あなたの荷をわたしに委ねなさい Ⅱ

 窓のない、ゆえに光射さぬ密室の大気が揺れる。ひゅ、と甲高い囁きで耳殻をくすぐったのは風ではなかった。牛革の鞭の撓り。奴隷となってから、幾度となく叩きこまれた音に覚える恐怖など無い。齎される苦痛は既知の――予測可能な、自らの理解の枠の中に収まっている代物であったから。

「お前、相変わらずツラに似合わずしぶてえな」

 これまた聞き覚えのある声が、吐息が、鉛の入った先端が、むき出しの背をくすぐる。十はとうに、五十も既に超えた衝撃を受け止めた皮膚はぐしゃぐしゃに爛れ、鮮血で濡れていた。

「……っ」

 数多の蚯蚓腫れで引き裂かれた古傷をなぞる爪が糜爛した傷を抉る。

『これ、どこのどいつに付けられたんだ?』

 もがくカヤトの髪を掴んで上衣を剥ぎ取り、父がカヤトに残した肉体以外の唯一のものを暴いた少年は、真っ先に「そこ」に鞭を振り下ろした。競り落とした家畜の尻に残された前の主の徴を、己が徴で上書きするかのように、執拗に。

 冷ややかな一陣の風が脇腹に吹き付ける。反射的に湧き起こった己を取り巻く様々な物からの解放への希求が背骨を駆け上った。しかし汗が滴る腕は荒縄で柱に括られていて、縛められた少年の意のままにはならなかった。むしろ、動かすたびに荒縄に挟まれた皮膚が擦れ、新たな苦痛を生み出す。じくじくと疼き透明な汁を吹き出すそこの感覚は、劫火を背負っているかのごとく――あるいは、炎となったかと錯覚してしまう程に悶える背に比べれば、痛みなどには入らないが。

 カヤトの肉をこじ開けていた爪が抜かれる。硬い指先はそのまま血と汗で滑った背を降りた。引き締まった腰のくびれを確かめる手は前にも伸び、盛り上がった筋肉の畝をなぞる。

 柔らかでなだらかな女の下腹ならばともかく、ごつごつとした男の腹などをまさぐって何が愉しいのか。罵る気力も余力も、非情な鞭によって削り取られて久しかった。この血と汗と痛苦が蔓延し淀んだ室内に放り込まれてからの数刻は、尋問を受ける少年にとっては一年に匹敵するものだったのだ。

「お前、ちょっと見ない間にでっかくなったよな」

 噛みしめすぎて破れた上下の唇のあわいを行き来していた指先は鉄錆と塩の味がした。自身の血と汗の味が。鞭が投げ落とされる、からりと乾いているのに陰湿な響きと共に与えられたのは、ほつれ毛がへばりついた項で這い回る湿った肉。

 蛇のように、蛆虫のように蠢く舌はおぞましかった。密着する硬い肌から染み渡る、性を同じくする生き物の体温も。血を啜った布が張り付く薄い尻に押し当てられる熱も。

「もしかして、あの金髪の女とヤったのか? それで、最近いきがってたのかよ?」

 耳の穴を舐り朶に噛みつく存在が煩わしい。整った歯列を撫でる者を食いちぎりでもすれば腹の底で渦巻く蟠りは、僅かながらにでも解消されるだろうか。固く閉ざしていた歯の合間から紅い舌を出し、不快を纏う指を突く。乱れた一筋をそよがせていた呼吸が止まった。節が目立つ枝に己が肉体の一部を絡め、包み、吸い付き、己の内側に誘う。そして、軟らかな粘膜を蹂躙する肉を尖った犬歯で挟み――

 干からびた口腔に染み入る液体は生ぬるいが、葡萄酒よりも甘く芳醇だった。少年は流れ出した生命を補うかのごとく、他者のそれを奪い啜る。

「……てめえ」

 決して浅くはない亀裂を舌先で押し広げると、柔らかな頬に拳が打ち付けられた。衝撃は愛撫などよりかは受け入れられた。再び卑劣な掌の中に収められた革が空気を裂く音も、性質の悪い揶揄よりは。

 皮と皮がぶつかる。人間の肉を牛の皮が引き裂く。口内から溢れた紅蓮が零れ落ち、湿った床に新たな陰惨を飛び散らせる。だが、カヤトは生かされているだけまだましなのだ。

 ――あいつ、もうちっと周りに気使って話してればよかったのによ。

 目の当たりにした死を彩る鮮血に馳せた意識は、鞭の撓りによって陰湿な室内に引き戻される。薄墨の生え際から吹き出し、蟀谷こめかみから細い顎まで流れる脂汗は透明だった。


 昼食後の、僅かな休息の時。忍び寄る戦乱の足音や空腹、あるいは苛立たしい鼾に苛まれて安らかとはお世辞にも言えないカヤトの眠りを妨げたのは、寝静まっていたはずのゼカリエの囁きだった。

「起きろ! 早く!」

 ひっそりと押し殺された、けれども隠しきれない焦燥によって上擦らされた囁きを無視するわけにはいかない。

 眠気など薄闇の彼方に吹き飛ばされたカヤトの眼に飛び込んできたのは、少年の掌にも納めてしまえるほどの小さな板切れ。

「イェスレイってやつに“お前に”って渡された。……これ、俺には読めないけどどうせ危ねえやつなんだろ?」

 文字を持たぬ草原の民の言葉を、ペテルデの文字で著した警句。

 ――密告された。だから僕はここから逃げる。君も早く。

 初めて間近に忍び寄ってきた終焉の気配は冷ややかで、どこか女の密やかな吐息に似ていた。母の故郷では「死」は女の姿を借りて語られる。大鎌を片手に歩み寄る彼女からは、どんな勇士も逃れられない。それが母が寝物語に紡いだ英雄叙情詩の決まりだった。

「ニコとエドヴィセが起きる前に、早くどっか行ってくれ」

 翳った陽光を背に浴び、カヤトの肩に指先を食い込ませるゼカリエの目は血走っていた。

「これ以上お前がここにいると、俺たちも疑われる。……俺はまだ死にたくない」

 いつか必ずやってくるはずの死への恐怖に怯えるのはカヤトだけではない。

「酷いこと言ってるって分かってる。でも、怖いんだ」

 戦慄く己が身を抱きしめる少年は、普段よりも小さく、幼く見えた。ほんの数か月前まではカヤトと彼の目線は変わらなかったはずなのに、今ではカヤトの方が中指一本分ほど背が高い。

 胸板を、背を拳で打たれても、痛みは襲ってこなかった。力などほとんど入っていない、形にされただけの拳であったから当然だが。

「早く、出てってくれよ。……頼むから」

 押し出された懇願は悲痛にひび割れていた。もはや啜り泣きでしかなかった。膝を擦りむいた幼子のけたたましさにすら通じる嗚咽は、高らかな鼾をも凌いでいる。

「……痴話喧嘩はよそでやれよ」

 安らかな夢から呼び戻されたニコとエドヴィセは、控えめに評しても殺気立っていた。そしてその殺気は、物々しい騒音ゆえにより一層研ぎ澄まされる。

 劈く剣戟。野太い悲鳴。荒々しく床を軋ませる誰かとこちらの距離は狭まるばかりで遠ざからない。

 女王の印章と署名が入った書状を先頭に粗末な寝具を踏み荒らす男たちは、武装したネミル人奴隷だった。冷ややかな、けれども勝利の快感に蕩かされた眼で少年たちを見下す彼らには、少年の――他の三人ならばいざ知らず、カヤトにとっては見慣れた、うっそりと微笑む少年の姿もあった。

「久しぶりだな」

 了承もなしにカヤトを掴んだ腕を振りほどこうとすれば、できたかもしれない。だがそれをしても状況は悪くなるだけだ。

「お前ら、人の部屋で何やってんだよ?」

 それが理解できなかったエドヴィセは、無謀にも彼らに挑んだが、数の多さは如何ともしがたかった。

「お前にも嫌疑はかかってんだ。できれば生かして連れてこなきゃならねえだろうけど、」

 取り押さえられた少年の、太く逞しい首に刃が食い込む。

「一人や二人ぐらい、数が足りなくても構いはしねえか。こいつはどうせ何も知っちゃあいねえ」

 吹き出す血潮とむせ返る鉄錆の、死の匂い。光を喪った瞳。悲鳴を上げる暇もなく断ち切られる他者の生命。人を殺すために飼育される奴隷兵でありながら、初めて我が眼に映した絶命の瞬間に吐き気を催さなかったのはカヤトだけだった。忌避する色彩が辺り一面を穢しているのに、息一つ乱れない。これはかつてもっとも身近にあった、ゆえに疎んでいたものだから。

「……おまえ」

 ニコとゼカリエは化け物に寄こすような、何故平然としていられるのかと糾弾する視線を投げかけている。しかしカヤトは生憎、もはや還らぬ他者の命よりも自らの行く末の方が気がかりだった。ぴくりとも動かなくなった躯を蹴飛ばしカヤトを引きずる、名も知らぬ少年の瞳は死したエドヴィセのものよりも昏く濁っていた。

 獣脂の蝋燭のか細い燈火が揺れる一室に投げ飛ばされ、強かに打ち付けた背の軋みを堪えながら見上げた双眸は汚水よりも澱んでいた。

 ひっそりと佇む泉ではなく、ずぶずぶと踵を呑みこむ沼。底無しの泥濘。それが彼であるならば、長い睫毛をそよがせる吐息と胸元を暴く指に吐き気を覚えるのも道理だろう。

「流石に胸はねえか。前々から、もしかしたらあるんじゃねえかと思ってたけど」

 上衣を毟り取られ投げつけられた屈辱が命じるままに、眼前の少年の面に唾を放つ。乾いた口内からかき集めたそれには血が混じっていた。

 束の間の勝利が保たれていたのは、惨めを覚えるまでに短い時間だった。だらりと垂れる三つ編みを手巾代わりに己が口元を清めた少年は、歪に頬を持ち上げる。

「叫べ。ここでは誰にも聞かれねえから、安心しろよ」

 ――冗談じゃねえ。お前なんかの言いなりになってたまるか。

 苦痛に侵食される脳内に浮かんだ嘲りは、吐き捨てられることなく鞭の一撃に砕かれ、暗がりの彼方に飛散する。

「お前は昔っから変わんねえよなあ。いつもいつも澄ました顔してやがる」

 一回。十回。この程度ならば罰の内には入らない。

「あんな平凡な、しかも雀斑まである顔の女のどこがいいんだよ」

 二十回。四十回。八十回。これぐらいの苦痛は過去にも舐めさせられたことがある。ゆえに安楽に堕ちることはできない。

「なあ」

 百回。

 いい加減に、腕が疲れたのか。鞭は再び部屋の隅に放られた。腕の拘束を解かれても、長く血の正常な巡りに逆らっていたために感覚がない。  

「お前は俺の名前を覚えてんのか?」

 黒ずんだ血液と唾液がこびり付いた毛先が引かれる。鼻と鼻がぶつかるまで引き寄せられると、呼気の生臭さはいや増した。

「……くせえ。離せ、豚が」

 頬を張られ肩を押されて、自らの体液で穢れた床に押し倒される。仰いだ面に張り付いているのは獣の目だった。

「……なに、考えて……だ」

 赤黒く変色した脚衣に手が伸ばされる。帯が解かれ、腿の半ばまでが曝け出された。腕はまだ使い物にならない。ならば脚で攻撃するしかない。

「――離せって、言ってんだよ」

 己に圧し掛かる生物の鳩尾に食い込ませた踵は、肉刺だらけの掌に捕らえられた。右脚を腹につくまで折り曲げられ、左脚に乗られて抑え込まれれば、もはやなすすべはない。

 なけなしの人間としての誇りは奴隷とされて奪われた。そして、今度は男としての誇りまで。

 ――こんな目に遭うのなら、あの時親父に殺されていた方がまだましだった。

 屈辱に唇を噛みしめる少年の、赤茶の斑が飛び散る頬に輝く一筋が当てられる。

「――そこまでです」

 獣脂製の悪臭漂わせる微かな光明ではない、頼もしく温かな光は、褐色の美貌を顰めた青年が捧げ持つ燭台から伸びていた。

「女王が命を撤廃しました。それ以上その奴隷に暴行を加えればあなたが罪に問われる。――分かりましたね?」 

 青年の黒曜石の瞳は腰に佩いた剣に勝るとも劣らぬ煌めきを放っている。カヤトは力強く絢爛な眼差しにたじろいだ少年が、品のない舌打ちを置き土産に駆けだす音を聞いた。

「……ああ、神さま」

 柔らかな胸の中で。ふくよかな二の腕に支えられ、小麦色の光沢に目を細めながら。

「カヤトを助けて下さってありがとうございます」

 汚れきった頬を洗い流す清らかな涙を、舐めた。 

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