獅子の中の蜜 Ⅵ

 未だ渇き切らぬ鞭の痕は、乾いた瘤に押し付けられると悲鳴を上げた。湿った上衣は汗ではない、粘ついた何かを吸い、細い背に張り付く。だが、薄い頬に奔る細長い亀裂から垂れる赤に彩られた唇は微動だにしなかった。

「つまんねえな」

 額を覆う前髪を武骨な、しかし子供のものでしかない指が掴む。じくじくとした疼きも治まらぬうちに、柘榴の幹に背を叩き付けられる痛みは、十にも満たぬ幼子が蓄えた語彙では表現できない。だが、まだ奴隷ではなかった頃にカヤトが負わされた、湾刀の一撃よりは幾分かましだった。

「いい加減、何か言えよ。“許してください”ってみっともなく泣きわめいてみろよ」

 カヤトを取り囲む三人の年嵩の少年の内、カヤトをもっとも執拗に付け回すのは、三人の中でも一際大柄で力が強い少年だった。

「――俺の名を呼んで。そうすれば、もう止めてやってもいいんだぜ?」

 面皰にきびが目立つ面を歪める少年の声は様々な感情で織りなされていた。嗜虐と傲慢の陰に隠された哀願と不安は、少年の瞳にも表れている。揺れる瞳は癇癪を起し泣き出す寸前の幼子のものだったが、彼の願いを叶えることはできなかった。カヤトは彼の名を覚えていないから。幾度か耳にした覚えはある簡潔な音の連なりは、カヤトを素通りするだけで、心に刻まれることはなかったから。

「さっさとしろよ。……いくらお前らポズホル人が犬っころの子孫だからって、それぐらいはできるだろ?」

 ゆえに、痛みに掻き乱される脳裏の奥底まで探っても、カヤトは少年が求めるものは差し出せない。そうしてやる義理もないが、いい加減に昼食の煮込みに入っていた大蒜と玉葱の余韻を漂わせる口臭から逃れたかった。

 ――こいつの名前、か。いくらなんでも“豚”じゃねえよなあ。

 澱んだ記憶の澱では、探っても探っても求める物は見つけられなかった。断片は手にしているのに、それは燈火ではないから深淵を照らし暴きはしない。

 それでも致し方なしに探索を続けると、不意に眼裏にあえかな光がちらついた。深淵から浮かび上がり水面に浮かんでは弾けて消える泡沫の、儚い煌めき。

 雪の白銀と夕闇の紫黒を背にして微笑む誰かの背丈は、「自分」とあまり変わらなかった。面立ちも髪と目の色も、厳つい眉根に焦燥を刻んで立ちはだかる少年とはかけ離れている。 

 だがカヤトの記憶が正しければ、彼らは共に「ル」で始まる名を持っていたはずだった。そして、「ル」で始まるペテルデ人の――および、長い年月を経てペテルデに取り込まれ、彼らの教えを奉じるようになったネミル人の名前は少ない。その希少な幾つかの中でもっとも一般的で人気があるのは……。

「――ルヴァシュ?」

 犠牲、あるいは献身。ひいては「神に捧げられるもの」を意味する古代語から採られた「ルヴァシュ」だったはずだ。

 飼い主である現王の名すら怪しい自分が、良い意味なのか悪い意味なのか判然としない響きに、懐旧を呼び覚まされる理由は定かではない。しかし思い当たる節はある。永遠に帰らぬだろう雪深い村の、山岳民の男児には幾人かの「ルヴァシュ」がいた。彼らはいずれも、強引に彼らの父祖の地に入植してきた異民族の子供であるカヤトを遠巻きに見つめていたが、迫害もしなかった。

「ルヴァシュ」

 締まりのない唇を戦慄かせる少年を呼ぶ声すらも弾んだのは、ふつふつと沸き立つ喜びを抑えきれなかったためだ。喪失したはずの大切な品を思いがけず発見したかのような、遠い昔に別れた友人と偶然に再会したかのような歓喜は、強張った頬を緩ませる。

「ルヴァシュ」

 奴隷の身に堕とされて以来晴れることを知らなかった胸が、こんなにも騒いだのは久方ぶりだった。目を瞑れば蘇る母の笑顔と赤子の泣き声から呼び起こされたのは、ぐちゃぐちゃに入り乱れた醜悪な感情だったから。たどたどしいながら懸命に形にしたペテルデ語で話しかけたカヤトを冷ややかに見やった少女に対して抱いたのも、やはり歪んだものだったから。

 彼女らに捨て去られ、忘れ去られた自分に残された幻想は穏やかに微笑んでいた。胸の高鳴りを覚えてしまうまでに。罪深い自分が赦されるはずはないのに、もう一度逢いたいと願ってしまうまでに。

 なのに、目の前の少年の面は醜く引き攣れていた。彼の両隣の、曖昧な笑みを張り付けた二人の間には、嵐の前の静寂が漂っている。 

「違う」

 十を二つ三つ超えたばかりにしては逞しい体躯の重量が鳩尾を抉ったのは、ひび割れた囁きが吐き出されるよりも早かった。 

 微風どころか吐息にすら吹き飛ばされそうな掠れた怒号は、カヤトの耳にとっては意味を成さない。

「……んだよ。だったらお前は、俺がてめえの足元に這いつくばって“どうか許してください、ご主人さま”とでも言えば満足したのか? 豚の分際で王さま気取りかよ」

 背でのたうつ灰色の三つ編みを引かれ、小柄な痩躯を持ち上げられ放り投げられる。たわわな果実を守る棘の先端に皮膚を撫でられる苦痛はやはり耐えがたかったが、これしきの責苦で弱音を吐くのは矜持が赦さない。

 肩に、胸に、腿に打ち付けられる拳と踵の骨は固く、尖っていた。重い一撃がカヤトを揺さぶるたびに、背後の果樹の葉もざわざわと擦れる。口内に血の味が滲む頃に解放された少年に最後にぶつけられたのは、真っ赤に熟した――内側からぐずぐずに腐った果実だった。形良い後頭部に当たってひしゃげた柘榴が零したのは紅蓮の種子だけではなかったのだ。ぶよついた白い濁りの正体など、考えずとも肌で察せられる。

 もぞもぞと蠢く蛆は、指先に力を加えると呆気なくひしゃげた。非力な虫が潰えると、下腹で渦巻く腐敗の象徴への嫌悪感も少しずつ薄らいでいった。

 軟弱な、けれども内側に硬い芯を秘めた粒が靴底で弾ける。あらかたの蝿の幼子を目前から消し去った頃には、課せられた定め――カヤトのもう一つの睡眠時間たる午後の座学をも凌駕する使命感すら覚えていた。真夏の陽光に温められた生ぬるい風と、気だるげに飾り羽を引きずる孔雀の他には、他者の気配はなかった。

 長い三つ編みを解き、背の半ばにまで届く髪を指で梳く。少年は豊かな流れの合間に潜んでいた最後の一匹を掌に乗せた。十あまりの節の先の尖った頭部には黒い点のような汚濁がある。カヤトや他の子供に奴隷商が投げてよこした腐りかけの麺麭と肉に湧いていた幼虫も、そっくり同じ姿かたちをしていた。

『お前もあと十年もしたら女を買うようになる。そして一発済ませた年増の娼婦が母さんだった――なんてことにならなきゃいいな』

 背の傷を疎まれ、幸運にも・・・・豪商の慰み物兼私兵ではなく王宮の奴隷兵として購入されたカヤトに浴びせかけられたおぞましい揶揄への憎悪ごと、のたうつ小虫を握り締める。すると、中指の爪が太った身体を分断した。虫が吐き出した体液は、あの日母の肌を穢していた男達の体液そのものに見えた。

 忌まわしい光景を構成していた白濁を意識してしまうと、何とも思っていなかったはずのべたつきに耐えられなくなった。少年は踏み潰した柘榴が転がる木陰から、まばらな人影が落ちる浴場の入り口を目指す。不快な蝿の子の残滓ごと、過去の情景を洗い流してしまいたかった。解放されたかったのだ。

 肌を上気させ、親しげに肩をたたき合う青年たちは、浴場の扉に駆け込んだカヤトに目を剥いた。

「どうしたんだい、お嬢ちゃん。今は男の時間だよ」

「お嬢ちゃん? てめえ、どこに目を付けてんだ?」

 垂らしたままの長い髪からカヤトを女と勘違いしたらしき青年たちの、どこかにやついた制止を振り切り、服を脱ぎ捨て浴場に駆け込む。頭から被った水は細かな傷を苛んだ。

 水気を含み鉛の光沢を帯びた髪を搾る。ぽたぽたと雫を滴らせるものがなければ、多少は楽になれるはずだ。奴隷となった大多数の同胞に倣って髪を切り落としてしまえば、今よりは周囲に馴染める。女みたいだと嘲られることもなくなるだろう。だが、それができないのは、髪に押し当てた剣を握る手と決意を鈍らせるのは――


「君の髪は綺麗だね。真っ直ぐでさらさらしているから、触っていると気持ちがいい」

 あいつらがやたら触りたがった気持ちも分かるな。謡うように囁かれた讃嘆が、六年の歳月を越えてカヤトを現在に引き戻す。

「……気安く触んな」

「目の前にこんなに長くて綺麗な髪があったら指を通したくなるのが人間ってもんだよ」

 自分よりも年下の少年の円らな瞳が親しげに細められる様は、母の後についてまわる仔犬を思わせた。 

「お前の髪も似たようなもんだろ」

「そりゃ、同じポズホル人だからね。でも、僕は切られちゃったから」

 艶めく黒髪にきらきらと輝く柘榴の瞳が醸し出す愛嬌はいっそ少女めいてすらいる。

「奴隷にされた時に。こんなのは奴隷にはいらないだろうって」 

 ゆえにこの小柄な少年が抱える怨嗟の根深さが窺えた。怒れる神を鎮められるのは贄の血潮のみなのだ。

「ねえ、カヤト。君はどうして髪を切らないの?」

「……てめえには関係ねえよ」

 突き付けられた問いの答えとなりうるのは、鼻歌を歌いながらカヤトの髪を梳いていた女への、未練がましい愛着だけではない。

 ――ちゃんと伸ばして……。

 胸が軋む。魂に刺さった棘が疼く。母の歌声からも澄んだ囁きからも、どんなに足掻いても逃れられないのだ。

「イェスレイ」

 この名を舌に乗せる。ただそれだけで過去の断片が胸の奥に突き刺さった。父が、村の男達が、奴隷商たちが母に強いた行為。それをあの少女に求める自分は、彼らと同じ――蛆よりも汚らしい生物なのだ。だから、これ以下に堕ちはしない。

「俺はお前の同胞にはなれねえけど、今日ここで聞いたことは口外しない」

 一つの国を、そこに生きる数多の民を破滅に導こうが。

「あの女王を血祭りにあげようが死ぬまで兵士たちにマワさせようが、お前の気が済むようにすればいい」

 父や夫の所業に携わらなかった女を地獄に叩きこもうが、カヤトは始めから人間ではないのだから。

「お前はそれを望んでも赦される。天主だか唯一神だかは赦さねえかもしれねえけど、俺は認める」

「……そう」

 仄かに桜色に染まった唇を噛みしめる少年は年よりも幼く、頼りなく映った。

 甘酸っぱい柘榴の香りが、湯気で温められた鼻腔を射す。女王が送った兵がまたしても大敗を喫し、イングメレディ地方が敵兵の手に落ちたとの報が齎されたのは、熟れすぎて甘い果実の腐臭が庭園を華やがせる夏の盛りだった。 

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