畑に蒔いたのは良い麦でしたのに、どうして毒麦の穂が生えるのですか Ⅳ
薄暮の夕闇に似た翳りをそこここに残した聖堂の壁に打ち付ける合唱に、女の声が混じってはならない。
神聖なる神の住まいにおいて、女は決して語ってはならない。この世に災厄を齎した罪を自覚し、ただ悔い改め唯一神と救世主の慈悲を希っていれば良いのだと定められているからだ。
常よりも多くの人間が詰めかけた密室では、からりと晴れた空の下においてならばたちまち乾く水滴も乾かない。熟れた小麦色の髪の生え際から滲み項を伝って落ちた汗の冷たさが、少女の祈りを妨げる。反射的にこじ開けられた薄い目蓋。さして長くはないが豊かな睫毛に囲まれた青紫が映すのは、面紗に覆われぼやけた世界だった。
メゼア同様に布を被り髪を隠した女達も、彼女たちの右側に立つ男達も、ひしと目を閉ざして、遙か彼方、もはや神話よりも遠い昔に刑死した救世主の死と犠牲に黙祷を捧げていた。それがこの場でなすべきことだからだ。
採光窓から射す光が、
元来世俗の君主は神によって束の間の地上の支配権を授けられた、いわば「代理人」に過ぎぬ存在ではある。しかしメゼアの眼前に広がるのは、最愛の夫を喪ってもなお、敵対する高官や世襲貴族たちの揶揄や蔑みに晒されてもなお、女王で在り続けようとしているナタツィヤにとってはあまりにも残酷な光景だった。
――あれは美しい良い娘だが、王には向かないだろうよ。
ナタツィヤの父王が生前、娘の夫でもある友人に零していたという苦笑は真実である。数か月前ならば、いくらなんでもそれは娘に厳しすぎるだろう、と微かな反感を募らせていたメゼアも、今となっては先王の眼力を認めざるを得なくなっていた。
甥に対する衝動的な暴力を詫びた直後、精緻な文様が刺繍された腰かけに崩れ落ちた主。彼女を慰めるべく、葡萄酒と菓子を差し出した女官が受け取ったのは労いではなかった。
『……これ、毒は入ってないわよね?』
彼女の幼少期から側にいた、古参の女官に投げかけるには心無い言葉は、あまりにも思慮に欠けていた。長年の忠誠を捧げてきた主から、あそこまであからさまにお前を信用できないのだと告げられたら。メゼアであったら泣き出してしまっていただろう。
あれは本来のナタツィヤではないと、自分自身の内なる声をねじ伏せても、主の狂乱は日々その度合いを深くするばかり。
女王が母方の親類に――山々を越えた北の国の王へ手向けていた、援軍を求める書状。ナタツィヤがその応えに目を落としながら紅い唇が吐き出したのは押し殺した長い吐息だった。
『ねえ、メゼア。あなたはわたくしを見捨てないわよね?』
伸びやかで温かだが硬質な、しいて喩えるならば陶磁器のような輪唱が終わる。仔羊たちは未だ不安の影に覆われた顔もそのままに聖堂を後にする。うねる人波に呑まれたメゼアもまた、否応なく神の祈りの家から出て行かざるを得なくなった。
眩いばかりの陽光に誘われ、腰に巻いた布を取る。日差し避けのために濃い蒼の面紗はそのまま被っていくことにした。父親譲りの金がかった髪を隠せば、メゼアは女王の侍女ではない、どこにでもいるごく普通の娘になる。誰の目も惹かず誰の目にも映らない、凡庸で有り触れた少女に。
宮殿と聖堂を繋ぐ街路に並ぶ種々雑多の商店に飛び交う喧騒は活力を失い、人影も以前よりまばらだった。目を背けるなど赦さぬとばかりに、はっきりと突き付けられた衰退の影は色濃かった。くすんだ緑や茶色の香辛料の山も、
先々代の女王や先の王が君臨していた時代は、大陸中部の華と讃えられ、繁栄を謳歌していた都はすっかり凋落してた。地に堕ち土に塗れた果実は自ずから朽ち果て腐り果てるのか。あるいは異教の兵の跟に踏まれ潰えるのか。
以前ならば買い求めはせずとも、勧められ手に取るぐらいはしていた布地や髪飾りさえも、触れる気にはならなかった。幼い主にこっそり与えていた菓子の素朴な香りも、弾けんばかりの歓声が待っていないのなら意味がない。
銀の髪と灰色の瞳の煌めきが懐かしく、愛おしかった。彼女に会いたくてしかたなかった。
『なんで? メゼアはアマラのにょかん、なんでしょ?』
どうして自分は、大きな目に涙を溜める幼子の手を振りほどいたりしたのだろう。いっしょにきて、と泣き叫ぶ彼女の願いを退けられたのだろう。
――ああ、そうか。
幼い頃、雪が怖いと泣きつけば、母は優しくメゼアを抱きしめてくれた。母は、娘が雪を恐れるのは、父が雪崩に巻き込まれて死したためだと思っていたのだろう。だが、真実は違う。自分が恐れたのは白と銀の凍てついた取り合わせであって、雪そのものではない。
メゼアは母が考えていたような父親思いの娘ではない。顔も見たことがない父の喪失に胸を痛ませるのは、彼を悼み嘆く母の哀しみを想ってのことだった。
まろやかな口元から漏れる自嘲は、空よりも濃い青に遮られふっくらとした頬に跳ね返った。鞣された革靴の先が、宮殿の正門ではなく裏門に向けられていることも、内側で蟠る疚しさを証ている。メゼアはそうしようとすれば臆することなく堂々と入門できる身なのに。これではまるで宝物庫の財宝を狙う盗人だ。
黒々と伸びるかつての神の像の影を避け、ここではないどこかを目指す。本来ならば一刻も早く主の許に戻るべきなのだろうが、恐らく今頃は重臣たちとの軍議が終わったばかりだろう。ナタツィヤは、甥や彼を支持する高官たちの揶揄や嘲りを浴び、追い詰められ憔悴した己を――君主として相応しからぬ姿を人目に晒すことを望んでいない。
命じられても、明確に形にされてもいなくとも、分かるのだ。自分は主に望まれていないのだと。ナタツィヤが望むのは、たった一人の……。
わたしなんかじゃ、姫さまの代わりにはなれない。
麗しい唇から音なく発せられ、暗黙の下に突きつけられる明白な事実は拒絶でもあり、豊かな胸を貫き疼かせる。
俯くと真っ先に入るのは、煩わしいふくらみだった。視界を遮り足元を覚束なくさせるこの脂肪は、メゼアの意思とは裏腹に成長し、ついには持て余すまでになった。亡き母は骨太で大柄でも隙無く引き締まった体躯を誇っていたのに、娘である自分は、どうして。
カヤトも、全体にやわやわとした肉を付けたみっともない身体は嫌いだろう。彼の母は折れんばかりに細く嫋やかな女性だったから。
男は母親に似た女を好きになるらしい、との年嵩の女官の雑談を小耳に挟んだことがある。その時は取り立てて気に留めはしなかったが、メゼアは「彼女」とはあまりにもかけ離れている。容貌は比べ物にならないどころか足元にも及ばない。内面もまた然りだろう。
違う。カヤトは人を見た目で差別なんかしない。
そう判断する資格すら、自分にはないことをメゼアは骨身に染みて理解している。カヤトの苦難を把握しながら知らぬ振りをしたメゼアは、彼がどんな人間であっても、彼を罵る権利も失望する権利も有していない。もちろん、彼は表面はともかく芯は優しい、強く逞しい少年なのだが。
かつてメゼアにもにやついた嗤いを投げかけ
奴隷とは主の所有物であり、主以外の何物も彼らを害する権利を持たない。つまり、カヤトはナタツィヤ以外の人間に服従する義務はなく、ましてや一方的に暴行を加えられる謂れはないのだ。メゼアがナタツィヤにあの醜悪な暴虐を伝えていれば……。
確固たる意志と自我を備えた一人の少年に、お前は君主の所有物だと突き付けなければならないと想像するだけでも鼓動が乱れる。だがメゼアがほんの少しの勇気を出しさえしていれば、カヤトを助けられたはずなのに。
自分は結局我が身可愛さに――ナタツィヤや亡き将軍の不興を買うことを恐れて、彼を見捨てた。カヤトがメゼアを嫌うのは醜い性根を見抜いてのことなのに、どうして父母から分け与えられた外見に責任を擦り付けられたのだろう。カヤトは優しいからメゼアを拒絶しきれなかっただけなのに、どうして数日前の出来事に心を躍らせたりしたのか。彼にもう一度受け入れられたなどと、愚かしいにもほどがある夢を見られたのか。
仰ぎ見た造作は他者の拳も指の痕も腫れもなく、すっきりと整っていた。この地の民にはありえぬ吊り上がった目元の涼やかさを引き立てる、磨き抜かれた一対の柘榴石は鮮やかだった。内側で揺らめく苛烈な炎がゆえにいっそう鮮烈な双眸は、夜闇を舞う蛾を惹きつける松明の炎さながらに人心を惑わせる。
自覚されざる美は要らぬ苦労を惹きつける。だが、虐げられるよりは将軍が逝去してからの方がよほど……。
――わたし、なんてことを。
少女の足を赤らんだ実で枝を撓ませる柘榴の木陰に縫い止めた眩暈は、眩い陽光ではなく、己が醜悪さへ募る怒りから生じたものだった。
たとえ一瞬でも、ナタツィヤの夫でありアマラの父である男の死を肯定しそうになった自分の浅ましさが赦せなかった。遠くから歩み寄ってくる少年たちの一団に、長い灰色の三つ編みを垂らした少年の姿が混じってはいやしないかと、抱えた膝の間から顔を上げてしまったことも。
そこに願った少年の影はなかったが、
「カヤト。あいつなら……」
彼の名が耳に飛び込んできた。
年齢も、髪や瞳の色も様々な少年たちの肩や腕が、生い茂る柘榴の葉を騒めかせる。
「ああ。顔と頭を上手く使わせれば、あの金髪の女から、もしかしたら、」
「でも、どうやってあいつを?」
密やかに交わされたのは、思い起こすのも厭わしい企みだった。
少年たちの喧騒が去った、早すぎる黄昏の闇の中。少女は震える我が身を抱きしめる。
「……はやく、へいか、に」
雑草は放置すれば瞬く間に地中深くまで根を伸ばす。この計画がどれほど奴隷兵の間に蔓延しているかは定かではないが、摘み取るならまだ地上に顔を出したばかりの若芽のうちだ。手早く対処すれば、被害はまだ狭く浅く収まる。
だが、全てが明るみに曝け出されたら、カヤトは――
噛みしめすぎたまろやかな線を描く唇から滴った血が、干からびた口内を喚かせる。胃の腑からこみ上げる嘔吐感を押し戻すために口元に添えた指は、汚泥に塗れて穢れていた。指先が大地を掴んだのがいつなのかは分からない。つまり、メゼアはすっかり我を失っていたのだ。
彼は「それ」には賛同していないのかもしれない。もしかしたら、片鱗すらも把握していないのかもしれない。しかし、もしもでっち上げられて反逆者の汚名を着せられでもしたら。
少女はひたひたと忍び寄る冷たい絶望と砂塵の甘いざらつきを噛みしめる。がりり、とか細い悲鳴を上げて砕けた塊は無垢な桃色の肉に刺さり、吹き出る鉄錆の味で舌の根を強張らせた。
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