獅子の中の蜜 Ⅰ
――麗しの太陽よ、帰ってきておくれ
澄んだ声が形作る泣き歌はいつも奇妙に明るくて、その本来の役割を果たしていなかった。
――青き空舞う白鳥に、軒下に巣を作る家燕になって
湿った囁きがむき出しの耳をくすぐる。
「ねえ」
母さんは、太陽と白鳥と燕のどれに帰ってきてほしいの。
手放しがたい穏やかな薄明の眠りをカヤトから取り上げた、怒号とか細い悲鳴から暗示される、一度は眼を背けた惨状。少年は直視しがたい痕跡と向き合う切っ掛けとすべく、たわいのない疑問を紡いだ。
「ああ、もう。編み目が乱れちゃったじゃないの」
母はくすくすと微笑み、小さな頭を撫でて半ばまで編んだ三つ編みを解いた。少年が長年――それは物心ついてから現在に至るまでの、ほんの三年足らずの歳月なのだが――抱え続けた細やかな謎に光が当てられることはなかった。
眠気などとうに吹き飛んだ眼にちらと映した胸元は透き通るように白かった。所々に散らばる色も種類も様々な暴力の痕が、遙かなる東方の豪雪地帯で生まれ育った女の、雪と見紛う白さを引き立てていた。露わになった部分だけでも目を覆いたくなる有様なのだから、粗末な麻の服の下はなおさらだろう。
母が頑なに秘め隠そうとする苦痛を確認するのは血を分けた息子であるカヤトには赦されていない。それが幸運なのか否かは、幼い頭では導きだせなかった。
母の美しさと不遇は男の欲望と同情を喚起する。カヤトがやはり痣と歯型だらけだっただろう乳房をしゃぶっていた頃、母は村の青年に告白されたことがあるらしい。あなたを苦しめる男の子供などここにおいて、二人でどこか遠くにいかないか、と。母は心優しい青年との明るい未来を退け、役に立たない息子や横暴な主との苦難に満ち満ちた生活を選んだ。だから母はカヤトの髪を結んでいるのだ。信じがたいことに、鼻歌を歌いながら。
――東方の星の彼方、西方の大洋の彼方から
――母なる大地の許へ、帰ってきておくれ
「ほら、今度は綺麗にできた」
異郷の哀歌が終わると、幼い少年の一日が始まる。
「お父さまが起きてこないうちに朝ごはんにしましょう」
丹念に処理されてもなお執拗に存在を主張する青臭さと鉄錆の異臭を嗅ぎ取った瞬間から、食欲など消え失せてしまっている。だがそれもいつものことだ。
「うん」
ごく普通の、幸福な子供の真似事。それが、母を守る力を持たない幼子にできるたった一つのことだった。
色褪せた絨毯が敷かれた土間に座り、母と向かい合って羊乳で煮込んだ蕎麦の
すっかり空になった器は、生命の盛りの季節を間近に控えてもなお冷涼な朝の大気に強張る指先を温もらせたが、泡沫の熱はたちまち冷めてゆく。食事の締めくくりに牛酪と炒った粟を加えた
「お茶のお代わりはいる? まだお腹いっぱいじゃないなら、わたしの分も飲むといいわ。冷めるともったいないから」
まだ十にもならない子供であるカヤトよりも母の食事に時間がかかるのは、切れた口の端が痛むからなのだろう。少年のものとまったく同じ、口角が吊り上がった、つんと尖った薄い唇がほころぶ。
「たしか、もうすぐでしょう?」
朧な光をきらきらと反射する大きな瞳は恋に焦がれる少女そのものだった。主との間に子も産んだ女奴隷には不釣り合いですらある、微笑みと眼差しのあどけなさは庇護欲をそそる。そのような囁きを耳に挟んだことがある。
「そしたら沢山お話を聞かせてね。楽しみ……」
「母さん?」
はっと吐息を漏らす薄紅は、戦慄くと雨に打たれて項垂れる可憐な野の花を思わせた。直に無残にも踏み荒らされ散らされる、哀れな一輪を。
「イェラーヴァ」
母がカヤトの目から懸命に隠そうとする行為の痕跡を纏う、黄味を帯びた肌。質素な肌着に通された腕がカヤトの視界を遮る。
女の柔肌に男の骨が叩き付けられる音には慣れている。生まれてこのかた、自分や母の声の次ぐらいに――あるいはそれ以上に――耳にしてきたからだ。
「主人が起きてきたというのに食事どころか茶の用意もせず、子供を相手に無駄口を叩く、か。まるで公妃か公女だな。お前も随分な身分になったものだ」
華奢な身体にのしかかる肉体は、さして大柄ではないがしなやかな筋肉で覆われていた。
「申し訳ございません。……でも、先ほどは、」
「余分な口を叩けと命じた覚えはない。自分が奴隷であることを弁えろ」
そして、母の意思とは否応なしに曝け出されたのは――これ以上はもう耐えられない。
気まぐれに母と自分に降りかかる父の拳と跟は嵐だ。唐突に襲い来て、収穫間際の小麦を食い荒らす蝗のような、一種の天災。
父の気に入りの酒を切らしてしまったとか、乳茶に入れる岩塩の加減を誤ったなどの、取るに足らぬ過失。あるいは赤い目をしたけものが正午前に起きてきたなどの、複雑なようで単純な予兆を読み取れば回避できなくもないが、来るべき時はどんなにあがいても逃れられない世の不条理。
ごめん、母さん。
心中で独り言ち、一目散に家から駆けだした少年の背を追いかけるくぐもった悲鳴は、やがて肌と肌がぶつかる乾いた響きに変わった。
荒い息もそのままにうらぶれた家の、さらに荒れ果てた一画に駆け込む。黙々と飼い葉を食んでいた葦毛の馬は、胡乱げに――けれども穏やかにカヤトを迎えてくれた。ただそれだけで十分だった。
「行くぞ」
鐙に足を掛けて温かな背に飛び乗り腹を蹴る。三角形の耳を立てた獣はひんと勇ましく嘶いたが、歩みは遅い。老いが脚にまで回っているのだ。
「おまえが行きたいところまで走れ」
ここではないどこかに行きたかった。ここではないどこかに逃げたかった。だが、それがどこにあるかが分からない。
カヤトの頭の中の地図に仔細に描かれているのはこの山間の小さな村だけ。母の故郷も父の祖の揺籃の地も、真新しい羊皮紙の片隅にぽつりと記されているが、その間は空白だ。
――青き空舞う白鳥に、軒下に巣を作る家燕になって
もしもカヤトが鳥だったなら、どこにでも行けるのだろう。それこそ東の果てでも西の果てでも、望むところに。だが蒼き狼の胎より生まれ落ちた祖を持つにしては脆弱に過ぎる、牙も爪も備えぬ身では、どうにもならない。
忘れがたい陰惨が固く閉ざした目蓋の裏で蘇る。粘ついた液体で穢された腿もそのままに、むき出しの冷たい床を涙で濡らしていた女。それが幼子の脳裏に焼き付いた最初の光景だった。
『……待ってて。もうすぐ、お昼ごはんを作るから』
泣き叫ぶ自分を見捨てた息子がのうのうと帰ってきても、母は笑って出迎えてくれるのだろう。さも何事もなかったかのように。
手綱を握った手を爪で抉りせり上がる吐き気を堪える。珍しく素面だった父に乗せられた当初は、怯えを抱かずにはいられなかった視界の高さと振動は、数年の歳月を経た現在では心地良く少年の心身を揺らしている。長い三つ編みをそよがせる清風は小さな胸を蝕む澱みを追い払ってはくれなかったが、疼く心を慰撫してくれた。
だから、丸い頬に軽やかな空気の指先が触れなくなると、すぐに異変を察知してしまった。
「……なんだよ。おまえはほんとどうしようもないな」
行きたい所まで行けと言ったのは確かに自分だが、合図してもいないのに立ち止まる馬があるか。
「親父のまえで同じことしたら鞭でしばかれてたぜ。……分かってんのか?」
馬上から飛び降り適当な草を千切ると、老いてなお食欲旺盛な馬は喜び勇んで駆け寄ってきた。厚く長い舌は生温かく、掌の窪みを突かれると背筋が震えた。
「やめろ。くすぐったい」
汗が浮いた首筋に鼻を埋め更なる糧を催促するこの牡馬は、いわゆる駄馬の類に属する。立派なのは毛並みと体格だけで、凶暴な割にどうしようもなく愚鈍で臆病なのだ。彼の世話を担うカヤトには普通に接するが、うかつに近づいた父に噛みついて鞭を貰ったのは一度や二度では済まない。だからこの葦毛の馬は、彼の妻や子供が酒壺と引きかえに売り払われても、父の手元に残ったのだ。
行けと命じる方角とは逆を向き、荷を括りつけても振り下ろすばかりの家畜など、いっそいない方が幾分かましだ。父は酒に呑まれるとしばしば馬への憤りを零している。
村の男どころか女たちも、父の目利きを嘲っている。馬の躾もままならぬ男など、誇り高き草原の民の末裔を名乗るに値しないと。美しい母に秋波を送る男達も、異郷の女奴隷を蔑み妬む女達も彼らの子も嫌うカヤトも、こればかりは同村の人間に同意していた。
「おまえ、このままじゃほんとにあのせまっ苦しい小屋で死ぬはめになるぞ。それでもいいのかよ」
澄んだ泉に鼻先を浸す馬の首を撫でる。じっと伏せられた黒く円らな眼はどことなく物問いたげだった。
「……おれがおまえだったら、いつまでもあんなとこにいるのはいやだけどな」
この馬は馬鹿だが、馬鹿なりに賢い。彼は教えられずとも理解しているのだ。老いた身には囲いの外での自由だが過酷な暮らしはもはや毒でしかないが、だからといって過酷な状況から救い出してくれる新たな主が現れるはずはない。つまり自分は、気分次第で鞭を振り下ろす飼い主の慈悲に縋って生きるしかないのだと。
満足するまで喉を潤した馬がぶるりと身を震わせる。飛び散った飛沫はカヤトの衣服をも濡らしたが、不快ではなかった。
微風に葉を遊ばせる針葉樹の下に蹲った馬の腹を枕に寝転ぶと、たちまち眠気に襲われた。重石を括りつけられたかのように下がる目蓋を持ち上げるのは至難の業で、燦燦と降り注ぐ黄金の陽光は退けるには温かすぎる。畔に佇む勿忘草は盛りを過ぎてなお見事な蒼を湛えていて、あの少女の瞳を思い出させた。
母が瞳を輝かせながら指摘した通り、「彼女」との約束の刻はもうすぐだ。
――また、つぎの夏にあおうね。
光の加減によって金色を帯びる髪を垂らした自分と同い年の少女は、夏の間だけ村を訪れる。彼女の母の主である、北国生まれの王妃の避暑のために。そのはずだったのに。
「カヤト」
「……メゼア?」
どうして雀斑が散った顔をくしゃりと崩す彼女が、寝ぼけ眼を擦るカヤトの目の前にいるのか。一部始終を目撃したはずの馬は主の動揺など知らぬ振りをして草を咥えたままで、まるで役に立ちそうになかった。
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