九十九の羊か、一匹の迷い仔か Ⅰ

 メゼアと二人きりで摂る昼食は、野太い悲鳴や怒号が飛び交う食堂で咀嚼するものとは比べ物にならない。真鍮の盆に乗せられた食器は、概ね空になっていた。残っているのは瑞々しい果実だけだ。

「これ、最後の柘榴なんですって。……美味しいですよ。あなたも、いかがです?」

「取り敢えず一つでいい」

 盆に盛られた柘榴の粒に催していた忌避は、カヤトにとってはもはや縁遠いものになっていた。氷は融け、棘は抜けた。嫋やかな指先が摘まんで抜いた。だからもうこれを恐れることはないのに、指が止まる。呼吸を忘れて熟れた木苺の唇に魅入られてしまう。

 小さな歯列は整っていて、これまた小さな舌先は鮮やかな桃色をしていた。果実の甘さと酸味にぎこちなくほころぶ口元はまろやかだった。

 豪奢で華美な衣服はメゼアのあどけなく柔和な顔立ちには似合っていない。元々は、カヤトの療養のために与えられた部屋の以前の主――マナゼのかつての愛妾のものだったそうだから致し方のないことだが、過分な装飾はメゼアの長所を埋没させる。だが、大きく開いた襟から滑らかな胸元が覗いているのは悪くなかった。悪くないどころか最高だった。あの切込みがもう少し深かったら谷間が見える。

 異性の肌を注視することが無礼に値するのは承知しているが、視線が縫いとめられてしまう。だって、搾りたての乳よりも美味そうだから。

「……カヤト。あなた、もういらないんですか?」

「はあ?」

 透明な青紫に燻る炎の熱を気取られてはならない。メゼアは全てを赦す、とカヤトを抱きしめてくれた。だが流石に「お前を見てたら食事を忘れてた」は受け入れられないだろう。他の人間にならば、嘲られても虐げられても、時が経てば忘れられる。だが彼女に嘲れられるのは耐えられない。メゼアの軽蔑の眼差しは、カヤトにとっては千回の鞭打ちに匹敵する。

 潤み、きらきらと輝く大きな瞳はこの世のどんな宝玉よりも美しくて。少年は味も分からぬままに咀嚼した麺麭の欠片を喉に詰まらせかけた。

「……ごめんなさい。あなたは病み上がりなのにわたしが暗い話ばかりをしたから、食欲がなくなっちゃったんですね」

 申し訳なさげに俯き、金茶の毛先を弄る少女が眩しかった。メゼアと比較すると、自分はとてつもなく下等な生物になった気がする。自分の身を案じ、献身的に世話をしてくれた少女に感謝の言葉一つかけてやれないなんて。

 このままでは駄目だ。このままでは、勝手な思い込みに振り回されていた頃と何も変わらない。少年は掌に爪を食い込ませ、唾液を嚥下し喉元までせり上がってきた羞恥心を押し流した。

「……俺はんなことに左右されるほどヤワじゃねえし。それに、」

 いい加減に蛆虫から脱却しろ。メゼアの隣に並んで恥ずかしくない人間・・になれ。涙ぐむ女を慰められなくて、何が男だ。

 頑なに口を閉ざそうとするもう一人の自分は、手強いが倒せない敵ではなかった。

「お前も悲しかったんだろ。総主教が突然“お亡くなりになった”ことは」

「……ええ」

 この調子だ。これをこのまま続けて行けば、完全に昔の自分たちに戻れる。清らかな泉の畔で花輪を編む彼女の横顔を穏やかに眺めていられた、幸福なあの頃に。肩を寄せあって山並みに堕ちる太陽に目を細めた夕べに。

『綺麗だね』

 うっすらと上気した頬に落ちる睫毛の影は長く濃く、柔らかな頭髪は赤みがかった光を浴びて蜂蜜色を帯びていた。

「こんなこと考えちゃいけないって分かってるんですけど、どうしても……もしかしたら陛下が、と。聖下は王権への介入を避け、中立を守ろうとしていましたが、近頃はマナゼさまに傾いていることは周知の事実でしたから」

 忙しなく上下する睫毛は豊かで、くるりと上がっているのが可愛らしいが、涙は似合わない。

 盛りのついた野獣のような父の元で幼少期を過ごし、奴隷となってからはむさくるしい野郎どもに囲まれて育ったカヤトは、甘く優しい睦事など囁けない。メゼア以外の女との縁などもちろんなく、そもそも彼女以外の女など最初からほぼ眼中に入っていなかったから、先例に倣えもしない。

 カヤトの脳裏に焼き付いた女の泣き顔のほとんどは母のものだが、殴られ犯されていた母の嘆きを止めたのは母自身と――

『わたしはあなたの笑った顔が好きだわ』

 カヤトの笑顔だった。本当に幼い、それこそ言葉を覚えたばかりの頃のカヤトは、母が笑えと言えば笑っていた。そうすると母も微笑んでくれると知っていたから。

 凝り固まった頬を持ち上げるのは難儀する。誰かのために笑みを作るのはそれこそ九年振り。笑ったのは恐らく数か月ぶりで、顔面の筋肉が凍り付いてしまっていたのだ。

『お前、いつも何かに怒ってるみたいな顔してんな』

 もはや同室ではなくなった少年の一人に「澄ました姫さまみたいだ。それもとびきり高慢ちきな」と指摘された造作は元からだ。母もよく顔が生意気だと殴打されていたが、自分も黙っていても拗ねているのかと他者に捉えられるらしい。

「メゼア」

 口角を持ち上げる。目を細める。馬を駆り剣を振るっても苛まれない身体の気力は、ただそれだけの動作で磨滅する。

「……カヤト?」

 少女の、ぽかんと開かれた口と零れ落ちんばかりに瞠られた目が不安だった。上手く笑えているのか確信が持てない。慰めるつもりなのに、かえって彼女を怖がらせてはいまいか。 

「まあ、その……これ、食えよ」  

 食べかけの柘榴をそっと差し出す。メゼアは何故だか頬を真っ赤に染めながらも受け取ってくれたが、泣き止んではくれなかった。

「お前、これ好きなんじゃないのか?」

 花と菓子を好む、丸っこくて柔らかい生き物は果実も好むはずなのに。肉料理ばかりを平らげるカヤトとは対照的に、メゼアはさっぱりとした野菜や果物ばかりを選んでいたのに。

 たわわな実りは少女の片手では支えきれず、細い肩が震えるたびにぐらぐらと揺れていた。硬い果皮の下で密集する種子に降り注ぐ雫は清らかで儚い。

「あなた、わたしが泣いてる理由を分かってないでしょう?」

 メゼアは怒りながら泣いて、悲しみながら笑っていた。喜怒哀楽の二つならばともかく全てを同時にこなすなんて、大したものだ。

 少女の指先から転がり落ちた果実の汁は、毛の長い絨毯に絡んで紅蓮に穢す。まるで鮮血の染みのごとき跡は、雪ですすいでも消え去りはしまい。

「……あなた、せっかく助かったのに。元気になったのに、わたしのせいで殺されちゃうかもしれないんですよ?」

 カヤトがこの安全な巣の中でメゼアに介抱されている間に、「外」では様々な内訌が勃発していた。

 まず、高潔な人柄ゆえに民草に慕われていた総主教の、原因不明の突然の死。ひしめき合う禍乱の坩堝に新たな一石が、誰に放たれたものなのかは今もって暗澹に覆われたままで、明るみに引きずり出すことはできない。不自由な片足を引きずりながら謁見の間に飛び込んだ老人が、女王により与えられたねぎらいの葡萄酒を嚥下したその直後に、胸を掻き毟り泡を噴いて倒れ伏したのだとしても。故人の後を継ぎ民心の支えとなるべく総主教の座に就任したのが、俗物と名高い女王の傀儡人形であっても。

 新たな総主教が着手したのは、支柱を失い揺れる家――ペテルデという大きな家に住まう家族の憂慮を慰撫するための説教ではなく、女王の甥の戒律違反の追求だった。

 唯一神は生殖に関わらぬ性愛を認めず、己に仕える祭祀たちには純潔を要求する。先王の御代においては最強を誇ったはずのペテルデが海の向こうの蛮族共に敗北し続けるのは、貞潔を重んじる神の罰ゆえ。ならば神は誰の罪に激しておられるのか。――それは、おぞましき快楽に耽る次代の王マナゼである。この者こそ、異郷出の奴隷を通じてカハクーフの皇帝と繋がった、悪魔の徒に他ならない。

 愛人どころか私生児まで儲けたと密やかに囁かれる男が嘯くには余りに空々しい文句は、自らが置かれた苦境への理由を求める者たちにとっては餓えを癒す蜜だった。しかし、全ての民の舌から女王への疑心の苦味を拭い去るには及ばない。

 きつく唇を噛みしめる少女の面を色づかせる怒りには悲しみも混じっていた。

「確かにイングメレディ公はその……唯一神がお定めになった決まりに多々背いていたけれど、だからといって、ペテルデを裏切っていたなんて。まして、今この時期に将軍の位を剥奪するなんて」

 たびたびの敗戦の責を問われ、将軍の地位を追われたマナゼは、宮廷の一画での謹慎を余儀なくされている。もはやマナゼとその奴隷にとっては宮廷は戦場よりも危うく、近々――ネミル地方での会戦の結果を待たずに脱出を企てているとの噂もあった。

 敗北の報が届けば、マナゼは怒り狂う民に捧げる犠牲の羊とされるだろう。ならば、まだ自身の権勢が――掌握した奴隷兵たちが女王の権力と対抗していられる間に、できる限りの手を打つ。それは当然の予想だった。

 庇護者たるマナゼがいなくなれば、メゼアは裏切り者として処分されるだろう。もちろんその時は、カヤトも一緒に。

 カヤトはそれでも良かった。この少女が自分と共に死んでくれるのなら。だが、彼女はそれも厭なのだと、赦せないのだと泣く。

「……わたしはあなたに生きていてほしいんです。あなたは、幸せになるべき人間・・だから」

 ――俺はお前なしの幸福なんて想像もできない。融けた氷の中から現れた真実を発するには、カヤトの舌は恥じらいを捨てきれずにいた。

 そっと腕を回した肩は、肢体は、柔らかだった。汚れた器も、柘榴もそのままに、床に身を投げ出して抱き合う。天頂を過ぎた太陽の光を弾く真鍮は、腰に佩いた剣の重みを思い出させた。カヤトは「これ」を振るうために、人を殺すために飼育されていた家畜だ。ならば、その本分を果たすまで。

「なあ、メゼア」  

「……なんですか?」

 大きな瞳を細めて自分を見つめる少女が愛おしい。この存在のために刃を振るえるのなら本望だ。

「お前は、俺たちが皇帝の軍に勝てると思うか?」

「……」

 無言。それは何より雄弁な答えだった。

「俺はそろそろ元の兵舎に戻る。だからお前も女王の下に戻れ」

 この王国が損なわれぬまま在ったほんの数か月前は、カヤトとメゼアの背丈は変わらなかった。なのに、メゼアは今ではすっかり小さくなってしまっている。カヤトの腕の中にすっぽりと納まるぐらいに。 

「俺を餌にしてイングメレディ公の懐に潜り込んでたって言え。“お手付き”の奴隷にイングメレディ公が執心してたのは分かってたから利用した……ぐらいに膨らませりゃあ、女王も信じるだろ」

 カヤトの手は血濡られている。メゼアは主君を裏切った。ならば、これ以上の罪を重ねても同じだろう。

「あなたはそれでいいんですか? だって、あんなに嫌がってたのに……」 

 お前のためなら、どんな恥辱だって被ってもいい。

 小さく頷くと、メゼアは泡沫の微笑を浮かべた。少年と少女は、それから嵌め殺しの窓に黄昏が訪れるまで、見つめ合っていた。ずっと。片時も離れぬように、ひしと指と指を絡ませて。

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