九十九の羊か、一匹の迷い仔か Ⅱ

「お会いしとうございました。わたしの陛下」

 ほつれ毛がかかる項に突き刺さる眼差しは氷柱よりも鋭く、凍てついていた。青玉の瞳の輝きは失せ、虚ろに翳っているだろう。顔を上げずとも、肌で感じられる。

「こうしてお目通りを許して下さった喜びはとても語り尽くせません」

「……お久しぶり。でも、よくわたくしの目の前に顔を出せたものね、メゼア」

 かつては妙なる楽の音を紡いだ喉も、弦が切れた琴の音色を奏でるばかり。以前は自由に出入りを許されていた女王の私室は、跪いて眺めるとまるで見知らぬ部屋だった。

「陛下のお心を煩わせたわたしを赦してくれとは言いません。この首を落としてくださっても構いません」

 深く深く頭を垂れる。長い毛足が蒼ざめた頬を掠め、額が柔らかな羊毛に沈むまで。

 メゼアはこれからかつての主を欺く。ただ独りの少年を救うために、父祖の地に生きる民たちを危機に追い込んだ。それはあるいは救済に繋がる背信なのかもしれないが、裏切りは裏切りだ。結果的に多くの生命を救おうが、沈みゆく船を救済の岸に打ち上げさせようが、罪業であることに変わりはない。

 全身を、喉を強張らせる戦慄きを押し殺し、体温を啜り温もった羊皮紙を懐から取り出す。

「ですがわたしの罪の贖いの前に、陛下を、罪なきか弱き羊たちを、父祖の地を――ペテルデの誇りを踏みにじった悪人の所業を白日の下に晒させてくださいませ」

 メゼアが懐剣でも取り出して女王に襲い掛かるとでも思ったのだろうか。音もなく接近した奴隷兵が、腰に佩いた剣を抜きメゼアの首筋に当てるまでの動作は洗練され、優美ですらあった。

「……わたしがイングメレディ公マナゼに――断罪を恐れ、卑劣にも姿を消した大罪人の下に潜入・・して掴んだ証でございます」

 死への恐怖に苛まれた指先から転がり落ちた書状はひとりでにくるくると――まるで常人の目には映らぬ者たちに転がされているように、虚実の罪を露わにする。

「陛下のご明察の通り、あの者は情けを交わした奴隷を通じ帝国と内通していたのです。自らを玉座に据えるのなら、と」

 剣を納めた青年の武骨な指先が、メゼアの眼前から罪悪を奪う。常軌を逸するがゆえに一層美しい顔を顰めた女王は、紅唇を持ち上げた。ふわり、と。大輪の薔薇がほころぶように。

「説明なさい、メゼア・レゼシュヴァリ。我が母の盾たる騎士を父に持つ娘。あなたは、わたくしを裏切ってなどいない、と? あなたは猟師に捕らえられた愛しい狼を助けるために、悪魔に魂を売ったのではないと言うの?」

 真珠と貴石を嵌めこんだ金の冠を戴く女王は、恋を打ち明ける妹を見守る姉の眼をしているのに、声音は変わらず凍てついていた。

「ならば、あなたなら、マナゼたちの逃亡経路を知っているでしょう? わたくしに教えて頂戴。そうすれば、あなたたちの咎は全てなかったことにして、今までと同じかそれ以上の待遇を約束するわよ」

「……申し訳ございません。存じぬのです」

 女王が微笑む。美しい目を三日月型に歪め、艶やかな唇を吊り上げて。 

「あなたの狼がどうなってもいいの?」 

 非情な切先が皮膚を破く。紅い珠が零れる。心臓が荒れ狂う。目の前が真っ暗になる。――死の恐怖に、罪悪感に囚われる。今度こそ失敗したくない。あの子を死なせたくないのに。

「彼は勇敢なわたしの友。わたしは、陛下とペテルデを救うために悪魔に身を捧げた彼の心身を癒すことに没頭するあまり、悪魔どもをこの宮殿から逃してしまいました。その非は、わたしだけのものでございます」

 たとえ善意だけではなく打算が絡んだゆえだとしても、自らに救済の手を差し伸べてくれた恩人たちを、大切な少年の品位を貶めるのはできれば避けたかった。

 ――マナゼは、あの優しい青年は生きていてくれるだろうか。

 陶器製の壊れ物のように恭しく女王の足を捧げ持ち、彼らの罪を偽造するメゼアにできるのは、彼らの無事を祈ることだけ。カヤトの未来を光で照らす王はナタツィヤではない。だからメゼアは、彼らに生きていて欲しかった。

「お赦しください。あなた様の意志を仰ぐことなく、身勝手な独断であなた様のお心を煩わせたわたしを」

 黄金と貴石で飾られた室内履きを覆う緋衣に、豪奢な爪先にくちづける。冷たく澄んだ宝玉と金属、そして確かな生あった者の滑らかさは唇に張り付いて離れなかった。


 あの柘榴色の夕べが暗黒に変じた夜。ただ一人で歩んだ回廊に揺らめく影は、我が物であっても不気味だった。背を伝う冷たい汗は亡霊の手のようだった。

 一刻も早く、人目に付かぬうちに。足音を、気配を殺しながらの散策に終わりが――かつて一度だけ目にした扉が見えた瞬間は、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。

 不甲斐ない脚を叱咤し、控えめに入室の許可を仰ぐ。

「イングメレディ公。いらっしゃいますか」

「こんな夜更けに男の部屋を訪ねるとは感心できませんね。あのポズホル人が泣きますよ」  

 揶揄い交じりの応えは、余裕すら感じられる鷹揚なものだった。しかし燭台の炎を受け煌めく黒曜石の瞳には陰りが――主と自らの行く末を憂う焦りがあった。

「まあ、いいだろう。私とお前が黙ってさえいればよいのだから――娘、入りなさい」

 優雅に杯を呷る男の顔立ちは精悍だが、燃えたつ焔を宿していたはずの瞳は静かに凪いでいて。

「……せめてもの慰みに、こいつに酌をさせていたところなのだ。もうすぐ酒すらも満足に呑めなくなるだろうから」

 お前もどうだ、と注がれた葡萄酒はどこのものだろう。彼の領地であった、もぎ取られてしまった豊かな果実イングメレディ地方で作られたのだろうか。干し葡萄の甘味と木苺の酸味を上品に、快く纏める渋みには覚えがある。

 脳裏に火山の麓の侘しい村の風景が過る。頬を濡らす滴は赤紫の水面に波紋を起こした。

「泣くほど美味いか? ならば領民たちも喜ぶ」

 マナゼは彼だけのための酒宴に割り込んだメゼアの無礼を咎めるでもなく、唐突に泣き出した娘に眉を顰めるでもなく、ただ静かに月を眺めている。そして褐色の肌の青年は、黙したまま空になった器を満たしていた。

「……あなたは、あなたの領地を愛していましたか?」

「当然だろう。だから私は和平したかった。彼の国に攻められれば、いち早く被害を受けるのは西部のイングメレディだからな」

 自責と悔恨が入り混じる呟きは、掠れ震えていても力強い。鋭い眦から溢れた一筋は月光を弾き煌めき堕ちる。

 恥じるのでもなく、拭うのでもなく、ただ静かに男は泣いた。少女は肩を震わせる彼に背を向け、燭台の炎に照らされても明るまない、質素を通り越して陰鬱な色彩を脱ぎ捨てる。

「……何をしている?」

 一目で喪服と分かる慎ましい黒も、腹部に挟んでいた黒い面紗も、信心深い未亡人ならば喪が明けるまでは着用するものだから、余程がさつな動きをしなければ怪しまれはしまい。だから呆気にとられてらしくなくぽかんと口を開く青年の肌の色も覆い隠せる。

 次に、ゆったりとした青を。どこか古の神官の祭服に似たゆったりとした衣服は、メゼアの丈には合わなかったので、裾や袖を幾重にも折り曲げなければならなかった。間違いなく男物だが、マナゼは美しければ男も女も好む。ゆえに彼のかつての愛妾の衣装棚には、男女どちらの衣装も紛れていたのだろう。

 そして現れた、飾り袖が優美な桃色は――この下は誰にも見せてはならない。

「雀斑娘。あなた、まさか……」

 万が一、見張りの兵に呼び止められた場合、いかにも怪しげな衣服や金品を持ち歩いていてはその場で首を刎ねられるのは確実だ。だからメゼアは、熱気を堪えて服を着こみ、危険を承知でマナゼの部屋に足を運んだ。

「わたしはあなたを裏切ります。あなたを恥ずべき売国奴として陛下に密告します」

 少女は懐に仕舞っていた袋から、呆然と目を瞠る男がかつての愛人たちに送ったであろう宝飾品が詰まった袋を取り出す。きつく縛められていた口から吐き出された品々は、紛れもない極上品だった。女王の乱心と自らの危うい運命を嘆く奴隷兵たちを、道中の護衛として寝返らせるには十分なぐらいには。

「これはまた斬新な裏切りだな。わざわざ知らせに訪れるとは」

「だから“これ”と引きかえに証拠を作っていただきたい・・・・・・・・・のです。カヤトとわたしの安全を確実なものにするために」

 じゃらじゃらと騒めく装飾品とひらひらとたなびく袖は、飢えた馬の目の前の人参だ。彼らは必ず食いつく。そしてやはり食いついた。

 筆記具を奔らせる音は滑らかで快い。認められた文字そのものも、おおらかだが品があった。

「これだけあれば、叔母上は私を悪魔の頭にでも仕立てあげられるだろう」

「ありがとうございます。宝石も服も、あなたやあなたのその……恋人? のものだったし、奪い取ることもできたのに」

「か弱い女に手を上げるなど真の男がすることではない。……それより、お前たちは私たちと共に来ないのか?」

 彼らしくなく涙ぐんでメゼアを見つめる青年に面紗を被せる男の目には、曇りは跡形もなかった。

「カヤトの怪我はまだ塞がっただけで完治していませんし、わたしは足手まといにしかなりませんから」

「……お前はいい女だな。こうしてよくよく見れば可愛らしい顔をしてもいる。――私が無事生き延び玉座に就いたら、愛妾にならないか?」 

「……お断りします」 

 戯れの軽口に涙を誘われるなんて。姫君のために花を摘んだ初夏の午後には予想もできなかった。もっとこの二人と、愛する地について話してみたかった。

「そうか」   

 ――ならば、あの奴隷と末永く幸せに。

 どこか寂しげな苦笑は、生ぬるい風に散らされ、闇に呑まれて消えていった。橙の炎が揺らめく一室に残された葡萄酒は、いずれ開け放たれた扉から侵入した孔雀が飲み干すだろう。

 軟禁状態に置かれていたイングメレディ公とその奴隷、および四人の奴隷兵の消失。その報は朝の静寂を突き破り、身を寄せ合って眠るメゼアとカヤトを引き離した。 

 そしてメゼアは憤怒を美貌で覆い隠した女王の下に引き出され、こうして彼女の足元に這いつくばっている。

「わたしの心は常にあなたの下にあります、我が麗しの太陽の君」 

 我が麗しの太陽の君。ペテルデに唯一神の栄光が齎される以前から現在に至るまで、古き森の中に潜んでいた太陽女神になぞらえた尊称は、黄金の髪の女の心をほんの僅かに揺るがしたようだった。メゼアの母方の部族は、太陽女神と先々代の女王をほとんど同一視し、勇敢な女王を女神のごとく崇拝していた。乳母から寝物語に祖母王の武勇と手腕を謳われ、彼女の才に焦がれていたナタツィヤならば、メゼアの意図を察せられるだろう。わたしが語ったのは、我が運命を司る太陽にかけて真実であると。

「そう。……あなたとあなたのお友達にはすまないことをしたわ」

 金糸の唐草が渦巻く袖が煌めく。か細い首筋に突き付けられていた剣が収められる。

「あのカヤトという奴隷には、傷ついた心身を癒すために、もっと良い部屋と食事を与えましょう。――よくやったわ、メゼア」

 麗しの女王が微笑む。お前の罪は赦したと。だが蘇った威厳と平穏は、荒々しい足音によって蹴散らされた。

「――陛下!」

 息を切らした女官が吐き出したのは、もはや誰にとっても驚くには値しない敗北だった。

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