あなたの荷をわたしに委ねなさい Ⅲ

 どこか近くで水が跳ねた。ついで、火照った額に冷たく心地良い布が乗せられる。湿った前髪を整える仕草も、穏やかで心地良い。代わる代わる押し寄せる激痛と高熱の狭間、時折差し込む光が誰であるかなど、決まっている。

「母さん?」

 かさついた唇から押し出したのは、蚊の羽ばたきにさえかき消されそうに掠れた――ほとんど呻きのような囁き。滅多にないことではあったが、カヤトがこうして熱を出すと、母はできる限り側にいてくれた。遠くの泉から汲んだ冷水に浸した布で額を冷やし、汗ばんだ身体を拭いて、看病してくれた。カヤトが父に斬りつけられ、寝込んだ夏も。汚れた包帯を代え、病と怪我に苛まれる身にも優しい食事を作ってくれた。

「ゆっくり、休んで」 

 淑やかな衣擦れは、母が立ち去る予兆だ。半ば微睡みを彷徨いながら、力の抜けた腕でか細い手首の在り処を探る。最初に探り当てたのは、憶えのある金属の冷たさ――奴隷兵に支給される短剣だった。これはこれで頼もしいが、今のカヤトには必要ない。欲しいのは、側に在れと望むのは、母のぬくもりなのだから。 

「行かないで」

 あてどもなく這い回る指を、温かな肌が包む。

「わたしはどこにも行かないから……早く、元気になって」

 掌は柔らかで、滑らかだった。しっとりと肌理細やかな皮膚に覆われた手は母のものではありえない。だって母は同じく嫋やかで華奢でも、家事によって荒らされ鍛えられた、硬くささくれた指先をしていたから。それに、母はもうカヤトの存在など忘れ果てているはずだ。

 ――これは、誰だ。

 汗ばむ背を震わせる悪寒には、未知の存在への恐れと同量の羞恥が混じっていた。熱に浮かされた末の行為とはいえ、十五にもなって譫言うわごとで母を呼ぶなど。こんな自分を、我が身の内に潜む弱さを他者に握られたくはない。

 執拗に絡み意識を安楽に誘う誘惑を払いのけ、長い睫毛に囲まれた目蓋を跳ね上げる。

「カヤト?」

 柘榴の瞳に飛び込んできたのは、金がかった亜麻色の髪に縁どられた、愛嬌はあるが十人並みの顔だった。

「……ああ、良かった」

 大きな瞳を潤ませ涙ぐむメゼアの面には、混じりけのない安堵と大いなる存在への感謝の念が浮かんでいる。カヤトの弱さへの嘲りや侮蔑の影はない。しかし、カヤトは受け入れられなかった。自分の最も惰弱で醜悪な側面を、選りにもよってこの少女に目撃されたという事実が。

 ひたひたと忍び寄りカヤトの喉元に絡みつく波は、絶望にしては熱く激しかった。床に伏す身でなければ、下腹部で渦巻く感情のはけ口を求めて叫び出してしまっていただろう。

「わたし、あのままあなたが目覚めないんじゃないかと、気が気じゃなくて……」

 でも、もう安心ですね。そっと微笑んで涙を拭う少女の細い手首を掴み、質素だが清潔な寝具に引きずり込む。皮膚を裂かれ大量の血と生命を失い、正確な日数は定かではないが数日は眠り続けたはずのカヤトにさえ、メゼアを組み伏せるのは造作もなかった。

「お前! ……お前は、どうして!」

 なぜ、助けた。どうして放っておいてくれなかった。お前にこんな姿を見られるぐらいなら、死んだ方がましだった。

 滾る怨嗟をメゼアにぶつけるのは筋違いなのだとは理解している。メゼアはカヤトの命の恩人だ。彼女は一切の見返りを求めず、善意でカヤトに救済の手を差し伸べたのだろう。だから感謝されこそすれ罵倒されるなど、考えてすらいなかったのではないか。

「……カヤト?」

 互いの息がかかるほど近くで眺める青紫の瞳は怯え、零れ落ちんばかりに大きく瞠られていた。淡く開いた木苺の唇を囲む肌は白かった。小さな顎から染み一つ皺ひとつない首も。僅かに覗く胸元も。

 その先はどんなに白いだろう。湧き上がる炎がなけなしの理性を蕩かし、燃やし尽くして灰にした。

「黙れ。騒ぐな」

 滑らかな喉元に短剣を突き付ける。健康的に紅潮していたはずのふっくらとした頬はたちまち蒼白になった。 

「……だめ!」

 青い布地を肌蹴させ、伴侶以外の男の目には触れさせてはならぬはずの肌を露わにする。衣服の縛めから解放されたふくらみは服の上から思い描いていたよりも大きかった。

 児戯に等しい抵抗を試みていた二本の腕を纏めて捻り上げる。亜麻色の眉が苦しげに寄せられる様は、背の痛みを忘れさせた。

 むちむちと張りのある脚の間に己の膝を割り込ませると、少女はとうとう動かなくなった。ふるふると震える柔らかな半球はカヤトの掌には収まらないが、揉みしだけば鬱屈した征服欲と嗜虐心のままに形を変える。

 なだらかな肩に歯を立てる。年頃の娘の皮膚の甘みと少女本来の香り。そして甘く切ない呻きは、疲弊した脳髄を痺れさせた。

「いたい」 

 胸板に押しつぶされる乳房には紅い痕が刻まれていて、痛々しかった。特に、うっすらと鮮血を滲ませる歯型は直視に耐えない。白い肌を穢す液体をそっと舐め取ると、腕の中の肢体が慄いた。

 舐め取っても舐め取っても、柔肌を彩る赤は止まらない。それが己の背から降り注ぐものであるとカヤトに教えたのは、憐れみを誘う掠れた囁きだった。

「……あなた、まだ傷が塞がってないの、に動いちゃ、」

 きっちりと巻かれた包帯は紅蓮に侵食され、少女の瞳は不安と危惧に染まる。メゼアはこの期に及んでカヤトの身を案じているらしい。本当に愚かだ。愚かすぎて愛おしい。愛おしいから、誰にも渡したくない。

「もう、やめて。おねがいだから……死なないで」

 いつともつかぬ頃から腹の底に溜り続けた情欲を注ぎ終えたら、この愚か者の胸に刃を沈めよう。そして彼女が息絶えたら、血に濡れた刃を己が首から吹き出る生命に浸そう。それがカヤトの答えであり唯一の望みだった。

 煌めく眦に唇を寄せ、とめどなく溢れる雫を吸い取る。そうするとほんの一瞬、メゼアはあどけなく微笑んだ。カヤトが正気を取り戻してこの行為を中断するとでも思ったのだろう。しかし、雀斑が散った面を華やがせる笑みは、胸への愛撫を再開すると儚く散った。 

「ど……して、こんな、こと?」

 泣きじゃくりながら己を蹂躙する男を仰ぐ女。それは母だ。母はいつも父の腕の中でこのような顔をしていた。

 どうしてこんなことをしているのか。自分でも分からない。

 無力な少女を刃物で脅して辱める。これは母を殴り犯していた父と、母を陵辱した男達と同じかそれ以下に堕ちる行為であるとは理解している。それだけはやめろと、これ以上この存在に対する罪を重ねるなと、もう一人の自分も魂の中で叫んでいる。だが止められない。

 ――ずっと、こうしたかった。

 どんな蜜よりも甘い蜜。どんな肉にも勝る肉。これを思うがままに貪ることこそ、カヤトの願いだった。たとえ一瞬でもこの女を――手に届かない筈の存在を我が物にできるなら、死んでもいい。滲み滴る鮮血の生温かさは、こみ上げる満足感と達成感を萎えさせはしない。むしろ、血が炎であるかのように、情欲の焔は勢いを増す。

 衣服を乱され、豊満な胸部と女性的な曲線を描く脚をむき出しにされた少女は魅力的だった。艶やかに光を弾く腹部が細く映るのは胸と尻が大きいからだろう。全体が柔らかく程よく脂肪が乗った肉体は、見る目がない者ならば「肉付きが良すぎる」などと嘲るかもしれない。だがメゼアはカヤトの理想そのものだった。折れんばかりに細かった母とは全く違う、健康的な薄桃色の肢体。痣一つない肌の滑らかさを己が肌で味わうには、不快に湿った包帯が邪魔だった。

 本来の清潔さを端々に残すばかりになった布を毟りとる。恐怖を宿す双眸に曝け出された胸は、背中ほどではなくとも酷い有様だった。訓練の最中に負った傷が、殴打の痕跡が、鞭の痕が、そこここに散らばっている。それらは全て、カヤトに母の悲嘆を思い出させた。

 母は、息子がか弱い女を暴力でねじ伏せる屑に、横暴な主そのものの獣に育ったと知ったら、嘆くだろうか。かつての自分にはカヤトという子供が存在していたことを思い出してくれるだろうか。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 未練がましい幻想を嘲る笑みは苦く、引き攣っていた。

 痛ましげに目を伏せカヤトの傷から顔を背ける少女から純潔を奪い取り、自死するまでには半刻もかかるまい。なのに何故、未だに幸福を掴んだはずの母のことが気になるのだろう。

「……っ」

 力任せに開かせた脚の間に潜むのは、幼いカヤトの眼前でこじ開けられた亀裂だった。あの日の全ては眼裏に焼き付いている。だからこれからどうすればいいのかは熟知している。

 だらりと垂れる脚の片方を折り曲げ、もう片方を己の肩に乗せる。男にとっては扇情的でも、女にとっては無様であろう恰好を強いられた少女の瞳は澄んでいた。嵐の後の蒼穹だった。何かを悟った目をしていた。

「……ねえ、カヤト」

 夜明けの瞳は、淡い繁みを掻き分け開く不遜な指先ではなく、紅い瞳を見据えている。革帯を解き、熱を孕んだ己を取り出し少女の身体にのしかかっても、真っ直ぐに。

「あなた、泣きたいんですか?」

 乳房を掴んでいた節くれだった指を、嫋やかな少女の右手が包む。柔らかな左の手は、カヤトの頬に添えられた。

 お前に俺の何が分かる。驚愕に遮られ形にならなかった痛罵と疑問は、密着する肌から少女の心に伝わったらしい。

「分かりますよ。七年前、市場でお母さまらしき女性とすれ違った時のあなたと同じ顔をしていますもの」

 控えめに咲く野の花の微笑みが、傷だらけの胸に巣食う蟠りを解きほぐす。

 氷が解ける。柘榴の棘が抜ける。いつかも定かではない遠い昔からカヤトを戒め苦しめていた諸々が、少女のぬくもりに融かされる。 

「あなたは昔から・・・強かった。わたしは転んで膝を擦りむいただけで泣きたくなったのに、あなたはお父さまに殺されかけても泣かなかった。でも、」

 女の前で、女のように泣くなんて、みっともない。細い顎を伝って落ちる一筋を堰き止める虚勢を崩したのは、ほどかれた思い違いだった。

 ――メゼアは、憶えていてくれたのだ。

 彼女もまた自分のことなど捨て去ってしまったに違いないと、カヤトは一方的に憎悪を募らせていたのに、メゼアはカヤトを見捨ててなどいなかった。

「泣きたいときに涙を我慢すると、ずっと悲しいままです」

 腕の中に閉じ込めていたはずの少女の胸が、涙に濡れた少年の面を包む。

 自分が彼女に加えた暴力と暴言を鑑みると、恥ずかしくて、申し訳なくて、彼女の顔を直視できなかった。

「悲しいのなら、思い切り泣けばいい。今度は、わたしがずっとそばにいてあげるから」

 だが、そっと背に回した腕は拒まれることなかった。乱れた灰色の髪を撫で、整える指から染み入るのは慈愛だった。

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