わたしたちが還るべきところ Ⅰ

 生い茂る楢は秋の色彩を纏っていた。熱気を孕んだうねりが、木漏れ日すらも橙に染められるかのような葉を、長い薄墨色の三つ編みをそよがせる。重なり合う葉の合間に潜んでいた山葡萄は青々としていた。薄い唇で固い珠を潰す。広がる酸味とえぐみは舌をひりつかせたが、カヤトは未熟な実りを咀嚼し続けた。

「まだ酸っぱいでしょう?」

 僅かながらに自分より背が低い夫と幼い二人の息子を連れた女の、嫋やかな腕に制止されるまで。細やかに波打つ豊かな淡い色の髪が、細く温かな肢体が、懐かしく慕わしい香りが、立ち尽くす少年を包む。

「……ここは静かね。まるで、別の国みたい」

 恐怖の象徴たる異教徒の紋と、女王の甥の紋を掲げた軍勢に包囲されて一月と十日余りが過ぎた城壁の内は、あらゆる恐怖と喧騒に溢れていた。交錯する悲鳴と罵声、断末魔の絶叫が織りなす輪唱は、命乞いの叫びによってその澱みを深める。もはや耳にこびり付いた羊たちの呻きは、城門に近づくにつれてその大きさを増していた。

 皇帝とイングメレディ公の軍は、悪魔の群れにしては存外に優しかった。命乞いをする民は丁重に扱い、身代金を差し出すのならば門の外に逃がしもする。自らの、家族の、使用人たちの生命と安全を贖おうと詰めかける男達の叫びはいつまでも止まず、女王の失策を罵り呪詛する囁きもまた止まらない。民にとっては、怒れる神の正統だが苛烈な支配よりも、慈悲深い悪魔による穏やかな支配の方が望ましいものなのだ。

 王の盾たる奴隷兵すら次々に投降し、あまつさえ攻撃に加わる最中、力を持たぬ母たちがこの場所に訪れるのはどれだけ恐ろしかっただろう。カヤトは彼らの徒労を徒花と散らせようとしているのに、彼らは約束を守ってくれたのだ。

「……母さん」

 迸る罪悪感を押し殺し、これが最後と覚悟して直視した女の微笑みは輝かんばかりに美しかった。

「一緒に来てくれるんでしょう? わたしたちと一緒に、本当の別の国へ」

 大きな巴旦杏型の瞳は澄み切った泉の青を湛えて煌めき、ほころんだ桜の花弁の唇は艶やかだった。立ち込める靄に覆われ、細部は朧になり果てた、不幸な女奴隷の――過去の彼女のものとは、比べ物にならないくらいに。

 身も心も虐げられてもなお、幼い息子を不安がらせてはならぬと涙を殺していた女はもうこの世のどこにもいない。嬉しかった。母が、華奢な手足を縛める重石にしかなれなかったカヤトではない幸福を見出したことが。七年前には認められなかったが、今ならば心から祝福できる。

 ちらと見やった少年たちの怯えと好奇心が滲んだ面差しは、いずれも彼らの父に酷似していて、母や自分には似ていない。それでも彼らはカヤトの弟なのだ。

 メゼアと共にした短い日々で、多少なりとも解れた頬を持ち上げる。元来細く、吊り上がった目を細め、唇の端を吊り上げて形作ったのは微笑みだった。

 ――母さんを頼む。

 二つのあどけない面立ちがびくりと揺らぐ。数瞬の後に浮かんだ笑みは固く強張った、礼儀に反せぬように、儀礼的に返されたものでしかなかった。けれども少年たちは、突然現れた父親が違う兄を受け入れてくれたのだ。

 おずおずと細い肩越しに手向けた想いを、十にも満たぬ幼い彼らはまだ理解できないかもしれない。けれど母には、母を愛し支えてくれる夫がいる。不甲斐ない自分が彼女の心に刻むであろう爪痕を想えば胸が軋むが、その傷を癒してくれる者たちがいる。そして何より、母は強い。嫋やかで儚げな見かけに反して。カヤトや、あるいはメゼアよりも。だから母は、カヤトがいなくても大丈夫なのだ。

 生ある限り癒えぬ傷跡に埋め尽くされた背を撫でる手を、腕を、肩を押す。

「……カヤト?」

 成長したカヤトの力をもってすれば、細い女を振り払うなど片手でさえできるはずなのに、柔らかな檻からは容易には逃れられなかった。

 潤んだ眼差しは真っ直ぐにカヤトに注がれている。曇りなく澄んだ柘榴の双眸に灯る拒絶は、青い瞳を揺らがせた。

「ごめん」

「……どうして?」

 掠れた囁きは涙に塗れ、哀れにひび割れていた。

「……俺は、あの聖人様に祈る資格を捨てたんだ」 

 胸の奥の奥が――魂が宿る場所が荒れ狂った。我が身を挺してまで自分を愛し守ってくれた存在を裏切り捨てるなど、人間のやることではない。唾棄され殴打されても仕方のない、けものの所業だと、身に染みて理解している。だがカヤトは母とメゼアを秤にかけ、メゼアを選んだのだ。遠い昔からの友ではあるが、血の繋がりなど一切備えぬ少女を。この世を創り統べる唯一よりも、もういない女が懸命に祈っていた巻き毛の聖人よりも、自らを生み落とした女よりも、尊いものとして。

 だから、自分は母とは共にいられない。家族の情愛よりも性愛交じりの友愛を取った親不孝者は、母の愛を受け取るには値しないのだ。

 幼い頃は遙かな高みにあった美しい顔は、首を上げずとも見つめられる位置にある。赤い瞳に映る母の面差しは歪み、引き攣れていた。癇癪を起こして泣き出す寸前の幼子のような、諾々と理不尽を呑みこむ老人のような面は直視に耐えなかった。母から笑顔を奪ったのは自分なのに――自分であるからこそ、魂が押しつぶされる。

 密やかな啜り泣きはせせらぎと小鳥の囀りを相まり、少年の不実が成した罪を指弾した。踏みしめた腐葉土の下に住まう者の銀の幻影が、深淵から這い上がってカヤトを責め立てる。

 閉ざした目蓋の裏に広がるのは侘しい冬の景色だった。まばらに生い茂っていた草も枯れ、凍る大地がむき出しになったそこに、いつか自分は還るはずだったのだが、もはや受け入れられないだろう。だがそれで良い。

「……でも、俺は、」

 母さんの子供として生まれてこれて幸せだった。

 せめてもの感謝の徴に紡いだ愛情は、劈く爆音に吹き飛ばされた。

「……何だ?」

 目を見開き息を止める男の、怯え泣き出した幼児の目線の先にある空は、陰鬱な雲に覆われてもなお美しかった。母たちを待つ間ふと仰いだ天空は、数え切れぬ国が、民族が滅亡してもなお、この世の終焉までは永遠に変わらず在り続けるものだった。

 なのに、燃えている。揺らめく紅蓮が一面の青を侵食している。けものたちの住まいたる太古の森が人間の手によって拓かれてもなお、古の女神の息吹をどこかに留めた泉の畔にさえも、崩壊の序曲は届いた。

 堅牢に積み上げられた石を、「羊の門」を崩すのは、女王の夫を肉片にしたのだと伝え聞いていた鉄の球でも、紅蓮の舌でもない。

 ――どうか、我らをお救いください。

 どこか覚えがあるものも、初めて耳にしたものも、様々な言語による歓声と怒号が静寂を駆逐する。慣れた剣戟は耳に届かないが、もはや全ては明らかだった。

 女王を見限った民が兵を襲い、門を開いて異教徒の軍を招き入れたのだ。圧制と暴虐の軛から自分たち迷える羊を解き放ち、青々と茂る豊かな草原へと導いてくれる羊飼いとして。

 五百年前、まだネミル人とも呼ばれていなかったネミル人の祖の一派「鉄の民」が、カヤトの父と母の祖が、もはや亡い国々が齎した終わりが蘇る。母を求める子の、子を求める母の嘆きが響き渡る。獰猛な蹄が穢れなき幼子を踏み砕く。伝承と伝説の女王の兄の記述のみで知るはずの終焉の光景はどこか朧で、カヤトからは縁遠いものだったはずなのに、肌に絡む熱気も鼻腔を刺す臭気も、全ては現実のものだった。

 ――救世主よ!

 渦巻き、滾る狂乱は二度目の咆哮に遮られる。人々の恐れと騒めきは、呆然と立ちすくむカヤトのものでもあった。

 貪婪に燻る黒煙の下には、か弱き人の子が築き上げた栄華の証が坐していたはずだ。遠い昔、異形の神を崇めていた神殿の跡地に建てられた、メゼアがいる宮殿が。

『星が綺麗ですね』

 微笑む彼女と並んで仰いだ夜空の下で交わした密やかな囁きが、火照った耳殻をくすぐる。

 ――またいつか、一緒に……。

 メゼアがカヤトとの約束を破るはずがない。カヤトを残して死ぬはずはないのだと信じたいのに、信じきれない。

 ――約束、もしかしたら……。

 だって、「あいつ」は最も残酷な形で、約束を守って破った。

 ――幸せになってほしいと思ったから。

 自分は、何一つ変わることなんて望んでいなかったのに。ただ側にいてくれればよかったのに、勝手なことを言って勝手に去って、そして勝手に戻ってきた。

 俊敏な四肢を灼く怒りと嘆きが、吹き荒ぶ吹雪が、煮えたぎった頭の芯を凍てつかせる。薔薇色と朱色、黄金と暗澹が入り混じる地獄の入り口まで、カヤトの足ならば四半刻もかかるまい。

 迫りくる死からメゼアを救う。それがカヤトができるただ一つの贖罪だった。

「さよなら、母さん」

 黒煙に蝕まれる蒼穹を仰ぐ女に、最後の言葉を贈る。万感の想いを込めた別離の文句は、呆けたように立ち尽くす女を現実に連れ戻した。

 嫋やかな手が長く伸びた灰色の髪を――かつて彼女が梳り、編んで整えていた三つ編みを握る。頭皮が引かれる懐かしい痛みに招かれ、振り返った少年の目に飛び込んできたのは、母の恐ろしい顔だった。

「……そんなの、いやよ」

 ぎらつく青い瞳は得物を久方ぶりの得物を見出した、いつ飢え死ぬかとも知れぬ仔を抱えた母猫のものだった。

「やっと、やっと会えたのに! ……わたしはあなたがいないと生きていけないのに!」

 ぼろぼろと零れ落ちる激情は、細い指先に、カヤトの一部に降り注ぐ。これを手放してはなるものかと、ありったけの力を込めてカヤトをこちらに引き留めようともがく指は容易には解けないだろう。

 腰に佩いた剣に指を伸ばす。研ぎ澄まされた刃を豊かな束に当てると、断ち切られたのは長い髪だけではなかった。

『わたしのかわいい子』

 脳裏に過る慕わしい影から解き放たれた頭は軽かった。澱み煤けた白の向こうから引きずり出された太陽が、縛めから解放された灰色がへばりつく項をひりつかせる。

「――カヤト!」

 少年は木霊する女の絶叫に背を向け、一匹のけものとなった。蠢く人波を掻き分けながら、柘榴の園に赴いたことが、遠い昔にもあったような気がした。 

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