わたしたちが還るべきところ Ⅲ

 眼前でうつぶせに倒れる少女は、衣服の裾を赤い舌で舐められているのにぴくりとも動かない。地獄で燃え盛る焔――あるいは古い異端の教えに伝わる、全ての罪を洗い清める劫火の河さながらの炎に苛まれているのに。

 亜麻色が緋に侵食される。しなやかな三つ編みは蛇のようだった。

 己が掌で、焦げた袖で、実体を備えぬ蛇を打ちすえる。剣により鍛えられた厚く硬い皮膚も、灼熱には敵わなかった。腫れあがり、赤く爛れた掌はまるで炎の一部になったようで。身の裡で反響し増幅していた激痛は、程なくぴたりと鎮まった。

 凪いだ泉のごとく広がる静穏は波立たない。掌の表皮が落剥し、真皮が露出しても。ひび割れた肉の合間から鮮血が滲み、滴っても。――彼女を苦痛から救うためなら、生きながら火に焼かれても構わなかった。それが恐ろしい罪を犯した自分に相応しい報いなのだから。

 打擲される長虫の勢いは衰え、やがてすっかり駆逐された。

「メゼア!」

 感覚すら消え失せた手で華奢な肩を掴み、希った存在を抱きかかえる。カヤトが密かに可愛らしいと想っていた――それを口に出したことはないが――薄茶の斑点と煤に塗れた面は安らかだった。

 大きな青紫の瞳は薄い目蓋に覆われ、小さな唇は苦悶の呻きを吐き出しもせず、秀いた額に据えられた眉が苦げに寄せられることもない。ふっくらと盛り上がった胸は赤黒く濡れ、裂けた衣服と肉の合間から生々しい亀裂を覗かせていた。身体はまだ温かいが、それは生者のぬくもりではなかった。亡骸に僅かに残る体温は、喉を灼く熱気によって保たれているだけの偽りで、彼女はもはや己が熱を、生命を喪っている。

 ――だから、あなたは絶対に生きていてください。

 どこか懐かしく、けれどもどんな鞭よりもカヤトの胸を掻き毟る約束を紡いだ唇はもう二度と開かない。カヤトの名を呼ばない。もはや遙か彼方の神話の時代にすら等しくなった開戦前にはほぼ変わらぬ位置に在った瞳は、もう二度とカヤトを映さない。

 熱病に魘される病人のごとき四肢ごと、まだ柔らかな肉体を抱きしめる。細い骨が軋むまで、カヤトとメゼアを隔てる肌と肌が密着するまで。ごうごうと吼える焔に、呼吸すらもままならぬ熱風に囲まれているのに、身体の芯から湧き出るのは暗く凝り、凍てついた絶望。そして怒りであった。

 焦りと不安に駆られて数度打ちすえた頬はやがて固く強張り、腐敗して虫に食われ大地の一部となるのだろう。カヤトを置き去りにして。性懲りもなくまた約束を破って。

「お前は、ほんとに……」

 ただメゼアのためだけに、逃げ惑う民草を掻き分け――時に斬り捨て、足蹴にした躯が彼女ではないことに安堵しながら、この柘榴に囲まれた庭園を目指した自分の気持ちなど知ろうともせずに。

 脳裏に過った、膜を張った涙を堪えるためにか忙しなく瞬きをする少女の面影は、炎にさえも焼き尽くされはしなかった。家畜の尻に押される焼き印のように、荒れ狂う心臓に――魂に張り付いて、離れそうになかった。

『ほんとに大事なお話なんです。……これであなたはもう大丈夫だから』

 少年の大きな手を小さな己が両手で包もうとして果たせず、照れくさそうに微笑んだ少女は、本気でカヤトが家族との安楽を取るのだと考えていたのだろうか。その答えももはや既に炎に、あるいは誰かの非情な剣に奪われていて、永遠に得られない。だがカヤトは断言できる。それは間違っていると。

 カヤトがメゼア以外を選ぶはずはないのに。メゼアのためならば、母を除けばこの世の全ての人間を、母すらも、躊躇いながらも屠ることができるのに。メゼアがいない世界など、カヤトにとっては地獄でしかないのに。

「……なんでだよ」

 朧ながらだが、身の裡で燃え上がる謎の理由は分かっている。

 ――もしここから出ていけるとしたら、どうする?

 いつか、言ったからだ。

 ――みんなとずっとここにいる。

 遠い昔の自分が、悲痛に掠れた問いかけが提示する最善を跳ね除け、血を分けた家族と女神が住まう大地に固執したから。胸に秘めた浅ましい願いが――もしも、それでも自分を選べと迫ってくれていたら――叶わなかったことばかりに気を取られ、仄めかされた真意を探ろうともしなかったから。だから、メゼアは思い込んだのだ。家族と共に故郷に還ることこそカヤトが望む未来であると。カヤトにとっては、それは幸福ではなくなっていたのに。

 もしもカヤトがメゼアを選ぶ前に母と再会していれば、迷うことなくまだ見ぬ故郷への帰還への道を歩んでいたかもしれない。あるいは、冷涼な風が楢の枝を打ち鳴らしたあの日に、光が指し示す道に足を踏み入れていれば。カヤトはメゼアと共に、幸福に辿りつけたのかもしれなかった。だが、もはや全てが遅すぎる。

 カヤトは間違えていたのだ。過去から現在に至るまで。全てではないが、重要な幾つかの選択肢を。腕の中の少女の生命は、積もり積もった過ちの連鎖に絶たれた。実際に少女の息の根を止めたのは誰かの刃か燻る黒煙なのだろうが、メゼアを殺したのはカヤトなのだ。

 赤い眼は己が罪への怒りと嘆きを零すのに、少女は泣くこともできない。自分を死に追いやった存在に怒り、罵ることすらできないのだ。

 お前がこれを殺した。

 執拗にメゼアをつけ狙う炎が、カヤトの耳に猛毒の囁きを吹き込む。

 この罪は清められない。たとえ劫火の河を渡っても、自分と彼女は同じ場所には逝けない。同じ神の異なる側面を崇める徒として生まれついた羊たちは、与えられる安息の場すら同一ではないのだから。

 永遠の至福の野か、いずれ崩れ落ちる水晶天に広がる泡沫の楽園か。唯一神の徒と天主の徒のどちらがそこに辿りつけるのかは判然としないが、カヤトとメゼアはもう永久に巡り合えないのだ。

 栄華を誇った宮殿の葬送は泣き歌を必要としていなかった。蒼穹は禍々しい緋に染め上げられていて、太陽が落下しても気づかれはしないだろう。まさしくこの世の終わりの始まりのようだった。赤い空の下、軋む建材は火の粉を舞い散らせて崩れ落ちる。朱と金色は蝶の鱗粉ように煌めきながら羽ばたき、やがて止まるべき枝を見出し翅を休めた。

 花を散らした柘榴の樹を呑みこむ焔は満足を知らぬけもののだった。葉から葉に、枝から枝に、樹から樹にとめどなく燃え移る炎は、瞬く間にカヤトとメゼアを囲い込む。赤く揺らめく檻に囚われた自分たちは、もうどこにも行けない。

 来るべき復活の刻のために、穢れない魂の器たる少女の肉体を残すことすら叶わない。メゼアとカヤトはここで永遠に死に、別れる。

 永久の終わり。その響きはどこか懐かしく少年に迫った。自分が還るべきなのは、白く冷ややかな闇ではなくて、棘のごとく肌を刺す熱気が渦巻く灼熱であったのだ。柔な気道には針と化した大気が突き刺さっている。ひゅ、と哀れに鳴る喉が渦巻く黒煙に締め上げられるまでに、大した時間は要すまい。

 少女の躯を捨て置いて、残る力を振り絞って地獄の外に向かって疾駆すれば、カヤトだけは逃げることはできるだろう。だが、メゼアのいない世界でのいつ終わるとも知れぬ拷問に似た時間よりも、彼女を掻き抱いたまま至る終焉への儚い刻を。渦巻く怒りと絶望ごと生きながら焼かれる苦痛こそをカヤトは望んでいた。

 柘榴の葉は朱に蝕まれていて、花弁のようにすら見えた。もはや散ったはずの柘榴の花の一片が煤け焦げ付いた衣服の端に、肩を撫でる灰色の髪に落下する。得物を捉えた貪欲な獣は、瞬きよりも素早くカヤトの背を舐めた。灼熱であるはずなのに極寒の、白き山脈の雪解け水を浴びたのかと錯覚してしまう冷気に、同じく炎に包まれた少女は苛まれることはない。少女の安楽は死に逝く少年を苦悶から解き放ちはしなかったが、慰めとはなった。

 煙と人体が焼かれる異臭に痺れた舌は、意味を成さぬ呻きを吐き出すことばかりに囚われていて、もはや主の意には従いそうにない。

 だから囁く。ありったけの、もはや伝えることのできない思いを。少女には届かぬのだと悟りながら、胸の中で。

 好きだった。恐らく、あの泉の畔で出会った時から、ずっと。光に透かせば黄金に艶めく髪を、雀斑が散った小作りな鼻を、桜桃めいた唇を。

 野の花の美しさを讃嘆し、虫や蛙に悲鳴を上げて逃げ惑う少女らしさを。弱き者を慈しみ、他者のために流す涙を――平凡な容姿の裏に隠された優しく気高い魂を、欲した。

 メゼアの心に自分だけを住ませたかった。叶わぬと分かってはいたが、自分だけを見てほしかった。だから間違っていると理解していてもなお、あらぬ暴言を吐き続け、彼女の意識を少しでも自分に引きつけんとした。心が手に入らぬことに苛立ち、肉体を支配しようともした。

『わたしはあなたの全てを赦します』

 宮殿の一画での、閉ざされた日々は幸福そのものだった。ただメゼアと身を寄せ合っていられた日々。通わせた互いの熱と重ねた肌は程なく消滅する。焦がれた唇も。 

 幽き星明かりに照らされた目蓋が落とされた顔が、今この瞬間のメゼアと重なる。幾度となく思い描いては、あまりにもおこがましすぎると投げ捨て踏みつぶしていた仮定が、もしも真実であるのなら――カヤトはここでも誤ったのだ。

 あの夜、無駄な誇りと羞恥心に阻まれ叶えられなかったメゼアの願いはカヤトのものでもあった。

 爛れ、赤らんだ手で煤と砂に塗れた頬を包む。淡く開いた唇はまだ仄かに温かく、柔らかかった。まるで生きているように。

 これから炎に呑まれる自分たちは灰になり、魂の終の安息の住処を失うが、この至福に比すればこの世のどんなものも塵芥だった。まして最後の審判の後に、善人の群れに加えられ復活を果たした死者のみが分かち合う永劫の幸福など。メゼアがいない楽園など、カヤトにとっては地獄でしかない。だが、たとえ泡沫の間だけでも彼女と同じ終焉を分かち合えるのなら……。

 ふつふつと湧き起こる歓喜は少年を覆い、世界の全てから遠ざける。劈く爆音からも、迫りくる焔の旋風からも。

 二つの炎が一つになる。蝶は踊り狂い、柘榴の花弁は止むことなく降り注ぐ。一つとなった赤に包まれた少年は最後の吐息を少女と分かち合った。

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