畑に蒔いたのは良い麦でしたのに、どうして毒麦の穂が生えるのですか Ⅴ

 濛々と立ち昇る湯気が少年の肌を包む。敷き詰められた乳色がかった青の陶板タイルを踏みしめると、普段は擦り切れ泥跳ねが目立つ長靴に押し込んだ足の裏がぴくりと疼いた。新旧も濃淡も様々な赤い痕をさらさらと掠める毛先が煩わしくて仕方なかった。結い上げてしまえばそれこそ女のようだし、引き締まった背に散らばる暴力を隠すものがなくなってしまう。

 父の酒器の欠片による擦過傷は、幼かったカヤトに右肩から腰の二つの窪みまでにまで至る、浅からぬ亀裂を刻んだ。唇に犬歯をつき立てて悲鳴を呑みこんだ幼子に振り下ろされたのは、湾曲した刃の一撃だった。熱と蒸気を吸って色濃く浮かび上がる、二の腕から肩甲骨までに奔る桃色の線がその名残だ。

 奴隷兵となってからならばともかく、ただの子供だった時分からこれほどの傷を背負っていたガキは初めてだ。そう絶句した青年が振るった革の鞭は柔らかで、鋼鉄とは似て異なる冷気を纏っていた。

 ――だったら、女が胸を隠すように、浴用の肌着を着ればいいだろう。そうすれば、そのみっともない傷跡だらけの身体も少しは見れるようになる。

 嗤いながらカヤトにどこぞから盗み出してきた女物の肌着を押し付けてきた年嵩の少年の面差しは既に曖昧だった。訓練中の、己の技量への根拠のない過信によるつまらない事故で命を落とした愚か者など、その名どころか声すら記憶に留めておく価値はない。今日の夕食の献立に思いを馳せる方が、まだ有意義に頭と体力と時間を使える。

 最も混雑する訓練直後の時間帯を避けてなお、宮廷の使用人のために設けられた共同浴場に残る男には、カヤトのように髪を伸ばしている者は誰もいなかった。

 備え付けの盥で水を汲み、頭から被る。生来の艶を磨滅させる砂埃から解放された長い髪は、若干の青みを含んだ灰色の――暗く澱んだ水銀の輝きを取り戻した。重い毛の束を握り締め水気を絞る。ぽたぽたと滴る雫は腕を伝って肘から垂れ、脚衣がへばりついた腿に落ちた。

 つい最近まではきちんと踝までを覆っていた生成りの布から、すんなりと締まった脹脛が露出している。合わなくなってきているのは目の粗い麻の衣だけではなかった。支給されたばかりの胴着は厚みを増してきた胸板を圧迫している。堅苦しい衣服を脱ぎ捨てて初めて、息が多少楽になった。

 煩わしい水分を払った髪を緩く編み、捻って頭上でまとめる。本当は一瞬だってこんな頭にするのは嫌なのだが、身体を洗うためにはそうしなければならない。湯気で湿った薄い唇から吐息を押し出す暇すら惜しみ、張りのある若い皮膚を布で手早く擦り垢を落とす。

 項から腋窩を過ぎて、土が入った爪の先まで。鎖骨からうっすらと割れた腹部を通って尖った足先まで。一通りの汚れを落とし、ほっと一息ついた途端。

「相変わらず、凄い傷だね」

 肩越しに投げかけられた耳慣れぬ響きがカヤトからあえかな安息を奪い取った。

 見られた。誰からも――自分自身にも隠し通したかった、己の弱さの証を。女のように髪を上げた、みっともない姿を。

 それこそ殴打でもされなければ血の色が差さぬ狭い頬が燃える。こみ上げる羞恥心は怒りに駆逐され、そして諦観に変わった。

 不特定多数の目に晒してきた己の過去の罪と未練の痕跡に恥じ入ってどうする。守るべきものなどもう何も持っていない身で、今更何を守るというのか。

「少し話したいことがあるんだ。隣に座っても良い?」

 控えめに装った言葉とは裏腹に、カヤトの答えを待たずして腰を下ろした少年の髪は黒く、皮膚は黄味を帯びていた。切れ上がった一重に嵌めこまれているのは、紛れもなくカヤトと同じ赤。遠い遠い大陸東方の草原の蒼き狼を血を継ぐ、純粋な草原の民の末裔だ。

「君とこうして話すのは初めてだね。カヤト・イェスリェフ」

 イェスレイの息子カヤト。それがカヤトを表す全てである。

 ペテルデの民の一部が有する「姓」というご立派な代物はカヤトには与えられていなかった。だからカヤトは父の手によって奴隷の身に堕とされてからも、こうして忌まわしい男の子であることを突き付けられるのだ。

「……お前は?」

「実は、君のお父さんと同じなんだ。気軽にイェスレイと呼んで」

 黒髪の少年が口角を吊り上げる。鮮やかに広がったのは人好きがする爽やかな笑顔だったが、カヤトの胸中に巣食う警戒は追い払われなかった。

「それは遠慮しとく」

「どうして? 僕は僕の名前を気に入ってるんだけど」

 不満げに唇を尖らせる少年には非などない。「イェスレイ」は草原の民においては決して珍しくはない名だ。彼がどことなくカヤトの父に似ているのも、父と同じ名前なのも、全ては偶然か神の悪意によるもので、少年自身の責任には帰せられない。 

「お前がお前の名前をどう思っているかなんて俺には関係ねえし」

 だがカヤトはこれ以上イェスレイに近づきたくはなかった。彼と自分の共通点――細く吊り上がった目。一般的な大陸中部人のものより小柄な体躯と薄い体毛――を見出したくなかった。これが自分と同じ系譜に連なる生き物であると、言うなれば同じ木の別々の枝に実った果実に等しい間柄であると認めたくなかった。

 やるべきことはもう済ませたのだから、さっさとここから出て行ってしまおう。

「じゃ、俺は」

「でも響きがいいでしょ? 春の草原を揺らす風みたいで」

 ぞんざいに紡いだ別れの挨拶は、飄々と軽やかな笑い声に吹き飛ばされた。

「君はどう思う?」

 ――お前がそう思ってんならそれでいいんじゃねえの。

 彫が浅い面をくしゃりと崩す少年をそう突き放すのは簡単なことなのに、できなかった。

「僕たちは父祖の栄光を既に失ったけど、かつては北は冬が巡れば凍り付く大地から南は緑洲オアシスが点在する沙漠まで、東は大洋と接する大陸の果てから西はこの山脈までを支配してたんだ。どんな者にも縛られることなく、自由に馬を駆って」

「何百年前の話を蒸し返すつもりなんだよ。爺の爺も生まれてない時代の昔話に付き合わされるのはごめんだからな」

 カヤトは気づけば、浴場にたむろする他の奴隷や下働きの好奇心を警戒してかひっそりと声を潜めるイェスレイのほど近く――吹き出た汗と蒸気で湿る肌と肌が触れ合うほど近くに肩を寄せていた。

 気だるげに伏せられた目蓋を縁取る睫毛は存外に長く、少年の滑らかな頬に濃い影を落としている。並んで初めて分かったが、イェスレイはカヤトよりも中指の関節二つ分ぐらいは小さかった。冷涼な草原とその北を除く大陸東部の民が元来幼い顔立ちをしているという特徴を差し引いても、イェスレイの面立ちはあどけなさすぎる。

「僕は今でも夢に見るよ。略奪で滅んだ村のことを。命乞いをする母さんと祖母ちゃんとまだ五つにもなっていなかった妹を犯して殺し、弟を踏み殺したやつらのことを」

 ゆえに淡々と吐き出される彼の生い立ちは、より一層悲惨の度合いを際立たせてカヤトに迫った。 

「僕は母さんの言いつけ通り一言も喋らずに物置に隠れていたから無事だった。だけど妹は幼すぎて、何が起こっているのか理解できなかった。腹が減ったと母さんを呼んで扉を開いて出て行ったところを兵士に見つかった。弟も同じ」

 あの頃のカヤトには弟も妹もいなかった。父は酒癖の悪さゆえに両親から勘当された身であり、当然祖父母とも縁遠かった。

「……僕は、助けようとすれば妹たちを助けられたはずなのに、見殺しにした。父さんや祖父ちゃんは僕たちを守るために戦って死んだのに、僕だけが卑怯者だったんだ」

 重なるところなどほとんどない二人の少年を繋ぐのは、自分自身に向ける怒りだった。

 あの時お前は、あんなにも近くにいたのに。泣き叫ぶ彼女に手を差し伸べれば、届いたのかもしれないのに。

 己の怯懦を詰る叫びは、いつまでも鎮まらない。これが他者からの罵りであったならば、耳を塞げばなかったことにできる。しかし、己が裡から響く声から逃れられはしないのだ。母の押し殺した啜り泣きからは。

「後で知ったことだけど、僕の村を滅ぼしたのは、女王の父親と夫――死んだ将軍の軍の脱走兵だったんだ。あいつらは遠征途中に食糧が足りなくなるのを承知で……」

 都には様々な血と過去が集まる。宮廷には戦火によって自由を剥奪された者たちがいると、先王とその友人であった前将軍に捕らえられ奴隷となった者たちがいることぐらい知っていた。それが珍しくもない、ありふれた出来事であることも。

 自分から全てを奪った者の盾となることでしか生存を赦されない日々とは、どのようなものだろう。カヤトはそれを無遠慮に口に出し癒えぬ傷を抉る愚か者にはなれないし、なりたくもなかった。

 目が醒める青色の天井から降った水滴がカヤトの背でのたうつ蚯蚓を撫でる。天気が崩れれば鈍く引き攣れ、血と汗が入り混じった臭気を蘇らせる虫を最初に幼かった少年に植え付けたのは、年輩の奴隷兵であった。しかし、こんなことはやりたくないと顔を顰める彼に鞭を振るわせたのは――

 すっかり冷めているだろう湯に身を浸す者はもちろん、鼻歌交じりに手足の垢を落としていた一人、二人の影すらもすっかり消え失せていた。浴場が閉まる時間は刻々と迫っている。カヤトとイェスレイも、じきに管理員に追い出されるのだろう。

「この際、異教徒だろうと悪魔だろうと何でもいい」

 冷え切った湯を浴びる少年の、短く切りそろえられた毛先が濡れて艶めく。

「僕たち・・はこの都が破壊される様が、この国の民が築き上げてきた全てが再び灰燼に帰す様が欲しいんだ」

 生ぬるい水だけではない何かを啜った黒は、黄金の光を呑みこむ暗澹だった。

「それが、僕が妹たちのためにしてやれるたった一つのことだから」

 ――君だってそうだろう? だって、君は僕たちの同胞なんだから。

 不意に飛び出てきた異郷の――故郷のものと同じ草原の言葉が過ぎ去った刻を呼び戻す。目を閉ざして懐かしい訛りに身を委ねると、カヤトはあの村にいた。万年雪を戴く、白き険しき峰に抱かれた森の泉のほとりに。

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