獅子の中の蜜 Ⅳ

 幾重にも巻いた麻布の下の肌は蒸れ発疹ができているが、外すことはできない。強かに酒を浴びたためか、少年が負った深手は四半刻ほど――父が、泣き叫びながら我が子の許に駆け寄った母の足首を掴み、赦しを乞う女の頬を張って再開した交接が終わるまでは放置されていただろうに、膿むことはなかった。傷の深さの割に出血がすぐ止まったのも幸運だったのだろう。

 だが何より幸運だったのは、あの日のカヤトの記憶が父に斬り伏せられた直後に途切れたことだ。脳裏に焼き鏝を押されたかのように張り付いた忌まわしい情交の断片は、峻厳なる山々からの雪解け水で雪いでも消え去りはしまい。 

 高熱に魘され、二日の間滾々と眠り続けた少年のしばしの安息を破ったのは、普段と変わらぬ父の罵声だった。

 ――どうせそのうちくたばるのだから、看病などするだけ無駄だろうに。

 尖った爪先が頬を打つ。苦々しい罵りが混濁した意識を暗闇から光明の下に引き上げた。殴打されながらも背でカヤトを庇っていた母の唇から漏れる呻きは弱々しく、時間が許すかぎり彼女はカヤトの側にいてくれたのだと教えてくれた。それで十分だった。それ以外は何もいらなかった。

「ざけ……な」

 身じろぎ一つすら許さぬとばかりの激痛を堪え身を起こし、とこから這い出て己と同じ目をしたけものをねめつける。

 逞しい背に流された十数の細かな三つ編みが一つに纏められた束は、黒蛇の群れさながらに艶光りしている。父の部族の男の成人の証を形にするために母が強いられる労苦――長い髪を解き、梳り、再び編む手間を思うと、馬鹿馬鹿しくて仕方なかった。陰湿と苛烈を行き来する疼きを背負わされた身でなければ、腹を抱えて笑っていたかもしれない。いや、カヤトは現実に嗤ったのだ。

「おれを、かって、にころす……じゃね、ぞ」

 クズが。

 ひび割れ掠れた、ほとんど吐息同然の蔑みを吐き捨てる。

「……死ななかったとは。これはまた随分と頑丈にできているな」

 怒りで燃える少年の柘榴のそれと宿す色彩は同じだが、酒気で淀んだ――腐りかけの柘榴が瞠られる。この男のこのような顔と対面するのは生まれて初めてだった。あるいは、父の顔を直視することそのものが初めてだったのかもしれない。

 母を、自分を虐げる人間の顔など見ていて気持ちの良いものではない。だが驚愕に歪んだ父の面は悪くなかった。

 通った真っ直ぐな眉に、涼しい切れ長の眦。引き結ばれた薄い唇。よくよく観察すれば、父は端整と評するに余りある容姿をしていた。その外観をもってしても内側の醜悪さは覆い隠せていなかったが。

「まいにち毎日、誰かさんに殴られてるからな。おかげできたえられてたんだよ」 

「ならば私に感謝の言葉を一つでも述べてみろ。“ありがとうございます、お父さま”簡単だろう?」 

 皮肉と嗜虐を漂わせる口元に、乾いた口内からかき集めた唾を放つ。

「てめえにかんしゃ? ……笑わせんな」 

 整った口元を弓なりに持ち上げた父はカヤトの汗を吸って湿った襟首を掴み、

「……我が子ながら可愛げのない子供だ。昔の――私の奴隷となったばかりの頃のお前を思い出すな、イェラーヴァ」

 疲労と懊悩によって生来の儚い美を際立たせている女の、折れんばかりに細い身体めがけて放り投げた。

 まろみを帯びた肩の骨が塞がりかけた亀裂を抉り、こじ開ける。眼裏で飛び散る火花は、焔にはあり得ぬ濁った――血の紅をしていた。柔らかな乳房に包まれていてもなお、冷ややかな床に叩き付けられる衝撃はこの世のものとは感じられなかった。地獄の炎での責苦の方がまだ優しかったのではないだろうか、とでも現実から逃れなければ、再び意識が暗黒に呑みこまれてしまいそうだった。

 ――悲鳴など、上げてやるものか。

 物心ついて以来、たとえ骨が折れるまで殴打されても、呻き声一つ洩らさなかった。それがカヤトの矜持だった。

 幼子の四肢を踏みしめ爪先を食い込ませる男は、やがてあまりの手ごたえのなさに興を殺がれたらしい。父は鳩尾への重い一撃を置き土産に、血と汗の臭気渦巻く一室から遠ざかった。

 肉に肉が、肉に骨が叩き付けられる鈍い音が鳴りやんだ部屋では、呼吸すらどこか耳障りだった。この地上に存在するどんな言語を駆使しても表現できない痛みに襲われる幼子が拒絶せずにいられるのは、

「……だ、だいじょうぶ?」

 か細い、けれども労わりに満ちた母の声とぬくもりだけ。後頭部から項にかけてはらはらと降り注ぐ涙はカヤトのためだけに流されたものだった。

 荒れひび割れてもなお嫋やかな手が、血臭漂わせる小さな背に伸び、元が何色だったのかも判然としない赤黒い布を剥ぎ取る。久方ぶりに触れる外気はひんやりと冷たかったが、どことなく見覚えがある麻布を巻きつけられれば背筋の戦慄きもすぐに消失した。母は我が子の手当てのために、自らの数少ない衣服を裂いたのだ。

「お腹が減っているでしょうけど、我慢してね」

 衰弱した身体にも受け付けられるように、と乳と僅かばかりの塩だけで味付けされた蕎麦粥は薄味だが美味だった。

 腹がくちくなれば底から熱と活力が生まれ、血流に乗って末端まで広がる。むずむずと疼く手足を思い切り動かして、清澄な外の大気を思い切り――胸が膨らむまで吸い込みたい。だがそれはおびただしい生命の源を失った身では叶えられぬ望みだった。

 少なくとも三日は家の中でおとなしくしていること。父の前に姿を現さないこと。強引に結ばされた約束は、少年にとっては重すぎた。けれども破れば母が悲しむ。

「身体が元の調子に戻ったら、あなたが好きなお肉をたくさん食べさせてあげるから」

「……うん」

 だからカヤトは、何があっても――母の悲痛な叫びが狭い家の中に轟いても、粗末な布団にくるまっていた。今の自分では、母を守るどころか足手まといにしかならない。

 早く、治れ。  

 痛切な願いを抱いたまま堕ちた眠りは安らかとは言い難かった。天井の染みを眺める以外にやることのない退屈な数日は緩慢な拷問そのもので、その長さは少年にとっては一年にも匹敵していた。

「ねえ、もういい?」

「……ええ、いってらっしゃい。でも、無理しちゃだめよ」 

 数日振りに手ずから草を食ませた馬に飛び乗る。馬は当初、拗ねたようにそっぽを向いていたが、流石に数年の長きに渡って餌を与えてきた人間を忘れはしなかったらしい。灰色の腹に靴の先を当てると、ひんと力強く嘶き駆け出した。逞しい脚が大地を蹴るたび、小さな身体も揺れる。長い三つ編みが叩き付けられる。ただそれだけのどうということのない動作でさえ、カヤトの背は悶えた。

 ――歩いたほうがマシだったかも。

 幼子には背負いきれぬ苦痛に押しつぶされかけてもなお、自分をあの泉の畔に向かわせるものはなにか。

 嚥下しても追い出しきれない血の味を持て余す少年に浴びせかけられたのは、とうとう解きほぐせなかった謎の答えを握る少女の憤りだった。

「五日もやくそくをすっぽかすなんて、ひどいよ」

 元々が柔和な造りをしているメゼアの面立ちは、眦を吊り上げられていても迫力という代物とは無縁だった。だが哀しみの紗で覆われた大きな瞳に見つめられると、胸の奥が罪悪感で締め付けられる。

「……どうしてここに来てくれなかったの?」

「親父に斬られてねこんでたから」

「――え? お父さん、に? ……どうして?」

 実際に深手を負ったのは、沁みる汗に苛まれているのはカヤトなのに、目の前の少女の面はたちまち水鏡に映る自分のものよりも蒼ざめた。

「……ごめんなさい。わたし、そんなこと、しらなくて……」

 夕暮れを宿した瞳に張った膜が破れ、眦から溢れ出てふっくらとした頬を濡らす。母の控えめな制止を振り切ってまで得たのがメゼアの涙だけでは、滲む脂汗と未だ乾かぬ傷口の疼きに苛まれた甲斐がない。ぐしゃぐしゃの泣き顔よりは、先程の怒り顔の方が幾分かましというものだ。

「んなこと知ってる方がおかしいだろ。それよりおまえ、もとがたいしたことないんだから、せめて笑ってねえと見てらんねえぞ」

 気を緩めれば崩れ落ちる痩躯に残された僅かばかりの余力をかき集め、少女がもっとも憤慨するだろう軽口を叩く。「女の子には絶対に言っちゃ駄目よ」と母に禁じられていた単語は、メゼアにぶつけるには相応しくないことは理解しているのだが、カヤトはこれ以外に彼女の涙を止める方法を思いつかなかった。

「泣くとブスがもっとブスになる」

 だから、早く泣き止めよ。

 気恥ずかしさに抑え込まれたために喉元で痞えた願望は、容易には現実にならなかった。

「……わかって、ます。だけど、こんなのあんまり、でしょう?」

「あんまりなのは今のおまえのツラだぜ」

「そんなこと、どうでもいいでしょ? カヤト、お父さんにころされかけたんだよ?」

 言葉を重ねるたびに焦燥が募る。震える肩はあまりに小さく頼りなかった。

「……ほんと、女ってよく泣くよな」

 メゼアは幼くとも「女」なのだ。母と同じ、本来ならば「男」に大切に守られて然るべき、繊細でか弱い生き物。虫と蛙が嫌いで花や菓子が好きな……。

 膝を抱えてしゃくりあげる少女の、秀いた額を指先で弾く。

「な、なにするの?」

「これでもやるからいいかげん泣き止め」

 乾燥乾酪アーロールを差し込んだ唇の内側は温かく、蕩けそうなほどに柔らかだった。カヤトの髪などよりも、紅く小さな唇こそが「絹」なるものに近いのではないのだろうか。

「……かたくて、すっぱい」

「干してるんだからとうぜんだろ」

 皺が寄せられた眉間と訝しげに細められた目、きゅっと窄められた口は、やはりお世辞にも美しいとは言い難い。だが似合わない泣きっ面よりは余程いい。このあいだの飴のお返しに、と母に持たせられた好物が、こんな形で役に立つとは。

 口内に放り込んだものは何でも直ちに噛み砕かずにはいられないカヤトとは違って、メゼアはのんびりと――言い換えればまどろっこしく食物の味を賞味する。乾ききった羊乳が桃色の舌にふやかされ、尖った歯に砕かれ嚥下されるまでには少なからぬ時を要したが、流れた沈黙は心地良かった。

「さいしょはすっぱくてびっくりしたけど、すこし、くせになった……かも」

「だろ?」

 最後の一個を掴んで差し出した指先は、ふっくらとした手に遮られる。

「それ、カヤトのお母さんがカヤトにくれたんでしょ?」

「……それが、どうした?」

「だったら、それはカヤトが食べないとだめだよ」  

 重なり合った緑の葉の隙間から滴る光に照らされた掌は蛙の腹よりも滑らかだった。

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