誰に天の星を数え上げることができるでしょうか Ⅰ

 毛皮を、蜜を、奴隷を運ぶ河を行き来する人々の財で築かれた聖堂はやはり荘厳で、唯一神と同じであるはずなのに違う神に縋る罪悪は喚起されなかった。少女は薄く白い目蓋を持ち上げ、黄金の甲冑を纏った天使を仰ぐ。モザイク画は、燭台の炎を乱反射していた。鈍く控えめな、けれども神聖な輝きは異教徒であるメゼアの心にも射す。

 いと高きところから卑小なる我らを見守る者。「天主」とは、唯一神の別称である。彼の名は人の子がみだりに口に出して穢すには尊すぎ、正しい音は失われて久しかった。

 かつてペテルデでは――周辺の、既に滅亡し、古書や伝承にのみその縁を留める国々でも――唯一神は「至高神」と呼ばれていた。

 至高。つまり、最高ではあるが唯一ではない。

 唯一神ではない神を認めた教えは異端であり、五百年前に生きた伝説の女王とその兄である初代の総主教によって討伐された。

 ならば、大陸東部北方での唯一神の異称が生き延び、今日に至るまで祈りを捧げられているのはなぜなのか。それは、草原の蒼き狼の裔のくびきに繋がれた北方の民が、百に満たぬ歳月の間とはいえペテルデの半分を支配下に置いたから。ペテルデの民が神の意思を受けた英雄によって蜂起し、自由と誇りを奪還した後も、貿易を通じて交流を保ち続けたからに他ならない。

 神は人の子が教えを同じくする者を奴隷として使役する長さをも定めた。七年を越えた奉仕の強要は神の則に背く。しかし人間は、神は同一でも教義が違えばその限りではないとの抜け道を儲け、弱き者を搾取し続ける。宮廷の奴隷兵のほとんどはかつてのペテルデの支配者の子供たちであり、彼らは唯一神ではない唯一神を崇めていた。もちろんカヤトも。彼はある時――母と共に市街を散策していたメゼアが偶然に「彼女」を見かけた七年前からぱたりと、「ここ」に通うことをやめてしまったようだが。

 ――カヤトのための祈りは、唯一神よりも天主に捧げるべきだろう。

「……主よ」

 小さな唇から漏れた呟きは、荘厳な合唱に呑まれて消えてゆく。

「わたしのあの子を――カヤトをお救いください」

 なのに、いやにはっきりと面紗に覆われた耳に飛び込んできた。ほんの数瞬とはいえ、メゼアに呼吸を忘れさせた澄んだ声は、メゼアの物ではない。だって右側から響いてきた懇願は、今は亡き母が病床でメゼアを抱きしめ涙を流したあの時の、憂いを帯びている。胸を掻き毟る寂しげな甘さは子を持つ女のみが発せられるものなのだ。

「わたしのかわいい子を、どうか……」

 幼子二人を従え、細い肩を震わせる女性。その細かく波打つ豊かな髪に見覚えがあった。

 整った額に据えられた嫋やかな眉。狂いなく通った高い鼻梁。長い睫毛の影が落ちる狭い頬。口角が上がった、悪戯っぽい唇。

 そっと覗った横顔は美しく、メゼアは彼女の腕を掴まずにはいられなかった。悲嘆と錯乱の最中我が身を掻き抱き、閉じ込めた硬いそれとは全く違う、なよやかな腕を。


 ◇

 

 亡き王配の生地はもぎ取られた。逃亡した女王の甥の領地を襲った軍勢の片割れによって。つまり、大陸中南部ナスラキヤ地方最強と謳われた軍を赤子どころか蟻の群れ同然に踏みつぶし、人心を恐慌に陥れた大軍は、全体の半分以下でしかなかったのだ。

 第一宰相率いる兵の群れはイングメレディを占領し、皇帝とその親衛軍を頭に頂く兵たちと合流して王都一帯に侵攻している。家という家、村という村、街という街――およそ人が住まう場所すべてを略奪し、破壊しながら。

 城壁の内を目がけ、非難してきた民が齎した伝聞は瞬く間に城下に駆け巡り、末端の些細な傷口から染み入った毒が心臓に回るように騒乱させた。右の腕と両の脚――イングメレディ地方とネミル地方を――もぎ取られ、頭部と胴体と左腕たるカプサジのみになったペテルデに、心臓たる都ムツタシを守る力はもはやない。いずれ迎える敗北の時、人々は虐殺され奴隷として捕らえられ、数多の破壊を被りながら父祖が再建させてきた繁栄には再び炎が放たれ灰燼と化すだろう。

 王国の未来を予知し、ある者にとっての外つ国に、またある者にとっての故郷に活路を見出した商人たちの抜け殻は寂れ、往時の姿を偲ぶことすら難しかった。

 カヤトは紅い眼を細め、場違いですらある笑みを浮かべる。

「……来るな」

 行く当ても、資金も持たぬ哀れなる羊たちは、袋小路に追い詰められ、血走った眼をぎらつかせていた。

 闇は光が在ってこそ、その暗澹を際立たせる。救済に至る扉が始めから設けられていないのなら、閉ざされた部屋の中でおとなしく諦観に身を委ねることもできよう。しかし一度は開かれていながら閉ざされてしまっていたら。しかも、自らを導くべき者の手で閉ざされていたのなら――

 気持ちは理解できる。だが、同調することはできない。

「諦めろ」

 カヤトは微笑み、項垂れてなお剣を構える男の足の腱を切先でなぞった。荒い息を吐いていた口から血が、絶叫が迸る。均衡を崩した身体はひび割れた石畳に叩き付けられた。丸い頭部は石工の忘れ物らしき、尖った石の破片に叩き付けられた。熟れすぎた果実が潰える音は不気味だった。

「……、た、たす」

 ひしゃげた頭部から桃色の破片を飛び散らせた男にカヤトが与えられる救いはただ一つ。薄汚れてはいるが逞しい首に刃を食い込ませると、やがて断末魔は止んだ。

 しんと静まり返った行きどまりで、少年は独り言つ。

「……あんたら、もっと上手くやってりゃあ英雄になれたのかもしれねえのにな」

 王国に衰退を招いた女王の首と引きかえに、今一度の和平を申し出る。彼らの画策事態は悪くなかったが、警戒が足りなかったのだ。

 近隣の農民や家畜を抱え、一時的に膨らんだ住民全ての口を満たす程の食糧は、収穫期目前という戦の時期も災いしてか――あるいは、それすらも軍略だったのか――もはや残されてはいない。体力のない幼子や老人を筆頭に飢え、死に逝く現在においては、一抱えの麺麭は密告に報いるには十分すぎる褒賞となる。

 いったいどこに隠れていたのか。男の亡骸に群がる烏や猫がまだ温かな肉を啄み、血を舐める。

 すっかり癒えた背を撫でる灰色の髪に絡んだ紅蓮が漂わせる臭いが招くのが、鳥や大した牙を備えぬ小動物であったならいい。だが、野犬の群れにでも出くわしてしまったら面倒だ。徒党を組んだ人間ならば斬り捨てられるが、獣は素早い。カヤトは父方より狼の血統を引き継いでいるが、伸びやかな四肢は紛うことなき人間のそれなのだ。重い剣を抱えて足場の悪い路地を数刻にも渡って駆けていては、身体が疲労を覚え安楽を求めるのも致し方ない。

 課せられた使命は既に遂行した。ならば、少しぐらいの休息を貪っても良いだろう。楢の大木に抱かれた泉で、他者の生命の飛沫を雪いでも構うまい。

 まるで涙のように雫を滴らせる肉塊を、痙攣する亡骸を前に剣を取り落とした少年の足元目がけて放る。ついでに先程の男のものよりかは細いがやはり精悍な首に湾刀をめり込ませると、少年はびくりと飛び跳ねた。血溜りに尻もちをついたニコがカヤトに寄こすのは、化物を見る眼差しであった。多少なりとも宿っていた親しみはもう欠片もなくて。

「俺は少し休むから、それ、お前が持っていけ。何なら、お前の手柄・・ってことにしてもいい」

「……お前は、相変わらず余裕そうだな」

 ただ恐怖と蔑みだけが凝っていた。

「もう別の手柄を立てたから、そんなに平然としてられるんだろ? ……女みたいに下になって抱かれるって、どんな気分なんだ?」

 へらり、と引き攣った面に張り付いた笑みは浅ましく、

「お前が言いたいのはそれだけか?」   

 鳩尾に膝を食い込ませ、呻く少年の頭を足元の池に押し込まんとする衝動に背を向けるのは容易ではなかった。

「……だったら、聞かなかったことにしてやる」

 本当は、今すぐにでもニコに殴りかかりたい。ねじ伏せ、全身の骨が折れるまで殴打し、己が力を彼に示したい。血の泡を吐くまで腹部に拳をめり込ませたい。

 だが、決めたのだ。カヤトの本性を赦し、受け入れてくれた少女に相応しい人間になるのだと。

 長らく休養を取っていたカヤトに下された命の仔細を知ったメゼアは、雀斑が散った顔を蒼白に染めながらも、微笑んでくれた。

 どうか無事に全てを終わらせて、そしてわたしたちのあの場所に来てくれ、と。

『絶対に、絶対に。約束ですよ? 大事な話があるんですから』

 そっと抱きしめた肢体の柔らかさと温かさは、凍てつき強張った四肢を解す。飢えた気力を燃え上がらせる炎に、カヤトの行く末を照らし導く燈火となる。

 この世の悪を生み出した、獣たちの恐ろしき気高き主の息吹を僅かながらに留める泉の畔に辿りついた頃には、薄桃の蚯蚓がのたうつ背は一面汗で濡れていた。

「……メゼア?」

 名を呼べば雀斑が散った頬を緩め、光の加減で黄金に艶めく亜麻色の三つ編みを震わせるはずの少女の影はない。

 しかし厚い雲の隙間から差し込む鈍い光に照らされた水面には、四つの影が映っていた。胡乱げな、どこか不躾ですらある、けれども怯えた目で血塗れのカヤトを見る二人の子供。彼らによく似た、父らしき男。

「……カヤト?」

 そして、遠い昔に引き離された、「彼ら」の母でありカヤトの母である女。

 母さん。

 飢え強張った喉が紡いだ掠れた呻きは、彼女らの耳には届かなかったはずなのに、女は呆然と佇むカヤトに駆け寄る。

 上質な衣服が汚れるのも構わずにカヤトを抱きしめる女の面には、過ぎ去った年相応の変化が刻まれているが、母でしかありえなかった。

「……あの女の子の言う通りだわ。こんなに近くにいたなんて」

 ――やっと、やっと見つけた。わたしのかわいい子。

 大きな巴旦杏型の瞳から涙を零す女は、こんなにも小さかっただろうか。

「ああ、イェラーヴァ。この子が君のカヤトなんだね。……君によく似て美しい子だ」

 いかにも善良そうな母の夫は零れ落ちた涙を拭い、咽び泣く母ごとカヤトを抱きしめた。

 自分がその気になれば平凡な体格の男と華奢な女なんて、簡単に振りほどけるはずなのに、力が出ない。降り注ぐ歓喜はカヤトの手足を萎えさせる。 

「あんた、何なんだ? ……俺はあんたのガキじゃないのに。俺は、あんたの妻を、母さんを……」

 殴って犯して身売りを黙認して、しまいには売り飛ばした屑の息子だ。

 唯一己が意のままに動く舌すらも、縺れ絡まり縮こまり、全てを吐き出すには至らなかった。母が過去を隠してこの男の妻になっていたのなら。真実を露呈すれば母の幸福は崩壊してしまう。

「……そんなことは君が言わなくてもいい。私は全て知っているから」

 仄暗い危惧と戦慄を、男はあっけなく越えていった。

「だったら……!」

「私は君のお母さんを愛している。イェラーヴァが愛する者は、私が愛する者でもある」

 半ば無意識に剣の柄に手を伸ばす節くれだった指を、厚い掌が包み込む。

 ――だから、君に私の子供になって欲しいんだ。そして、一緒にここから逃げよう。私たちの故郷に行こう。

 かつて焦がれて得られなかった「父」の慈愛は太陽よりも眩く、目を細めずには直視していられない。対照的に、そっと顔を背けた先で揺らぐ本物の日輪はぼやけ、輪郭すらおぼつかなかった。

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