あなたの荷をわたしに委ねなさい Ⅰ

 往時は王都ムツタシ一帯をも凌ぐ繁栄を極め、現在でも王国の財政を支える要地であったイングメレディ地方。その喪失が齎した衝撃は、女王以外の人間にとっては王配の喪失とは比べ物にならなかった。メゼアにとっても。

「……神はこの国を見離されたのかしら」

「――え?」

「あそこはマナゼの領地だけれど、この国にとっても重要な地方だったわ。なのに……」 

 足を運んだ経験などもちろん一度もない、伝聞をよすがに想起するのみの村がなくなった。その事実を女王の暗澹とした囁きから悟った瞬間、零れ落ちたのは、一度はその存在を見過ごそうとした反乱の芽ではなかった。

 ぼろぼろと、とめどなく流れる熱。大切なものをもぎ取られた胸の軋み。

「どうしたの? あなた、アスランの葬儀でもそんなに泣いていなかったのに」

「……も、申し訳ございません」

 胡乱げに眉を寄せる貴人のどこか冷ややかな眼差しに晒されてもなお、溢れる嘆きは止まらない。

 ナタツィヤの夫が、アマラの父が死した際、メゼアの胸を締め付けたのは残された彼女たちへの哀れみであった。父の早逝を悼む母の背に覚えたものと全く同じ、他者の悲哀から喚起される悲しみは、自分の物であって自分の物ではない。だが少女の足を縫い止め蹲らせる痛みは、紛れもないメゼアだけのものだった。

 戦が起これば人が死ぬ。畠は焼け街は滅ぶ。瓦礫と化した都では父母を求める孤児の叫びが、夫や息子を喪った未亡人の啼泣が――もはや還らぬ人々を求める怨嗟と、国を守り切れなかった君主への呪詛が蔓延する。幼子の目にとってももはや確定したに等しい、無残な未来が見えていないのは、女王と彼女の取り巻きのみ。そして、戦火を消すための最後の手立ては――彼の国の皇帝との婚姻は、女王自らが拒絶してしまっていた。

 驚嘆すべき申し出がなされた際は、メゼアも最愛の夫の死を招いた男の妻になれと脅されているナタツィヤの傷心を想い、憤った。彼の国の婚姻関係の在り方を侮蔑した。それは今でも変わっていないが、ふと過った思考にゆだっていた頭は一気に冷やされた。今となっては遅すぎるのに。

 ナタツィヤと皇帝の結婚はともかく、和平は受け入れるべきだった。求婚を拒絶するにしても、もっと穏健な――あちらの威信を傷つけぬ手段を取っていたら。

 貢納国でも属国でも、誇り高い父祖たちが最終的には受け入れざるを得なかった屈辱に耐え抜いてさえいれば、未来はあったのかもしれない。たとえ百を越える歳月を要したとしても、従順な羊の振りをしながら蜂起の機会を窺い、再び栄光を取り戻すこともできたのかもしれない。マナゼならば、その道に民を導くことができたのかもしれない。

 ナタツィヤよりもマナゼこそが玉座に相応しい。妙齢の女の泣き出す寸前の幼子そのものの形相と、額を割られてもなお己を保っていた青年の穏やかな表情を比較してしまい、メゼアは涙を止めることができなくなった。

『いいかい? あんたはあたしやお父さんが王妃さまにお仕えしたように姫さまにお仕えするんだよ』

 病床の母との約束を蔑ろにし、ナタツィヤに叛意を覚えた自分が赦せなかった。敵対する家臣や甥との水面下の争いに独り立ち向かう主を癒すどころか見限るなど、亡き王妃やナタツィヤへの恩に背く悪行だ。

 メゼアは既に数多の大罪を犯している。カヤトとナタツィヤを――ひいてはペテルデ全土とそこに生きる民を秤にかけカヤトを取ろうとした罪を。ナタツィヤは謀反に加担した確証もない兵を無差別に処刑するほど、慈悲に欠けた人間ではないと信じきれなかった罪を。なのに、あまりの醜悪さゆえに己がものとは認められない咎を悔い、懺悔するために向かった先で新たな業に手を染めるなんて。

「ああ。もう何もかもおかしいわ。ここまでくると、なんだかおもしろいわね」

 精緻に結い上げられた髪を掻き乱す指は嫋やか。だが仄かな薄紅に染まった形良いはずの爪の先端は所々欠け、割れていた。艶やかな唇に挟まれた白磁の指先から垂れた紅は華奢な手首を濡らし、毛の長い絨毯に吸い込まれる。

 麗しい主は狂態を呈していても美しい。だが、整った横顔に広がる少女じみた甘い笑みは少女の胸に戦慄を植え付けた。ナタツィヤがこのようにあどけなく微笑んでいたのは、彼女の父も母も存命だった六年前からなかったことだ。主が父母の相次ぐ死を受けて即位した後は、「女王として相応しくない」と自制していた悪癖。最愛の夫との間に娘を授かってからはすっかり忘れ去っていたはずの、理想の姫君の唯一の欠点は、淑やかな美にはそぐわない。

 ――止めさせなければ。 

 躊躇いがちに触れた腕はぞっとするほど細かった。長い睫毛の影が落ちる頬は紅と白粉の力を借りてもなお蒼ざめている。

「陛下」

 自分より背が高い女の、やはり高い位置にある肩を揺さぶるのには難儀した。

「ナタツィヤさま」

 乱れた黄金の一房が揺れる。小粒の柘榴石と翡翠を金の鎖で連ねた耳飾りはしゃらしゃらと――まるで、柘榴の葉と葉が擦れるかのように鳴った。返事はなかった。爪を食む鈍い音はいつまでも止まなかった。

 不敬と無礼を承知で、折れんばかりに痩せ細った手首を掴む。肌理細やかな皮膚はしっとりと柔らかな手弱女のもの。だが抗う無意識は、十五の少女としては平均的な体格の――あるいは平均以上に発育が良い――メゼアの力を上回っていた。青く澄んだ双眸はぽっかりと開かれてはいるが、何者をも映していない。

「お父さま。アスラン」

 もはや戻らぬ、完全だった過去に生きる亡霊以外は。

「お父さまは、最期にこう言い残されましたね。“何事もアスランや重臣たちとよく相談して決めるように”」

 採光窓から差し込む光では暴けぬ闇に語りかける女の独白は、整った爪が砕かれる音よりも耐えがたかった。

「わたくしはお父さまやお祖母さまみたいな王にはなれない。分かっていました。ですからわたくしは、何事もお父さまの言いつけ通りに振る舞いました。お飾りだと嘲られても、アスランの言う通りに。重臣たちの決定通りに」

「……ひめさま」

「なのに、どうしてマナゼを望む者がいるのかしら?」

 叙情詩を諳んじるかのごとくすらすらと澱みなく吐き出される囀りは、真夏の陽光に当てられ蕩けて霧になる。メゼアを包む曝け出された主の心情は毒だった。それは人を絶命に至らしめるほどの強さは持たない。けれども浴びれば患部が爛れひりつき、決して癒えぬ痕を残す。

 死を運ぶ鳥の王。雄鶏が産んだ卵から孵る、毒の息吐く怪物。メゼアの父やナタツィヤの母の故国周辺で広く信じられている伝説の怪鳥を、かつて母は笑いながら否定していた。視線だけで人を殺す怪物の存在が、どうして知られているのかと。それを見たものは必ず死ぬはずなのに、と。母が寝物語に紡いだ悪魔の力に怯え震えた幼いメゼアも、つられて笑いだしてしまうほど朗らかに。だが、それは間違っていたのかもしれない。

 怪鳥は、伝説のような竜の翼と胴を備える雄鶏ではなく、豪奢に着飾った美しい女の姿をしているのではないか。妙なる楽の調べの声音で人々の心を蝕む女怪。どこかで耳にした覚えはあるが、いつどこでだったかは思い出せない。

「あの子はお父さまの言うことを聞かずに遊んでばかりの……稚児遊びに耽る悪い子じゃない。わたくしはそんなにもあの子に王として劣るのかしら?」

 滑らかな喉から漏れる押し殺した嘲りと歩みは奇妙に軽やかで。くるりと翻る裾から漂う香りだけが、彼女の傍らにアマラがいた頃のナタツィヤと同じだった。あれはほんの数か月前なのに遙か昔の、神話に等しい古の時代の物語よりも遠く隔てられている。

 紫丁香花リラの花の紫は葡萄の紫には及ばない。メゼアは口に出したことはなくとも、主君が好むこの香りよりも、燦燦と降り注ぐ陽光に育まれた芳醇な果実の香りを好んでいた。

 目を閉じれば朧に浮かぶ、火山の麓の村はもうない。飛び跳ねる羊たちも葡萄畠も、残忍な蹄に踏み荒らされ、劫火に呑まれて灰燼に帰してしまった。

 じわじわと滲む熱を主の瞳から隠すべく、雀斑が散った目蓋をそっと下ろす。

 村は滅んだ。ならば、風雨に削られた赤茶けた石の群れはどうなったのだろう。せめて永遠の眠りに就いた者の安息の在り処は乱されることなく、そのままで在ってほしい。

 少女の祈りにも似た願いを泡沫にしたのは、劣等感の源たる豊満な胸部を撫でる生温かさだった。

「あなたはどこもかしこも柔らかいわね。アマラもあなたに抱きしめられるのが好きだったみたいだし」

 言葉とは裏腹に、細められた目には一切の光が灯らず、むっちりとした腿を抉る指先は固く強張るばかり。

「ねえ、メゼア」

「……はい、姫さま」

 繊細な五本の指がふくよかな肉を摘まみ、捩じる。愛撫とも責苦ともつかない刺激はおぞましく、主の眼差しから恐怖を隠し通すことはできなかった。苦悶の喘ぎが飛び出すまでつねられた腿には痣ができてしまったかもしれない。

「可愛いあなたに質問があるの。どうか正直に答えて頂戴」

 ――そしたら、これをやめてあげるから。暗黙の下に示された解放の予兆を、気づかぬ振りをして打ち捨てるには少女は弱すぎた。できるだけ早く、どんなことをしても、この女から逃れたい。

「敗退を重ねてばかりの、暴走する配下を抑えられない将など、この国には必要ない。――そうでしょう?」

 希求は途切れ途切れの、引けばちぎれる糸がごときか細い声となった。

「ありがとう」

 どん、と乱暴に押された背が痛かったが、立ち止まることも蹲ることもできない。厚い雲に隠れて輪郭すらも朧な太陽を戴く庭園は薄暗いのに、熟れすぎた柘榴の赤は鮮烈で。

 少女は忍び寄る睡魔に誘われるままに乾いた幹に頭を預ける。微睡みは打ちのめされた心を癒しはしなかったが、身体は与えられた休息を旺盛に貪った。

 もう、このままずっとこうしていたい。

「あなた、女王の女官の雀斑娘でしょう?」

「え、あ……はい」

 切実で痛切な夢をメゼアから取り上げた囁きは男にしては高いが甘やかで艶やかだった。もはやペテルデの一部ではなくなったイングメレディの公マナゼの奴隷。敵国の血を示す褐色の美貌の青年のきつい眦の迫力は尋常ではないが、妖艶な面差しには似合わぬ配慮が窺えた。

「だったらどうしてこんなところでぼさっとしてるんです? あの灰色の髪の奴隷の命乞いをするために、あなたの主に直訴しに向かわないのですか?」

 起こるべきことはもう起こってしまっていた。メゼアが偶然に発見した謀反に逡巡している十日余りの間に若芽は地中深くまで根を張らせ、そして大輪の花を開かせたのだ。

 ――また、間に合わなかった。

 再び絶望に堕ちかけた少女の意識を暗黒から掬ったのは、頬に打ち付けられた掌の硬さだった。

「……あの奴隷を救いたいのなら、私に付いてきなさい」

 差し出された手は細くとも、剣で鍛えられた男のものだった。

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