あなたの荷をわたしに委ねなさい Ⅳ

 女の笑い声が聞こえる。細く澄んだ、少女めいた軽やかな響きが紡ぐのは、かつてペテルデを支配していた国の言葉だった。

 大陸東部北方のイヴォルカは雪深く、広大だ。幾つかの公国が鬱蒼とした森林や河川に遮られて乱立する彼の地で操られる言語は、同一の父母の間に生まれたきょうだいたちのようなもの。互いに共通した特徴を有していても、同じではない。かけ離れていても、どこか似通った特徴を有する。

 多くは商人として、あるいは奴隷としてペテルデに逗留するイヴォルカ人は多く、彼らの言語はペテルデで生きる民の耳を驚かせはしない。路傍で拾った硬貨で買い求めた肉の串焼きで空きっ腹を宥めていたカヤトも、特別に気に留めはしなかっただろう。

 遠い東方での唯一神の呼び名「天主」が祀られた教会の方角から飛び込んできたのが、母の声に乗せられた母の故郷の方言でなければ。

 振り返ると、母がいた。同じ家で同じ男に――カヤトにとっての父に、母にとっての主に殴られていた頃とは比べ物にならない、上質な衣服を纏った女が。

「あなた」

 母の隣には、同様に質の良い上衣に袖を通した、裕福で善良そうな男がいた。母の腕の中には「彼」によく似た赤子がいた。小さな顔をくしゃくしゃに歪めて喚く「それ」の正体に気づいた瞬間、カヤトの脚は凍り付いた。

 母さん。喉の奥で消えていった叫びに応える権利を有する唯一の女は、既にカヤトの母ではなくなっていた。

「早く家に帰りましょう」

 かつて虐げられていた女が選び取ったのは、初めての夫と新しい子供との、満ち足りた生活であった。彼女の中にはもはやカヤトは――忌まわしい過去の遺物はいない。カヤトは、母を苛めた諸々と共に捨て去られてしまったのだ。

「どうしてだい、イェラーヴァ。君、他にも欲しい物があっただろう?」

「だって、この子、お腹が空いたみたいなんだもの。お乳をあげないと」

 取り落とし、土埃に塗れ、他者の踵に踏みしだかれひしゃげた肉の塊同然に。価値のないものとして。

 無垢な頬に押し当てられた唇が紡ぐのは異郷の哀歌ではなかった。穏やかで優しい歌は意味を解さぬ赤子にすら眠りを運ぶのに、荒れ狂う少年の鼓動を鎮めてはくれなかった。

「愛してるわ。わたしのかわいい子」

 劈く泣き声に遮られずに届いた慈愛は猛毒を塗られた剣であった。非情な切先が胸に突きたてられた際の痛みは、痕跡は、永遠に消え去らないだろう。だが糜爛した傷跡から発する熱は、氷と化していた脚を融かしはした。

 カヤトは走った。過酷を極める訓練と年長の奴隷兵からの暴力に苛まれる、小さな身体に培った力を振り絞った。

 ここではないどこかを目指して。かつて鬱蒼とした原始の森に覆われていた街区を抜けて。今も昔も変わらずにそこに在る泉の畔まで駆け抜けた。

 奴隷として売られた女が、娼婦として、慰み者として搾取されながら残りの人生を終えるのでもなく、人並みの幸せを手に入れた。それを喜ぶべきはずなのに、眦を濡らす悲嘆は尽きない。そのことが我ながら不思議でならない――いや、本当は理由など分かっている。だからカヤトは逃げたのだ。認めがたい自身の弱さと醜悪さから。

「……かあさん」

 泣き腫らして真っ赤になった目のまま宿舎に戻れば、同室の三人に詮索されるだろう。あるいは、部屋に辿りつく前に彼女に出くわしてしまったら。それだけは、粉々に砕かれてもなお存在を主張する誇りが赦さない。

 もう戻らなければ、訓練に遅れる。正当な理由なく訓練に出なければ、また鞭打たれるだろう。私闘により同年の奴隷兵の肋骨を折った罰を受けたばかりの背は、いまだ鈍く痛んでいる。だが、構うものか。

 夕飯の時間までここで不貞寝していよう。少年は太く頼もしい枝を寝台に、大きな瘤を枕に目蓋を下ろす。生命の盛りの刻を迎えた緑の香気は爽やかだった。

 睡魔の誘惑に堕ちかけていた少年を直視しがたい現実に引き戻したのは、高く澄んだ囁きだった。

「……ねえ」

 丸い頬を濃い桃色に染め、荒い息を吐く少女の手は、胡乱げに樹上のカヤトを見やる女の手と繋がれていた。

 並ぶ二つの顔は平凡と平凡の下という差異に隔てられているものの、数瞬で母娘と察せられる程度には似通っていた。何より、少女を見つめる女は、眼裏に焼き付いた母のものと同じ――我が子への愛を宿した目をしている。対して、少女の大きな目には憂慮と不安の影があった。

 ――お前が俺にどんな用がある。

 宮廷の庭園で再会を果たして以来、頑なにカヤトを避け続けた少女への苛立ちが腹の底からこみ上げ溢れ出る。

「あなた……カヤト」 

 少年は、小さな口から全ての言葉が飛び出る前に、高い樹の上から飛び降りた。

「あ、危ないですよ! 怪我をしてたかもしれないのに、あんなところから……」

「うるせえ。黙れ、雀斑ブス」

 じんと痺れる脚も、ぶり返した背の傷の疼きも、待ち受ける牛革の一撃もメゼアに涙を知られる苦痛に比べれば苦痛ではなかった。だからカヤトは、自らの名を呼ぶ少女に悪態を突き付けて逃げ出したのだった。


 頼りない骨格が、杏のように瑞々しい高音が、快とも不快ともつかない熱を帯びた少年の肢体を包む。

「わたしはあの後、あなたに嫌われたのだと思うと悲しくて、お母さんに抱きついて泣きました。……自分からあなたを遠ざけていたのに、勝手なものですよね」

 知らなかった。メゼアの心情など、考えもしなかった。

 じわじわと熱を帯びる頬は、澄んだ眼差しの下に晒すには赤らみすぎていた。華奢な背に回した腕に力を込めると、幽かな呻きが滑らかな喉から漏れて。メゼアはカヤトの頭を撫でるばかりで、無数の蚯蚓がのたうつ部位には触れようともしなかった。

 ――涙と共に最後の矜持も搾りつくしてしまったのか。

 己が身体を支える気力すら失い、ずるずると崩れ落ちたカヤトを受け止めたのは、弾力のある太腿だった。燻り続けた欲望をぶつけ、弄んだ肢体のあちこちには、痛ましい痕跡があった。細い手首にも胸元にも、脇腹にも腿にも、円い歯型が並んでいる。とりわけ悲惨なのは乳房の咬傷で、たわわに実った白桃のようなそこに突きたてた犬歯が自分のものであるとは俄かには信じられなかった。

「……悪かった」

 謝って済む問題ではないが、謝罪せずにはいられなかった。メゼアを犯し殺そうとしたことも。根拠のない思い込みで彼女を憎み続けたことも。償わなければならないことは他にもあるが、自分が犯した罪の中でとりわけ業深い、取り返しがつかないものは――

 視界を埋め尽くす柔らかな白が、硬質な――雪の白に変じる。純白を穢す赤を生み出したのは、紛れもない……。

「ごめん」

 決して赦されるものではない。赦されるべきではない。だけど赦されたい。この温かな存在にもう一度受け入れられたい。

 こみ上げる欲望の醜悪さには嘔吐感を催さずにはいられなかった。自分がメゼアであったなら、自分を陵辱しかけた生き物など、部屋から叩きだしはせずとも、早く離れろと突き飛ばしている。同じ空気を吸うことすら厭わしい。カヤトにとってのあのネミル人の少年は蛆に匹敵するおぞましい生物であったから。

「べつに、いいんですよ」

 なのにメゼアは、赦すと言う。腐肉に集る幼虫以下のカヤトを抱きしめ、怪我の具合を慮ってくれた。――いくらなんでも、優しすぎる。これはカヤトが編み出した都合の良い幻想ではないのか。

 九年前メゼアに諭されたように髪を引っ張って、自分の正気を確かめてみたかった。だが生憎、乱れた三つ編みはメゼアの掌中に在る。

 折角綺麗に洗って編んでいたのに、汚れてしまった。さめざめと囁く彼女の顔が眼裏に浮かんできた。きっと、哀しげに眉を寄せ唇を噛みしめているに違いない。メゼアが浮かべるべきなのはカヤトへの嫌悪を募らせ、怒り引き攣った形相なのに。

「……良くないだろ。お前、俺がお前に何したか、分かってんのか?」

「強姦未遂、ですよね?」

「分かってんなら、気が済むまでぶん殴るなり、大声で人を呼ぶなり、もっと他にすることあるだろ……」

 少女のか細い指先が乱れた薄墨色を解く。  

「べつに、いいんです。……わたしは、あなたに友達のことを忘れるひどい人間だと思われても仕方のない、弱い人間ですから」

 厚みを増しつつある胸板の奥の臓器は、少女の一挙一動に弄ばれた。成し遂げられなかった暴行の過程でとはいえ、押し倒して肌を合わせた女の唇の紅さや艶などに、心を乱されずともよいだろうに。

 腕は捻った。項は舐めた。乳房は揉んだ。脇腹は噛んだ。脚は掴んで押し広げた。触れていないのは唇だけだ。

「わたしはあなたを人間ではない“もの”として扱わなければならないのが苦しかった。だからあなたの声を聞こえないふりをして、あなたから逃げたんです。――結局、すぐに化けの皮は剥がれちゃったんですけど」 

 今更、甘く苦い真実を吐く唇を奪うことはできない。あの時、激情に任せてくちづけしていれば、胸を締め付ける囁きを止めることにも躊躇しなかっただろうが。女にとっての接吻の意味と価値を知るカヤトには、これ以上メゼアの純情を蹂躙するなどできはしない。

「あなたのお母さま、とても綺麗な方でしたね」

「……そりゃ、お前よりはな」

 細かに波打つ淡い色の髪に縁どられた嫋やかな美貌と比較すれば、自らを抱く少女の平凡な造作など取るに足りない。

「あなたによく似ていました」

「……そうかよ」

 だがカヤトは、彼女たちのどちらをも愛おしく想っているのだ。燻り続けた二つの炎の糧はそれぞれ異なるけれど。

「わたしはあなたの全てを赦します」

 ――だから顔を上げてください。

 下された啓示に導かれ仰いだ、可愛らしくはあるが凡庸な面に広がるのは、母に伝え聞いた聖像の聖女の微笑だった。ありもしない自分の罪を責め、悔恨の涙を流す彼女は罪人のように打ちひしがれているのに、この世のどんな者よりも尊い。

「あなたがわたしを雀斑ブスなんて言ったことも、わたしを辱しめようとしたことも、全て。それが、わたしにできる唯一のことだから」

 豊かな金茶の睫毛を濡らした雫は長い灰色の睫毛をも濡らす。涙は少年と少女の肌に散る赤を清め洗い流した。

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