獅子の中の蜜 Ⅴ
幾度となく奥歯ですり潰した肉は旨みと肉汁を吐き出していて、これ以上は望めそうにない。
『……ごめんなさいね。ほんとは、もっといいお肉を食べさせたかったのに』
差し出された時には冷え切っていた茹で肉。その筋は細い顎が疲労を訴えるまで咀嚼しても噛みきれなかった。いつまでも口内に残るぱさついた繊維の舌触りは不愉快ですらあったが、カヤトの身体を気遣う母の心を吐き出すことはできない。
成人した男ならば必ず備えている隆起のない滑らかな喉を動かし、ぶよついた塊を嚥下する。渇きを覚え凪いだ湖面に指先を浸すと、波紋が生じてやがて消えた。水鏡に映るのは擦り切れた狐の毛皮の帽子を被った少年だけで、少女の姿はなかった。
小さな手から零れ滴る雫が還る泉は、メゼアの瞳よりは青に近いが、若干の紫を含んだ蒼色をしている。カヤトとメゼアの間にいつの間にか、言葉にせずとも結ばれていた約束の時刻は未だ遠い。
もしかしたら、と僅かばかりの期待を抱いて馬を駆らせたカヤトを出迎えたのは、小鳥の忙しい囀りと早朝の涼やかな大気だけだった。未だ薄闇に覆われた時分に幼い子供を、それも早逝した夫の忘れ形見である一人娘を出歩かせるほど、メゼアの母親は愚かではないという何よりの証だ。最初から分かり切っていたことなので落胆はしない。だが、ありえぬ希望に振り回された自分の弱さには反吐が出る。
『明日は家でおとなしくしていろ。いいか、必ずだ』
元々はまさしく柘榴の粒か葡萄酒のごとく澄み切っていたであろう双眸を酒気で淀ませる男の意思に背いたら、どんな気分になるのだろう。小さな胸に広がり心臓を騒めかせるのは、禁を犯した高揚か、あるいは雲一つない空のような爽快感か。
――ばかばかしい。
湧き起こる好奇心の赴くままに手綱を握った末にカヤトが得たのは、憂いを帯びた寂寥と自嘲。そして自責だった。
恐らくは杯が転がる寝室で惰眠を貪っているだろう父がカヤトの不在を悟ったら。カヤトはまず間違いなく半殺しにされる。
内心では決して納得していなくとも、自分の非に起因する苦痛を受け止める覚悟はある。罰を受けるのが自分だけならばよいのだが――
カヤトの不在を悟った父は母をも責め、あの華奢で柔らかな肢体に拳を沈めるだろう。カヤトのせいで破れ打ち捨てるほかはない衣服同然にいたぶられても、母は笑ってくれるのだろう。――あんな寂しい笑顔を浮かべられるぐらいなら、いっそ痛罵され殴打された方が幾分かましというものだ。そちらならばまだ我慢できる。
「……戻るぞ」
朝露に濡れる草を食む馬の葦毛を撫でる。心地よさげに目を細めた獣は、名残惜しげに泉の畔に尻を向けた。逞しい背の上で揺られながら眺めた景色は、息を弾ませて清冽な泉を目指していた頃と変わらぬはずなのに、異なって見えた。峻厳なる白き峰を薔薇色に輝かせる太陽は厚い雲の陰に隠れ、長く伸びた木々の影は蟠る夜闇の名残に蕩ける。もはや、カヤトを包むもの全てが暗黒であるように感じられた。轟く野生の獣の遠吠えもまた、幼子の恐怖を喚起する。
「そんなに怖がるなよ」
焦燥を滲ませたその一言は、残忍な咆哮が轟くたびに巨大な体躯を震わせる馬を慰めるためのものなのか、あるいは自身の臆病を叱咤するためのものなのか。狼などよりももっと恐ろしいけものが控える自宅に戻り、馬の寝床に藁を敷いても、その答えは出なかった。
「母さん。おれ、馬の世話してきたんだけど、」
馬上で煉り合せた嘘を乗せた声が妙に大きくなったのは、がたついた扉の悲鳴に対抗しているからではなく、舌を強張らせる疚しさを振り払うためだった。
「……母さんは大丈夫だった? まさか、親父はまだ起きてないよね?」
しんと静まり返った――母の努力も虚しく父に荒らされ蹴飛ばされた家具が散乱する室内は、乱雑であるのに静謐である。だが慣れ親しんだ侘しさは、確かな異変の予兆を少年の目から隠しはしなかった。
古びた血が染みついた絨毯の毛足に絡む淡い色の毛の束――細やかに波打つ髪に縁どられた美しい顔を蒼白に染めた女は、
「――逃げて!」
整った唇から悲痛な祈りを吐き出した。手足を縛められた彼女が自由にできるのは、目蓋と唇だけだったのだ。こんな状態の母を捨て置くなんて、どんなに泣き叫ばれて懇願されてもできるものか。それができるのは、血も情けも通わぬけものだけだ。
「何言ってるの?」
触れれば折れんばかりの手首と足首に回された縄は太かった。結び目は固く、幼子の力では解きほぐすどころか緩めることすらできはしない。頑丈な麻は錆が浮いた包丁では容易には断ち切れなかった。
白い肌に赤い傷を刻ぬように慎重に、けれども手早く刃を引く。どうにか母の手首を解放した少年にかけられたのは、感謝ではなかった。
「もういいから、早くどこかに行って!」
嫋やかな手が幼子の胸を押す。均衡を崩した身体はあっけなく傾き――
「母さん?」
幼子の体重と床に叩き付けられる衝撃を受け止めた右腕はじんと痺れたが、捻ってはいなかった。
「どうしたの?」
転がり落ちた包丁の柄を手繰り寄せると、とうとう母の大きな目に湛えられていた水滴が零れ落ちた。
「お願いだから言う通りにして! わたしは、あなたにだけはわたしと同じになってほしくないの!」
啜り泣く女の背はか細いが、子供の短い腕では持て余してしまう。カヤトにできるのは右腕で包丁を操り、もう一方の手で戦慄く肩に触れることだけ。
「もういい。もういいの。……わたしはあなたを育てられて幸せだったわ」
「――“だった”?」
踵から旋毛までを貫いた不吉な軋みが、独白とも問いかけともつかない囁きを掻き消す。鉛色の雲の向こうからの、気休め程度の陽光を浴びてカヤトの母の前に立ちはだかるのは父だけではなかった。
悪趣味に着飾った身体の上に乗せるにはこれ以上ないぐらいにぴったりの、厭らしい微笑を刻んだ五人の男は、入室の許可も挨拶も告げなかった。
「こりゃまた、随分なべっぴんだなあ。よくこんな田舎に埋もれていられたもんだ」
「いくら美人でも、所詮瘻付きの中古だろ? 娼館に売っても大した金にはなりゃしねえ。それよか俺たちはそっちのガキが欲しい。こういうのは貴族が私兵にするために高く買うんだよ」
「そうかい。じゃあ俺たちは母親の方で我慢するとするかね。それで商談成立だ。あんたも、それでいいだろ」
二人と三人、それぞれ父の右と左に分かれ、不躾にこちらを観察する男達が何者かなど、言われずとも察せられる。
「ああ」
この男は、売り払おうとしているのだ。
「……お前……」
「このままでは酒代が尽きるのでな」
血を分けた息子を。息子の母親である女――実質上の妻を。たかだか酒代を工面するために、奴隷として。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、呆れに焼き尽くされた脳裏に怒りが広がる。父が自分たちをせいぜい家畜としてしか認識していないのは知っていたから、絶望に打ちのめされはしなかった。
「……ざけんじゃねえぞ」
汗で湿った柄が小さな手からすり抜ける。放った刃は濃紺の布地を引き裂き黄味がかった皮膚と赤い亀裂を覗かせたが、首筋には届かなかった。
「父との今生の別れで手向けるのがこれとはな」
鋭利な爪先が無防備な鳩尾を穿つ。失せかけた背中の疼きをも呼び覚ました一撃は、いつもと変わらず重く鋭かった。
「そいつはもう俺たちの物だ。金も払ってねえのに蹴り飛ばすなんて、冗談じゃねえぜ。あんた、そのガキが万が一使い物にならなくなったら、補償してくれんのかよ?」
既にカヤトを商品と見做し、将来己が手にするであろう利益に思いを馳せる男のだらしない笑みは醜悪で。
「さ、おじさんたちのところにおいでカヤトくん」
「おじさんたちは、君をお父さんから
腕を掴む手を、嫌悪が命じるままに払いのけると頬を張られた。
「調子に乗るんじゃねえぞ、ガキ」
「まあ、ガキはこれぐらい元気な方がいいさ。こいつ、十日前は怪我で寝込んでたんだろ? それがもうここまで回復してる。きっと使える奴隷になるな」
先程までの母と同様に、手足を――抵抗を封じられた幼子にできるのは、ただ部屋の片隅で不甲斐なくへたり込むだけ。
「――やめて」
見開かれた紅蓮の双眸に映る女は、三人の男に押さえつけられていた。
「何をしている?」
どこぞから取り出した酒壺を呷る父の目は既に酒気で濁っている。
「味見だよ。こいつは生娘ならともかく瘻付きの中古なんだから、具合を確かめてから値段を決めても構わねえだろ? もちろん、良かったらさっきの言い値より高く買うぜ」
暴かれた胸元はやはり白く肌理細やかだったが、あちこちに刻まれた赤い痕はカヤトにとっては直視に耐えなかった。
「ほんとに綺麗な顔してる。元々はしけた農村の村娘だったなんてとても思えねえ」
母の髪で、唇で、項で、胸元を這い回っていた芋虫が裳裾の中に侵入する。名も知らぬ男がべちゃべちゃと汚らしい音を立てて啜っているのは、穏やかな胎内から這い出たカヤトが最初に咥えた――
「……イェスレイさま」
苦しげに眉を寄せた女の瞳は主人の庇護を求める家畜の瞳そのものだった。
「たすけて」
だが血が滲む嘶きはけものには届かない。
「わたしはあなたを愛しています。だから、他の男のひととなんて、」
偽りの愛も、甘い媚も。
「下らん嘘を吐くな。酒が不味くなる」
生命と正気を蝕む液体に囚われた男の慈悲を引き出すことはできなかった。
「お前が愛しているのはそこにいる子供だけだろう。こいつのためにならば好いてもいない男に脚を開いて、肉や菓子を恵んでもらっていたのだ。余程愛しているらしいな」
蔑みと共に曝け出された真実はにわかには信じられなかったが、受け入れざるを得なかった。
美貌を妬まれ村中の女から忌避される母が、窮状を訴え縋れるのは男だけ。我が身以外には何一つ持たぬ母が対価として差し出せるものなど、自分自身しかない。
筋を受け止め消化した胃から這い上がる嘔吐感は凶悪で、額から吹き出す汗はべたついていた。母はカヤトのために
なよやかな女の下半身と、醜い脂肪に覆われた男の下半身が一つになる。だらりと力が抜けた、亡骸同然の四肢は未だ二人の男から解放されてはいなかった。
がくがくと揺さぶられる母の身体の上に、奴隷商の肥満体が崩れ落ちる。鼻腔を刺激する体液の生臭さはおぞましく、治まっていた胃の腑の収斂が蘇った。
「次、俺だ」
「俺たちも混ぜてくれよ。金は払うから」
母の身体にのしかかる男が入れ替わる。どの男も、やることは同じだった。力づくでこじ開けた脚の間に己をねじ込み、腹の肉を波打たせながら浅ましいうなり声を上げるだけ。
「おまけだ。これで好きな酒でも買うといい」
気だるげに息を吐く男が、杯を干した父に投げた銅貨が転がる。緑青に覆われたくすんだ円盤は、尖った靴先に当たって倒れた。
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