わたしたちが還るべきところ Ⅱ
生命の樹を象った宮殿の門に詰めかける民草は、いずれも哀れを覚えるまでにみすぼらしかった。立って、喋っていることが不思議なくらいにやせ衰えた羊たちの目は、焔を宿してぎらついている。
「総主教聖下を、俺たちの親を、きょうだいを、子を殺した女を連れてこい!」
ある者は
蘇る。斧が凍てついた大気を切り裂く音が。振り下ろされる刃の、泡沫の冷たさ――知らぬはずの痛みと嘆きが。約束を守れなかった我が身の弱さへの怒りが。
乱れた呼気もそのままにか細い首筋を撫でる。しっとりと指の肌に吸い付く皮膚を濡らすのは脂汗であって血潮ではない。ならばひとまずはそれで良いが、このままここで呆けていてはメゼアは同じ過ちを繰り返してしまう。
胸を刺す喧騒と痛罵に背を向ける。生来鈍重なメゼアの身体は、怯えからくる震えも相まって、苛立たしいほどにもたついた。
やがて絡まりもつれ、均衡を崩した肢体は地に叩き付けられる。擦りむいた手の甲と膝はひりつき、二本の三つ編みは砂塵に塗れた。辛うじて無事だった頬さえも、溢れた涙で汚れてしまって。
どうしてこの身体はこんなに重いのだろう。確かに運動は苦手だが、走ればみっともなく揺れる、視界を遮る脂肪がなかった頃はこれほどまでではなかったのに。最後まであの子には追いつけなかったけれど。
『早く走るにはコツがあるんだよ』
脳裏に広がる幻影は郷愁と悔恨を、甘やかな慈しみを呼び覚ます。疾走するあの子は野の獣だった。人が設けた囲いの外では決して生きられぬ家畜にはない、誇り高い狼の魅力に溢れていた。しなやかな銀の髪を、細いが伸びやかな手足を、自分は美しいと思い焦がれたのだ。
この無様な肉体はあの子のものとは違いすぎるが、できるだろうか。
少女は砂塵を爪を食い込ませ、萎えた脚に命じる。走れ。腿を上げ、爪先で大地を蹴り、駆けよ、と。
逃げるために。生きるために。今度こそ、約束を守るために。あの子を、これ以上傷つけないために。
睫毛に絡んだ砂埃に、沁みる汗に苛まれる視界はぼやけ、目まぐるしく通り過ぎる。そのため、いつどこにいるのかすら定かではなくなった。過去と現在が入り混じる。過去が現在を駆逐する。
盛りの季節を終え実を落とした果樹の葉が散る。はらはらと落ちる緑は吹き荒ぶ白になる。柘榴の棘をねじ込まれたかのごとく痛む肺と脇腹も、口内に滲む血の味も、全ては冷気と殴打の仕業であって乏しい体力を枯渇させたためではなかった。
雪を踏みしめる静謐な音とはまるで違う、落ち葉と枯れ枝を砕く乾いた音が少女を深淵から連れ戻す。
「……え?」
喧騒は、次第に数と勢いを増していった。耳を塞ぎたくなるほどの騒音には、慣れぬ剣戟と絶命する人間の絶叫が混じってもいた。
「も、う?」
とうとう宮殿の門が破られたのだ。庇護し、育むべく民の手によって。飢えた暴徒の群れは瞬く間に宮殿に蓄えられた財を平らげるだろう。
――止まらないで。捕まれば殺される。
荒れ狂う鼓動と共に、身の裡から響く声が紡ぐ懇願は命令でもあった。
――どんなことをしても生きて。あの子のために。
これ以上酷使してくれるなと警鐘を鳴らす四肢の悲鳴は、柔らかな囁きに散らされる。
わたしは、たとえもう会えなくても、カヤトとの約束を二度と破ったりしない。
その一念は少女の身体を燃え上がらせ、四肢に血流を送り叱咤する糧となり鞭となった。
今にも息絶えんばかりに肩を震わせながらようやくたどり着いた、もはやメゼアの心からは遠く隔てられた女王の居室。その主たる女の首に指を回し、事切れた身体を差し出せば、哀れなる羊たちの怒りは治められるだろうか。
小刻みに震える手で、精緻な彫刻が施された扉を叩く。
「……陛下?」
応えはなかった。許しを待たずに扉を開いても無礼への叱責は飛んでこなかった。
豪奢な室内は、無人ゆえにその広さと空虚さが際立つ。真偽の定かではない流言に興じる女官たちの囀りも、彼女たちの怠慢を諌める女王も、もはや誰もいなかった。
女一人ならば容易に潜んでいられる衣装棚はがらんどうで、人影ではなく磨き抜かれた金色が――覚えのある耳飾りの片割れが転がっていた。よくよく見やれば、毛足の長い絨毯には真珠と紅玉の粒が捕らえられていて、明り取りの窓からの光を艶やかに反射している。そして凍てついた宝石の影には、黒ずんだ血と諍いの跡すら潜んでいた。
女官たちは逃亡したのだ。ありったけの、彼女らの命と未来を怒れる民から買い取るに足る金品を女王から奪って。主を見捨てて。
命乞いのためにかつての主を殺害しようとしている自分と、彼女たちのどちらが浅ましいのかは定かではない。だが、彼女たちは生きたかったのだ。だから皆裏切った。
信じていた者全てに背かれたナタツィヤが哀れでならなかった。
「……ナタツィヤさま」
彼女のために嘆く権利などメゼアはとうに失っているのに、涙が止まらない。ナタツィヤは、自分はどこで何を間違えたのだろう。メゼアはどこで優しく美しい「姉」への敬慕を捨ててしまったのだろう。ナタツィヤは王としては無能だったかもしれないが、妻として母としては、人々に慕われる魅力を持っていたのに。ただ独りの娘のために、自分なりの方法で王国を守ろうとしていたのに。最後まで、女王たらんと望んでいただけだったのに。
夫を奪われ精神の安定を欠いてもなお、王であることに固執したナタツィヤ。その彼女が最期の場に選ぶ部屋など、ただ一つしかない。
――そうだ、わたし、なんで。
己の愚かしさを痛罵し呪いながら、少女は重い身体を引きずり主が坐す玉座を目指す。父母から受け継いだ忠誠とも、妄執ともつかない決意をぶつけた扉の向こうには、思い描いた黄金と、
「メゼア?」
揺らめく朱金の輝きがあった。片手に油の入った小瓶を、もう片方に角灯を掲げ持つ女の整った横顔は、火影を映して身の毛がよだつほど麗しかった。
「へいか? ……なにを?」
もはやこの世のものとは思えない、狂気に研磨された美を宿した女の、紅く艶やかな唇がほころぶ。
「分からないの? 守っているのよ」
「まもる?」
焔に照らされた笑顔は婀娜なのに、幼子の無垢さをも宿していた。
「あんな、道理を弁えぬ汚らしい輩にお祖母さまやお父さまが築き上げた栄光を、アスランとお父さまが勝ち取った栄光を――わたくしたちの誇りを穢されるぐらいなら、」
狂える女が微笑む。幼児が手慰みに凪いだ湖面に石を放るように、油を啜った絨毯に、遠い山脈の頂に繋がれた英雄が太陽から盗み出した熱を与える。
「こうして、燃やしてしまった方がいいわ。ここだけではなく、宮殿全て」
「……」
「最後までわたくしに従ってくれた者たちはわたくしに逃げろと言ってくれたけれど、ここだけはどうしてもわたくしが終わらせたかった。……他は諦めきれるけれど、これだけは」
朱金の舌が玉座に施された黄金の細工を、嵌めこまれた貴石を舐めた。玉座の終焉を見守るナタツィヤの面は穏やかだった。ごうごうと呻る炎の側に、いつ金糸で精緻な刺繍が施された長い裾が燃えるか定かではないほど近くにいるのに。
いつか来るべき唯一神と救世主による正当なる支配を与れるには、魂の器が残っていなければならない。それを知らぬはずはあるまいのに。
「――ナタツィヤさま!」
顔を、手を、解れ毛がかかる首筋をひりつかせる熱を堪え、渦巻く紅から庭園の中ほどまで引きずり出した女の左手には、小さな懐剣があった。自死をも禁じた唯一神に背けば、ナタツィヤは亡き夫には会えない。だから殺してくれと命じるのは、メゼアが慕った心優しい
「あなたにこんなことを頼むのは胸が痛むのだけれど」
メゼアはナタツィヤから懐剣を受け取った。できる限り苦しまぬように。美しい姿のままで、主が楽園の王配の傍らに逝けるように。そうして少女はぬくもった柄を握る掌に爪を、唇には犬歯を食い込ませ、ふっくらと盛り上がった胸部に刃を振り下ろしたのだが――
「そんなことはさせないよ」
変声期前の少年の高く澄んだ嘲りが、硬い腕がメゼアの決心を阻み、刃を叩き落とした。
「あんたが安らかに死ぬなんて、神が赦しても僕
どこかカヤトに似た名も知らぬ少年の湾刀が、呆然と目を開いたナタツィヤの脚を、腱を裂く。
軍靴の跟が倒れ伏した女の顔面を踏みしめる。爪先が紅い唇に振り下ろされる。苦悶の呻きは、小さな真珠の粒が――歯が飛び散り、鮮血が迸っても、途切れなかった。
尻もちをついたメゼアの眼前で繰り広げられた凶行は、ナタツィヤから美貌を剥ぎ取った。無残に腫れ、鼻血に塗れた面はお世辞にも美しいとは言い難かった。
少年は上下する胸を除いては身じろぎ一つしない女の右腕を伸ばし、微笑みながら刃を振り下ろす。最初は右腕、次に左腕。そして両脚を切断された女は、しかし辛うじて息があるらしかった。
少年は哀れなる生き物の髪を掴み引きずり、紅蓮の地獄まで蹴り飛ばした。炎は生い茂る芝生に移り、庭園の樹々に緋の衣を着せている。貪婪な炎はもうすぐそこまで迫っているのだ。
「じゃあね、女王さま」
断末魔の絶叫などは聞こえなかった。もはや、声を上げる力などナタツィヤには残されていなかったのだろう。
ひどい。人間がやることじゃない。悪魔だ。
とめどなく浮かぶ非難の叫びを発することはできなかった。濛々と立ち込める黒煙は思考を鈍らせ、喉を縛める。袖で口と鼻を塞ぐ少年を真似ようにも、すでに手足は痺れていて、指一本すらも持ち主の意思に従わない。
咳き込むことすらできずに、ただ地に伏すメゼアに語りかける黒髪の少年の面には、慈悲と称しても良い感情が刻まれている。
「……君は
いやだ。やめて。殺さないで。
魂の奥底からの祈りは、焔を映した刃に断ち切られた。
「せめて、このまま煙に巻かれて死ぬよりは楽に死なせてあげる」
非情な切先が豊かな胸を、その狭間で脈打つ臓器を貫く。苦痛は感じなかったが、乾いた口腔でむせ返る鉄錆の臭気が生々しかった。引き抜かれた刀の後を追って溢れた鮮血の温かさも。
少年は血塗れの刀もそのままに、五百年前は処刑場であった中庭から去る。長い三つ編みに、衣服の裾に降り注ぐのが火の粉なのか、燃える落ち葉なのかすら判然としない。
ごめんね、カヤト。
諦観に苛まれながら目蓋を下ろした少女の口元は安らかに持ち上がっていた。助けたかった少年はようやく出会えた母親と、家族と共に、この地獄から脱出したのだから。
――でも、本当はあの時、くちづけしてほしかった。ほんの一瞬だけでいいから、わたしを選んでほしかった。
末期の願いは肉体ごと灰になり、いつかカヤトが還る天には届かないだろう。メゼアはこの焔の獄で永遠に死ぬ。ならばせめて、彼の瞳によく似た色彩を目に映しながら死にたい。
抗いがたい安息の誘惑に抗いこじ開けた双眸に飛び込んだのは、焦げ、煤けた軍靴だった。そして少女は息絶えた。
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