畑に蒔いたのは良い麦でしたのに、どうして毒麦の穂が生えるのですか Ⅲ
「ねえ、カヤト」
仄かな薄紅に染まった指先が、痛み擦り切れた長靴の爪先から這い上がる。いかにも白く嫋やかな手から伝わる泡沫の熱は、少年の胸を荒れ狂わせるには十分に温かだった。
神の赦しを乞う罪人のごとく垂れた頭部の髪の分け目は真っ直ぐで、ほつれ毛がかかる首筋は細い。亜麻色の三つ編みが遊ぶ背も、カヤトの筋肉で覆われ引き締まったそれとは比べ物にならない。
メゼアはやはり、カヤトよりも力ない、女という生き物なのだ。なのに自分は、一時のつまらない衝動に駆られて、守ってやるべき彼女に暴力を振るった。乱暴に突き放して、危うく怪我をさせるところだった。
噛みしめた唇から滲むのは鮮血だけではない。亀裂をなぞった舌先に広がるのは鉄錆の不快感ではなく失望と諦観だった。
――俺はやっぱり、あの親父の息子なんだな。
暗く凍てついた感情は口内から胃の腑まで滑り落ち、腹の底を澱ませる。
か細い悲鳴を上げありもしない罪への赦しを乞う母に拳を振り下ろし、所かまわず、それこそカヤトの目の前であってもぼろぼろになった女の衣服を剥ぎ取り、戦慄く肢体にのしかかっていた父。あのけもののようには、己に劣る者を虐げ鬱屈した自意識を満たす情けない男には決してなるまい、と心に刻んだのはまだ奴隷になる前だった。神聖な炉端の前で汚らわしい行為をしてしまったと涙にくれ、遙かなる天上の存在に懺悔する母の背を眺めながら、そう誓ったはずなのに。
父を制止するでもなく母を庇うでもなく、ただそこにいた不甲斐ない息子を抱きしめてくれた母。自分の方がよほど痛くて怖かったはずなのに、カヤトの腫れた頬の赤らみに目を潤ませていた女への罪悪感が形を変えて蘇る。
「あなた、どうしてそんなに怒ってるんです?」
豊かな睫毛に囲まれた濡れた瞳に宿る瞳は悲しげだった。胸を掻き乱す真摯な眼差しから逃れるべく視線を下ろすと、男の目に晒すことを赦される女の肌――曝け出された顔や手よりも白いものが飛び込んできた。捲れ上がった裳裾から覗く脹脛と太腿はむっちりと肉付きが良く、押せば指の痕が残りそうだった。遠い昔に眼裏に焼き付いた女のものとは違って、傷一つ痣一つなく無垢だった。
「教えてください。……わたし、気づかないうちにあなたに何か失礼なことをしましたか?」
肌理細やかな皮膚同様に穢れない少女は、カヤトの視線の先にあるものには気づいていない。カヤトはメゼアの愚鈍なまでの純真さが憎らしかった。
王宮の柘榴の花が盛りの刻を終えていなかった頃のカヤトならば、どうにか無意識の誘惑から逃れられたはずだ。ブスとでもデブとでもなんとでも、適当に少女をあしらい罵って、己が眼前から立ち去らせることができたはずなのに。
切り捨て、重石を付けて深淵に沈めたはずの暗澹はしぶとかった。鋭い爪で鎖をほどき、重い水を掻き分けてひたひたと這い上がる。
――もう、どうなってもいい。
脳裏で渦巻く欲望を気取られぬように素早く身をかがめ、右手で丸い肩を掴む。空いた左で曝け出された素肌を弄ると、少女の身体がびくりと震えた。
「カヤト? わ、わたし別に、どこも痛めてはいませんよ」
ぱちぱちと瞬く双眸には疑惑の影は射していない。どころか、メゼアはカヤトがやろうとしていることを察しようともせずに、微笑んですらいた。カヤトが、メゼアがまた足をくじいたのではないかと危惧して、助け起こそうとしているのではないかとでも思っているのだろう。先程カヤトが彼女を突き飛ばしたのは何らかの偶然か事故によるもので、本意ではなかったのだと。
信じがたいほど純粋だ。いっそ愚かですらある。生まれたての子羊でも、もう少し警戒心を備えている。もしもメゼアが羊だったら、彼女は決して長く生きられはしなかっただろう。狼に怯えぬ羊は、いずれ狼の腹に収まる運命なのだ。
「く、くすぐったいからやめてください」
滑らかな喉からころころと澄んだ鈴の音を鳴らす愚鈍な少女も、脹脛で蠢く指が太腿まで駆け上って、さらにその上の――平らな下腹まで伸びれば、己が置かれた状況を悟るだろう。少女が身じろぎするたびに震える乳房を鷲掴みでもすれば、流石に顔色を変えて助けを呼ぶはずだ。だがその時にはもう手遅れなのだ。
じっとりと湿った膝裏に手を回し少女を抱え上げると、小造りな紅い唇からくぐもった湿り気が漏れた。
「だ、抱っこなんて、してくれなくても大丈夫です!」
途切れ途切れの乱れた吐息を繋ぎ合わせて形になったのは、傲慢ですらある信頼だった。
「わたしはへいきですから、ね?」
メゼアはカヤトの下心を疑わない。男として意識しない。彼女の自分へのゆるぎない確信の基礎がどこにあるのかは分からなかった。カヤトのこれまでの行動には、少女の信を勝ち取るに足る要素など一つもないのに。
カヤトがどこに向かおうとしているかなど考えもしない少女の双眸は夏の夕空の色をしていた。星々の輝きがちりばめられていないのが不思議なくらいの、澄み切った青紫。カヤトはいつだって、己の双眸とは真反対の色彩を宿した、世に二つしかない宝石が欲しくてたまらなかった。
雀斑が散ったちんまりと子供じみた鼻も、ぽってりとした唇も、この世でただ一人のメゼアを構成しているからこそ魅力的に映る。彼女を自分から遠ざけるために紡ぎ続けた嘘を、これからも貫き通せるかどうか不安で仕方がなかった。
「ねえ、カヤト」
少女が首を傾げると、いつかよりも薄らいだ香油の匂いに混じって、少女本来の甘い皮膚の香りが立ち昇った。この香りをもっと――飽きるまで、搾りたての乳の皮膚から直接嗅いでみたかった。
「それよりもあなた、さっきは本当に大丈夫でしたか?」
「……うるせえな。ほんとに何もなかったんだよ」
一刻も早く瘡蓋で塞いでなかったことにしたい傷口をほじくり返し、あまつさえ塩を塗り込む煩わしい口を塞いでしまいたかった。そうするためには、どかか人気のない場所に行かなくてはならない。少女が甲高い悲鳴を上げて泣き叫んでも誰も気づかない、しんと静まり返った場所に。メゼアと二人きりになれる、自分たちだけに与えられたどこかに。
広大な宮殿には、式典の折以外には放って置かれる部屋もないではないが、油断はできない。塀の外に広がる雑踏は、禁じられた行為に及ぶには賑やかすぎる。ならばその先の、遙かなる異端時代には鬱蒼と茂る森に覆われていたと伝えられる周縁部ならばどうだろう。
質素な民家が散在する都市と農村の境界線。カヤトが気まぐれに足を運ぶ泉の近くには洞窟がある。いつもしっとりと湿った肌を露出させた岩盤の褥は固すぎるだろうが、昨夜の夢のメゼアのように、砂利や落ちた木の枝で手足に擦過傷を拵えさせるよりはましだろう。
踏みしめれば煩わしく擦れる砂利を避け、密生した青草に二人分の体重を預ける。
「……カヤト? あの、わたしの部屋はそちらには……」
「少し黙ってろ」
きょとんと丸められた瞳には見覚えがあった。こんな顔をしたメゼアを、夢の中で何度も見下ろしていたから。
数年前から繰り返し、もういい加減にしてくれと叫びたくなるほどに突き付けられる夢の細部は、必ずしも一致していない。少女が自分から離れる理由も様々だったが、「母の故郷に帰って結婚するため」というものが一番多かった。メゼアはそろそろ、彼女の母方の一族を束ねる山の民の長老が選んだ、然るべき夫と娶せられても可笑しくはない年頃だ。だからあんな夢を見てしまうのだろう。
幻にしてはひどく生々しい光景は、いつもメゼアの寂しげな微笑みから始まる。彼女はあるべき場所に帰る前に、ご丁寧にもカヤトに別れの挨拶を述べに来たのだ。そしてカヤトは定められた伴侶への愛を語る少女の腕を掴んで、父と同じけものになり下がる道を選ぶのだ。何度でも、何度でも。穢された我が身を恥じて少女が泉に身を投げても。隠し持っていた懐剣で喉を突いて自害しても。
ぬくもりを喪った亡骸を溢れる悔恨と自責ごと抱きしめ、その冷たさに慄くと悪夢も終わる。飛び起きたカヤトは、忌まわしい情景が現実のものでなかったことに安堵するのだ。
「……さっきは、悪かった」
カヤトが詫びなければならないのは、先程の非礼だけではない。遠い昔に犯した罪も、これから犯す罪も、謝って赦される代物ではない。償おうにも償いきれない、命で購うことすらできない悪行なのだ。
「べつに、いいんですよ。ね、それよりもう……」
知り合いの女官の顔を見つけたから降ろして、ともがく少女の抵抗を封じるのは簡単だった。
「メゼア」
彼女の名をまともに呼んだのは、それこそ九年振りだった。とうに舌は忘れていた、しかし片時も心から離れなかった単語は、異国の楽の音に等しかった。美しく響くが、耳には馴染まない。
「お前は、どうしてそう簡単に俺を赦す?」
「……わたしは、あなたにもっとひどいことをしていたから」
小鳥の囀りめいた軽やかな笑い声と細い手が、肉が薄い頬を撫でる。カヤトが幾度となく殺してきた少女の掌はしっとりと温かかった。
カヤトがメゼアに。ではなく、メゼアがカヤトに。その意味は計り切れなかった。
「はあ?」
驚愕と疑念が少年の声を荒げさせる。罵りに近しい問いに応えるのは、告解めいた自嘲だった。
「私は、あなたみたいに強くないから。あの頃からなにも変わらない、弱くて、卑怯な人間だから。だから……」
もういいんです。ありがとう、カヤト。
少女が儚い微笑を残して少年の腕の中からすり抜けたのは、未熟な実りを垂らした柘榴の樹の前だった。
熱を孕んだ風の匂いも緑も匂いも、カヤトを包む全ては故郷の村のものとは似て異なるのに、さやさやと擦れる楢の葉の合間から零れる黄金だけは変わらない。
「メゼア」
カヤトに背を向けて走り去る少女を呼び止めても、彼女は立ち止まってくれなかった。それも九年前と同じだった。
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