭を踏まれるに相応しいけものなのだ。それは分かっている。

 なのに、苦悶の表情を刻んだ首と心臓が並べた銀の盆が、ことさらに重くのしかかるのは何故だろう。いと尊き神に言祝がれた身でありながら禁を犯した男の罪のためだろうか。柘榴の樹の側に佇む神官たちによって清められなければ、肉の器の穢れから解放されぬ神の火花の嘆きの深さゆえだろうか。

 たとえツァレの定められた天命が燃え尽き、塵となって闇の一部となって消滅するまで思索を巡らせても、答えなど出ようはずがない。それはけものの身には余る問いなのだから。

 ――けものはけものらしく、与えられた仕事をこなせばいい。

 ふと眼裏に過った生前の父の微笑みと温かさは、ともすれば失念しがちになる使命を思い起こさせた。

 気高き神を裏切った罪深さを自覚し、悔恨の涙を流しながら彼の手を求めた人間たちを救済するために、人間たちの間から特別に選ばれた救世主。

 至高神が彼を生かしたまま脈打つ心臓を取り出し、最初の女から全ての人間に受け継がれる魂の穢れを清めたように、罪人の神の火花を清める手伝いに徹する。これこそが、二つ脚に与えられたせめてもの罪滅ぼしなのだ。ツァレの心がこの決まりの重みに押しつぶされ、今にも息絶えんばかりに苦しんでいたとしても、遠い遠い祖先の過ちは正しようがない。黒い羊の毛は指先がひび割れるまで洗っても白くはならないのだ。

 ここは、寒い。

 内に秘めた物の存在を主張する胸を落ち着かせようと深く息を吸い込む毎に、か細い身体の様々な場所が疼く。数日前の処刑の後、不手際を罵られ神官たちに打ち付けられた背が。強かに踏みつけられた薄い腹が。大小様々な殴打の痕が散る四肢が。

 少女は神に祈りを捧げる際のそれに似た仕草で薄い目蓋を降ろす。自らを取り巻く全てのものから目を背けるために。

 だが生え揃った上と下の睫毛が合わさった瞬間、彼女は不意に大きな目を見開いた。びょうびょうと吹く強風に煽られた血を吸った大地からざらりとした土埃が舞い上がり、薄い頬を打ち付けたために。冬の初めの厳しい風は、少女に犯した罪の在り処を知らしめた。決して忘れてはならないと囁きながら。

 どんなに目を背けようとしても、己の傍らには胸を切り開かれた肉の塊が転がっている。足元の血溜まりから漂う、幾つもの山を越えた先にあるはずの海の匂いも変えようがない。そしてこの後の自分には罰が下されるだろう。苦痛は卑小なる者が浅はかな知恵を働かせ回避しようとしても避けられない天災。甘んじて受け止めなければならない裁き。遙かな祖からツァレに受け継がれた罪の報いなのだ。

 数少ない父の遺品の一つでもある短刀の柄を、折れんばかりに握り締める。血と命を啜り黒ずんだ木の表面を指先で撫でると、在りし日の面影が眼裏に浮かぶ。父の温もりを思い出し心が温かくなって、この世に存在するどんな苦痛にも――口内に広がる血と砂利の味や、臓腑からせり上がる酸味にも耐えられる気がした。

 ふと仰いだ空は薄い雲に覆われていて、陽光は絹の面紗ベールに濾されたように優しく柔らかだった。

 聖所と俗界を分ける垣根として選ばれた樹。その合間を駆け抜ける木枯らしが唐突に止み、神聖でありながらおぞましい場は静寂に包まれた。やがて神が坐す蒼天の色した衣を精緻な刺繍で飾った大神官は厳かに儀式の終わりを宣言する。

 このまま一目散に走り去ってしまえば、少なくとも今回ばかりは不要な苦痛から逃れることができるだろう。だがそれをして、神官たちの不興を買えば、ツァレに待ち受けるのはより一層恐ろしい罰なのだ。

 安楽の在り処を求めて疼く脚を支配するのは容易ではなかった。しかし少女は柘榴の木陰で立ち止まった。

 そうして飛んできたのは滑らかで傷一つひび割れ一つない踵。脆弱な腹部に苦痛が食い込むごとに、成人した男の重みが貧相な肢体に押し付けられるごとに、か細い喉は惨めに鳴る。

「……ぐ、」

 どんなに噛み殺そうともがいても漏れ出る喘ぎは風に散らされ、地に伏すけものを叱咤し打つ男の耳には届かなかった。届いていたとしても結果は変わらなかっただろうが。

 ――早くこの血を落としたい。あたしがいるべき場所に戻りたい。

 細やかな願いが叶えられるまでには、少なからぬ時が過ぎ去らなければならなかった。

 落ち葉を踏みしめる騒めきを捉えて目蓋をこじ開ける。灰色の瞳に映るのは空の色だけで、人間が模倣した青はなかった。少女は安堵の吐息を吐き出し、汚泥が食い込んだ指先で地を掴む。ようやく起こした四肢は北風に嬲られ、芯まで冷え切っていた。

 傷み、乾ききった銀の髪から黒ずんだ雫を垂らした少女は、小さな顔に飛び散った液体を己が掌で拭う。娘らしい丸みに乏しい薄い頬や唇を斑に染める斑点は歪に広がるばかりで、拭い去ることはできなかった。

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