あなたの荷をわたしに委ねなさい Ⅴ

 涙と悲嘆を絞り出し、糸が切れた絡繰り人形さながらにとこに崩れ落ちた肢体は、線が細くとも引き締まって精悍だった。二つの異民族の特徴が絶妙な均衡を保つ、大陸中南部人にはありえない顔立ちは涼しげだが嫋やかでもあり、全身に纏った筋肉とは相反している。

 長い髪を白い敷布に散らして眠る彼は、平凡なメゼアなど比べ物にならない美に恵まれている。もしも彼が女に生まれていたら、女王ナタツィヤに匹敵していたかもしれない。だがカヤトはいかに美しくとも男であって女ではない。その証はメゼアの身体のあちこちに刻まれているし、乱れた彼の脚衣の合わせ目からもはみ出ていた。それ・・を意識してしまうと頬は林檎を通り越して炭火になり、頭は茹だって何も考えられなくなってしまう。

 あの凄惨な尋問部屋からカヤトを救いだし、女王の甥に与えられた宮殿の一画に運び込んで手当てをした際は、着せ替えだけは褐色の肌の青年に頼んだ。身体を清めるためとはいえ、意識がない少年の衣服を剥ぐだけでも気が咎める。局部に触れるなんてもってのほかだ。せめて、そこだけは元に戻してくれていれば良かったのに。

 早鐘を打つ胸を深い息で慰撫する。目蓋を閉ざし、鼠蹊部までずり下がった脚衣を正しい位置に引き上げた。残像を頼りに前を合わせるのは困難を極めた。人肌のぬくもりが指先を掠め、呻きが漏れるたび、心臓が跳ねた。全てが終わるころには、ところどころ破け、血と唾液がこびり付いた服の下では冷や汗が伝っていた。

 金がかった亜麻色に濃青がよく映える、と下賜された女王の少女時代の衣服。ナタツィヤの美貌を飾るには控えめにすぎた衣装は、腹回りが少々、胸と臀部の辺りがかなりきつかったが、星を象った文様が気に入っていた。だが、引き裂かれてしまったのだからもう二度と着られはしない。いずれ女王の女官たる身分同様に捨て去るつもりではあったが、代えに不足している今は流石に困る。

「カヤトのばか」

 真っ直ぐに通った高く形がいい鼻をそっと弾く。規則正しい呼吸音が木霊する室内は、策略と騒乱が繰り広げられているはずの外界からは隔絶されていた。

 滾々と眠る少年の薄い唇から飛び出すのはやはり呼気ばかりで、返事はない。元より応答を求めているのではないが。

 メゼアのなけなしの女としての自負心を抉る睫毛は長い。孔雀の羽を連想させる灰色に縁どられた奥二重の目は細く吊り上がっている。東方の草原地帯の、狼の裔との伝承を持つ民の少年の造作は、狼というよりは狐に近かった。彼を珍らかな毛並みゆえに人目を惹きつけ犬をけしかけられる銀狐だとする。ならば自分は間の抜けた顔をした穴熊がいいところだろう。

『安心なさい。マナゼさまの食指はあなたみたいな小娘には動きませんよ』

 鞭打たれ血に塗れたカヤトを抱きしめるメゼアに救済の手を差し伸べてくれた青年の口調は、指し示される意味とは裏腹に優しかった。恐らく彼は、背信への躊躇いと自責に強張る頬を解きほぐそうとしてか、あるいは勘違いをしていたのだろう。

 かつて・・・の主たちからは夫であり父である男を、罪のない民からは父祖の地や家族を奪った軍勢を奪った軍勢の同胞たる青年は存外に情け深い。きつく整った外貌からはにわかには想像しがたいが。

 多忙の合間を縫ってカヤトに付き添うメゼアに食事を運び、ある時は話し相手になってくれもした青年の優しさに裏があることは理解している。けれど、メゼアは彼に感謝していた。カヤトが自分を襲えるぐらいに快復したのは、彼と彼の主の保護のおかげなのだから。

 女王の私室には劣るものの豪奢に飾られた一室は、数年前のマナゼの愛妾に与えられていたのだという。ここなら女王の配下の手は届かない。見張りの兵も付けるから、君はただその奴隷を癒すことだけを考えてくれ、と。他ならぬマナゼ本人に。

 一介の女官にしか過ぎないメゼアが未来の王の庇護下に置かれるのは、メゼアが証拠品だからだ。女王の甥に対する暗殺の。奴隷兵の反乱をマナゼの指示によるものとし、彼を極刑に追い込むための。――密やかに示されはしたが、まだ犯されてはいない罪を明確に形にするための。

 主であった女王の意志を偶然に耳に挟んだ女官はその恐ろしさを持て余し、女王の甥の奴隷に悪しき企てを打ち明けた。忠実な奴隷は主の命を救うために、斜陽に沈みゆく王国を救うために、女王を制止できる人物の下へ助力を乞いに参じた。ペテルデの民の敬慕を一身に集める老人の足元に縋るために。

 己を祖父と慕う有望な青年の未来を憂い。また騒乱に同意したかすらも定かではない兵たちに加えられる責苦に憤った総主教は、女王を厳しく叱責し、王命を撤廃するように諭した。非情な命によって寝食を共にした友を、辛苦を分かち合った同胞を奪われた奴隷兵たちは、憤りに駆られ再び謀反を起こし――

 メゼアが紡ぎ、マナゼがより合わせた真実・・はナタツィヤの手足を戒め首に食い込む縄となった。

 兵たちを完全に掌握したイングメレディ公はもはや女王への敵意と警戒を隠さない。彼が武力に訴え王位を簒奪しないのは、美貌の女王を慕う民草の心を慮り、王国のこれ以上の分裂を回避するため。

 女王とその甥が対決しているであろう戦場は遠く、耳を澄ませても非難や怒号など聞こえるはずはない。

 マナゼが敗北すればメゼアは処刑される。それだけならば良い。主君を裏切った家臣に罰が与えられるのは当然のことなのだから、甘んじて死を受け入れよう。だが父の身勝手により奴隷の身に堕とされてもなお、懸命に生きてきた少年が殺されるのは耐えられない。

 豪奢に飾られた室内は薄暗く、真昼であるのに人肌の温かさが恋しくなった。この日当たりが悪い一室にいて肌寒さを覚えなかったのは、カヤトに圧し掛かられていた間だけ。恐怖が寒気を凌駕していただけなのかもしれないが、他者の体温に包まれ他者の体温を包んでいた最中は暑いくらいだったのに。

「わたしはあなたを守れるでしょうか」

 薄い布団ごと呻吟する少年を掻き抱く。痛めつけられた背を無意識に庇ってか、横を向いた少年の目蓋が開く気配はない。幼少期から密かに憧れていた、癖のない髪はしなやかで、指の合間からさらさらと零れた。

 カヤトを苦しめた者たちは、皆相応しい罰を受るべきだ。幼いカヤトを切りつけた彼の父も、彼を虐げたネミル人の奴隷兵たちも。もちろんメゼアも。

 カヤトに押さえつけられ身体を弄ばれている間、メゼアは悲しかった。かつてよく知っていた存在が、見ず知らずの他人になったようで。噛みつかれた肩や脇腹、指の痕がまざまざと残る乳房よりも、心が痛かった。だから泣いた。

 カヤトは同じような目に何回も遭ってきた。だけど泣かなかった。「無残」という形容詞では到底言い表せぬほどに鞭打たれても。カヤトの強さはメゼアには脅威だ。

 強く美しい彼が、弱くてみっともない、美しくもない自分を求める理由は分からない。メゼアにとっては不要な物体でしかない胸の脂肪にカヤトが顔を埋めた理由も。

 これが好きならば思う存分揉めばいい。どうせ減りはしないし、減っても困りはしないのだから。

 他者の熱を感知し、蠢く硬い指先をメゼアは拒めなかった。拗ねた幼子か獣の仔のように縋りく少年の顔は無垢だったから。 

 ――わたしはあなたのお母さんの代わりにはなれないけど。

 身じろぎすれば揺れる、不格好な乳房も太い脚も。安産型だと年嵩の女官に指摘されて以来、彼女に悪意などないのだと理解していてもなお、劣等感を覚えてしまった臀部も。理想とするすらりとした肢体には程遠い、無様な身体は既に全て見られてしまっている。

 メゼアがカヤトにできるのは、赦し、贖い、受け入れること。胸や尻や太腿や二の腕を触らせるだけでカヤトが癒されるなら、メゼアは多少の痛みや羞恥心などないものにできる。

「あなたはかわいいですね」

 「かわいい」なる響きは十五才の、細身だが腹筋は割れ腕には力瘤ができる少年には不似合いである。だがメゼアはカヤトを愛らしく思った。誇り高く獰猛な野生の獣が自分にだけ心を許し、ふさふさとした尻尾を擦りつけてきたのだ。

 連日の看病で削り取られた体力では、染み入る心地良い熱と睡魔には抗えない。うとうとと船を漕ぎ、安楽の世界に旅立っていった少女は、やがて現実の岸に辿りつく。

「……あなたたち、とうとう一戦交えたんですか?」

 ぼやけた眼に映る褐色の面には隠しきれない驚愕と呆れが滲んでいた。適当に直しただけの衣服や、首筋の痣や噛み痕からはあらぬ誤解をされても仕方ない。だが未遂だったのだし、あれは一時の気の迷いなのだから、カヤトのためにも弁明しなければ。

「あ、ありえません! カヤトがわたしと、なんて……」

「まあ、あなたみたいな良く言えば素朴なのを好む男は必ず一定数いるものですからね。このポズホル人は“それ”だったのでしょう。おめでとうございます」

 黒々とした眼はメゼアのふくらみを掴む少年の手を生ぬるく見つめている。肉刺だらけの掌に加わる力は意識がないとは信じられぬほどで、少女の細腕では対抗できなかった。

「ち、違います! わたしたちは、何も、本当に、何も、してません!」

「はいはい。じゃあそういうことにしておきましょうか」

 弁明は虚しく大気を揺るがすばかりで、火照った頬の赤らみは薄闇に覆われていてもあからさまだった。

 小さなはずの咳払いの音は奇妙に大きく響く。妖艶ですらある褐色の面差しは、美々しい刺繍が施された袖から突き出た肌よりも蒼ざめていた。

「……あなたたちが宜しくヤっている間に、」

「だからわたしたちは何も、」

「いいからお聞きなさい、雀斑娘。大変なことが起きたのですから」

 羞恥と混乱を煽る囁きは普段の張りと甘い艶を失い、沈痛ですらあった。

「総主教聖下が亡くなられました。よって、女王への弾劾は次の機会に持ち越しです」

 太陽が堕ちた。王国は斜陽に沈んだ。熟れすぎた柘榴の実が地に引きつけられるかのごとく凋落した陽の光の紅さは不吉なほどで。鮮血の、葡萄酒の、三日月型に吊り上げられた女の唇を彩っていた紅の色は、暗澹に蝕まれるのもまた一瞬だった。

 軽やかな、けれどもひび割れ耳障りな哄笑は誰のものなのだろう。揺らめく幻影は眩い黄金色で、紫の花の香りを漂わせていた。

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