誰に天の星を数え上げることができるでしょうか Ⅱ

 人目を盗んで女王に侍る彼女の許に赴くのは、拍子抜けするほどに簡単だった。皆、来るべき終焉に囚われていて、一介の女官の動向に払う余裕など既に失ってしまっているのだろう。また、背信の疑念は晴れたとはいえ、重罪人たる女王の甥を見逃す失態を犯したメゼアは、既に主の寵を失っている。かつて女王に我が妹と呼ばれ、王女に姉と慕われていた女官はもういない。カヤトの目の前で、氷柱よりも凍てついた幾人かの眼差しに貫かれている娘はもはや紫丁香花リラの香りを纏ってはいない。漂うのは彼女本来の甘い匂いだけだった。

「――お前」

 周囲の女官に腫れ物どころか、腐敗し蛆が蠢く犬の死骸のごとく扱われる少女。彼女の頬は、燭台の炎では暴ききれない夜闇に覆われていることを差し引いても蒼ざめている。

「こんな時にこんなとこで逢引なんて、どんな神経してるのかしら?」

「大した顔してないのに。それとも、身体で取り入ったの? ……この年頃の男なんて、盛った犬みたいなものだものね」

「そうね。でもそれにしても胸が大きいって得ね。美人じゃなくても胸があれば何とかなるんだもの。羨ましいわあ」 

 密やかな、けれども彼女の耳にははっきりと届く声量で形にされた嘲りは醜悪だった。

 ――奴隷との恥ずべき快楽に耽るあまり、陛下の信を裏切った淫売。

 耳から流れ込む猛毒に侮蔑に震える肢体を抱きしめてやりたかった。彼女の名誉をあらぬ中傷で貶めた女の一人や二人など、この湾刀でどうとでもできるのに、

「いいんです」

「……でもよ」

「それより、わたしに用があるんでしょう? 少し、二人きりになれる場所に行きませんか?」 

 メゼアは野の花の控えめな笑顔でカヤトを制した。そうして、喉元に痞えていた文句を呑みこませた。

 ――お前、いつ母さんと会ったんだ? どうして、俺を騙すように母さんたちと会わせたんだ?

 本当は、会って真っ先に渦巻く疑念をぶつけるつもりだった。だが、こうして爪はじきにされ、所在なく佇む彼女の涙ぐんだ目に見つめられると、僅かばかりの怒りの炎など瞬く間に鎮められてしまう。

「見ろよ。あいつ……」

「知ってる。あいつ、イングメレディ公にヤらせるならあいつらにもヤらせてやりゃあ良かったのに」

 数多の侮蔑と嘲笑と憎悪を潜り抜け、ようやくたどり着いた星々が縫い付けられた夜空は、メゼアの虹彩に似ていた。

「綺麗ですね」

 豊かな金茶の睫毛を瞬かせ、彼方からの光を見つめる少女の指先には、一際見事な輝きがある。

 猫の爪よりも細い月は厚い雲の帳に隠れて出てこない。生い茂る柘榴の葉の他には遮るもののない星明かりに照らされ艶めく髪が、白い面が振り返る。

「ねえ、あの星はどこにあると思います?」

 ふわりとほころぶ熟れた木苺の唇に過る陰に潜む感情は、愛らしくも凡庸の域を出ない少女を崇高に彩っていた。悲嘆と寂寥を凌駕する歓喜は何故だか認めがたく、カヤトは彼女の細い肩を掴まずにはいられなかった。無邪気に歓声を上げるメゼアがそのまま「あちら」に行って、永遠に自分の手の届かない存在になってしまいそうだったから。

「さあな。……でも、水晶天じゃなかったらいいな」

 鳥の羽でくすぐるようにそっと囁いた言葉が少女に浮かべさせたのは、痛みを堪えた甘い微笑みだった。

「……ええ。いつか世界が終わる時になくなっちゃうのは寂しいですものね」

 神が坐す楽園と人の世を隔てる七つの天には、それぞれを固有の領域とする星たちが張り付き、人々の運命を司っている。そしてこの世を取り巻く天蓋の一つ「水晶天」は、来るべきこの世の終わりと新たなる始まりの徴として砕け堕ち、不信心者たちの頭上に降り注ぐ。 

 いつか誰かが紡いだ創世神話は、遙かなる東方で謳われるものとは似て異なっていた。

 緋色と黄金の羽根持つ麗しの火の鳥。天主の言葉から生み出された、全ての鳥たちの原母にして王が産んだ卵から発生し、九つの天と海洋と大地になった世界こそ母の故郷。蛇に唆された最初の女の罪ゆえに、唯一神に見捨てられたメゼアたちの世界とは、同一の要素を含みながら重なり合わない。

 ならばこの自分は、上天により生み出された蒼き狼の裔たる父と、古の風の神の裔と語られる民の母の間に生まれたカヤトは、いったいどこに還ればいいのだろう。

 白い闇が蘇る。雪と雹が混じる風は肌を裂く刃だった。吹き出す生命が滴り沁みる地の深淵に住まう、この世の悪を創り出した女神は、恐ろしき気高き獣の主と、男性神としても語られている。いや、男であり女であるのは真にこの世を造り出した偽りの創造主で……。

 退屈極まりない神学の座学において、ただ一つカヤトを惹きつけたのは、かつて――あるいは地方や農村においては現在においても――この地に蔓延った異端の神話だった。彼女であり彼の息吹が残る太古の森は既に人の子に征服され、支配下に置かれて久しいのに。これは欺瞞であると宣言されているのに、懐かしい。還りたい。

『あなたの心がわたしたちの神の下に在るのなら』

 狭い頬に飛び散った鮮血を己が涙で洗い清めた女の、細く澄んだ囁きは慕わしいが深淵に沈むかのような懐旧には誘わない。なぜなら母の声は光だから。

『……あなた、どうしていつもここにいるんですか?』

 数年前の、今よりももっとあどけなかったメゼアがカヤトに手向けた、罵声と共に切り捨てた疑問が、時を超えて荒れ狂う胸に突き刺さる。

 あの楢の大木の下にいると、大いなる何かに――例えるならば「父」に守られている気がする。実際のカヤトの父は酒代と引きかえに我が子を売り飛ばす外道だが。

 太く逞しい枝を寝台に、瘤を枕に寝転ぶと、温かな腕に抱かれているような気がする。だからカヤトは、あの場所が好きだったのだ。望んでも得られなかった父の、都合の良い代用品として。だが今になって、物言わぬ大樹でも澱んだ赤い目をしたけものでもない、人間・・の父が現れるなんて。

 このまま母の願い通りの道を歩めば――控えめに告げられた約束の日と刻に、数少ない私物を纏めてあの泉の畔に赴けば、カヤトはイヴォルカ人になるのだろう。顔立ちは他と趣を異にすれど、善良な両親の愛を受け、可愛らしい弟たちに囲まれ育った、平凡な少年に。そして、メゼアもそれを望んでいるのだろう。

『あなたのお友達だっていう女の子が、教えてくれたのよ』

 もしも最初から真実を告げられていたら、自分は母の許には赴かなかった。メゼアはカヤトの弱さを熟知していたからこそ、騙し討ち同然の手を打ったのだ。

 奴隷の身分から解放され、自由を取り戻した自分の姿など、カヤトには想像もできない。この世に生を受けてからたった六年の間とはいえ、人間であった期間があるのに。まるで最初から人間ではなかったかのように、相容れなかった。

 柘榴の葉が揺れる。夜風が少年と少女の長い髪をそよがせ、臆病な月を厚い面紗の影から引きずり出す。煌々と辺りを照り付ける白金の円盤の光は冷ややかで荘厳だった。どちらからともなく縋りつき絡め合った嫋やかな指と武骨な指から、互いの熱が染み渡る。重ね合わせた肌は己と他者の境界だ。たとえ肉と肉をまぐわわせても、真の意味で二つが一つになることはない。

 あるいは永遠への回帰が成し遂げられる絶頂は性交の最中に在る。生を忘れさせる法悦は死に通じる。ならば、至福の合一を果たすには――

 冷え切った、だがふわりと柔らかな幻が薄い唇を包む。それは紛れもない幸福だった。決して赦されないと分かっているのに、泣き出したくなるぐらいに。

「星が綺麗ですね」

 どうしてとも何故とも追求せず、ただ静かに俯いたカヤトの背を撫でる少女の横顔は優しかった。

「落とした飴に集る蟻みたいだよな」

「……あなたらしい喩えですけど、もっと詩情に気を使っても。……それこそあなたらしくない、か」

 あなたは変わりませんね。

 親しみが入り交じる含み笑いが厚みを増した胸に染み渡る。奥の奥をこじ開けて、しまい込んでいた想いを月光の下に暴き出した。

「だったら、お前の雀斑とかなら気に入るのか?」

「……え?」

 薄茶の斑点が散る小さな鼻の頭が、ふっくらとした頬が、紺青の闇にも誤魔化せない紅に染まった。ぱくぱくと、岸に打ち上げられた川魚よりも忙しく口を開く少女の体温が上がった。カヤトの体温も、彼女に負けないぐらいに。

「あの、それは、い、いったい……?」

 聞こえなかった振りができるほど器用な女ではないことはとうに承知している。だが、この時ばかりは互いの不器用さと、彼女のこういった面での察しの悪さが憎たらしくなった。今更、先程の発言を「一時の気の迷いだった」などと退けられはしまい。 

 男らしく、覚悟を決めろ。汗ばみべとついた空いた左手を握り締め、硬く引き結んでいた口を開く。

「いいか、一度しか言わねえから良く聞けよ」

「は、はい」

「……お前は可愛い。少なくとも俺にとっては、世界で一番」

 熟れた林檎さながらに赤面した少女の淡く開いた唇が吐き出すのは、短くくぐもった喘ぎばかり。 

「……ほ、星が綺麗ですね」 

 ようやく飛び出した意味を成す連なりは、まるで意味を成していなかった。

「お前、さっきからそればっかだな」

 呆れとも落胆ともつかない吐息を零しながら、少年は赤らんだ嫋やかな項に目を凝らす。肌理細やかな皮膚には、汗の珠が滲んでいた。そういえばカヤトの頬も、正体不明の熱に苛まれている。

「だ、だから、またいつか一緒に星を見ましょう!」

 寒いのに身体が火照る。熱いのに悪寒が奔る。

「……二人きりで、一晩中、ずっと」 

 相反する不調は、これで倒れないのが不思議だと感心してしまうほどに顔に熱を溜めた少女の、上目遣いの眼差しに貫かれた途端、際限なく膨れ上がりはじけ飛んだ。

 二人だけで、一晩。健全でありながら不純な十五才の少年の思考が簡潔な単語で連想する行為を、メゼアが念頭に置いていないことは瞳に宿った真剣さから察せられる。誘う意図など欠片もありはしないことも。

「だから、あなたは絶対に生きていてください。この戦がわたしたちの敗北で終わっても、あなたは生き抜いて」

 潤んだ双眸を瞬かせる少女の、なよやかな肢体を引き寄せる。何かを期待するかのようにそっと目蓋を下ろした少女の、滑らかな肌は熱かった。こじんまりとした、けれどもふっくらと蠱惑的な唇に触れたかったが、渦巻く羞恥心に阻まれる。

「……じゃあ、お前も絶対に死ぬな」

 形良い耳元で未来に繋がる約束を紡ぐことが、少年にできる精一杯だった。

 メゼアはほんの少し残念そうに、照れくさそうに微笑んだ。カヤトの脈動を乱す笑顔は、別れの挨拶と共に闇夜に蕩ける。

 夜明けを告げる太陽は黄昏を齎す落日となって落ちる。この世の始まり以来乱されぬ世の理は、残された民の最後の希望たる城壁に絶望が――彼らにとってのこの世の終わりが突き付けられても変わらなかった。

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