畑に蒔いたのは良い麦でしたのに、どうして毒麦の穂が生えるのですか Ⅱ

 獣めいた犬歯が丁子と脂の香気を突き破る。白葡萄酒とすりおろした玉葱の汁に一晩付け込まれた串焼きシャシリクは柔らかで、芳しい五つの塊がなくなるのは一瞬だった。もう一本の、黄金の雫を滴らせる串と乾酪チーズを芳しい麺麭で挟む。迸る汁を啜ってふやけた麺麭パンは舌の上で蕩け、凝縮された乳の滋味は、肉の旨みを殺すことなく引き立てていた。

 少年は淡く血の色が刷かれた薄い唇を手の甲で拭い、口内を乾きひりつかせる塩と香辛料を杯の水で押し流す。胃は未だに満足を知らないが、奴隷兵一人に与えられる食事は――肉は平らげてしまっている。

 主役を失った皿の上に居心地悪げに鎮座していた凝乳とほうれん草の和え物サラダと胡桃の酢漬けでは、飢えた腹の虫は納得しなかった。薄っぺらな草と木の実など、ともすれば茶の一色に染まりがちな皿に彩りを添える以外には役に立たない。ないよりはましだが、あんなものを付けられるぐらいなら屑肉の欠片でも添えられていた方が幾分かましだ。カヤトは羊や山羊ではないのだから、草を差し出されてもありがたくもなんともない。 

 片手の指の数は超える歳月を共にしているはずなのに、見知らぬ顔に埋め尽くされた、少年たちの汗と体臭と怒号が渦巻く食堂は、お世辞にも居心地が良いとは言えないのに去りがたい。

 何とはなしに、品性の欠片もない耳障りな咀嚼音の源を辿る。

「なあ、聞いたか?」

「聞いたに決まってるだろ。どうせ、イングメレディ公のお怪我のことだろ?」

 カヤトの眼前で、背後で、左右でひっきりなしに交わされるのは、半刻前に己もその一端を目撃した事件のあらましだった。

「陛下が、こういう水差しを、こうやって……」

「ごっちーん、だろ?」

 神聖であるはずの議場から生まれた流言は既に様々な口を介して流布される過程で歪められ、偽りの面紗ベールを被せられている。けれども奇妙なことに、もっとも重要な真実だけは虚飾で飾り立てられていなかった。

「軽傷で済んだらしいけど、打ち所が悪かったら死んでるよな」

「だから公の奴隷も黙ってられなかったんだろ。――“謝罪を要求します、女王陛下”だって。奴隷が陛下相手によく言えたもんだよ」

 たとえ一時の衝動に駆られた末の行いであったとしても、女王が甥の殺害を目論んだという事実は変わらない。

「ご自分はろくに馬にも乗れないのに、イングメレディ公が死んだら次の将軍と王をどうするつもりだったんだろうな」

 普段の冬眠中の熊のような鷹揚さをかなぐり捨て、彼にしては剣呑な調子で――あるいは、宿舎にいる際の穏やかさこそが仮面であったのかもしれないが――女王の無思慮を非難する少年はカヤトが知るエドヴィセではなかった。

 大きな目と大きな口、鋭い鷲鼻をした少年たちの面立ちはいずれも似通っていて、カヤトにはエドヴィセ以外は誰が誰だか見分けがつかない。ポズホル人も、他の集団にとっては皆同じような顔をしているのだろうが。

 カヤトの右斜め前を陣取る少年たちの目は細く吊り上がっていた。カヤトよりも更に細い、ほとんど糸のような目をした者もいる。けれどもその奇妙な眦は、純粋な草原の血統を受け継いだ彼らの彫が浅い顔には違和感なく溶け込んでいた。

 あるべきものがあるべきところにあるという調和。北方生まれの母の彫が深い造作に、父譲りの切れ長の双眸を納めたカヤトの面には「それ」が欠けているから、酷く悪目立ちしてしまうのだ。

 押し出した吐息が空になった杯を曇らせる。

 ――いい加減に戻らなければ。もうここにはいられない。

 汚れた皿もそのままに立ち上がる少年の背を、低い低い罵りが追いかけてきた。

「もしもそうなったら、次の将軍はお付きの古狐たちか狐爺の息子の誰かで、次の王はアマラ殿下になるに決まってる。その上、陛下に“もしも”があったら、俺たちは三歳のガキに命を握られることになる……」

 冗談じゃねえ、と吐き捨てたのは誰だったのか。それを詮索する者は、少年たちの思惑がひしめき合う食堂にはいなかった。

 朧ながらに聞き覚えがある単語を交えて談笑する彼らの警戒を緩めているのは、相応に趣向が凝らされた料理ではない。

 父祖から伝えられた血潮と歴史を共有する同胞と共にいるという安心感。自分は独りではないのだという確信。ごくありふれた調味料は、残念ながら宮廷の厨房には備えられてはいなかった。遙かなる異国の大地が産する香辛料は、所詮塩には敵わないのだ。

 血と塩は似ている。どちらも健康を保つには欠かせないのに、過ぎれば毒と化す。多量の塩は病を招き、はやる血気は死を招くのだ。

 ――いつ誰にチクられるか分かったもんじゃねえのに、呑気なやつだな。

 少年たちの思惑が交錯する食堂には、亡き前将軍を慕うネミル人たちもいる。凋落著しい彼らの、自らの勢力を回復させるために宮廷のあちこちを這い回る姿は、宮殿の新たな名物となりつつあった。

 憔悴する女王の耳に粉飾し捻じ曲げた事実を吹き込む彼らならば、小さな不満の芽からおどろおどろしく繁茂する反乱の藪を育て上げるのも可能だろう。亡夫の同胞を自分に残された最後の忠実なる僕だと信ずる女王は、高官たちへの相談もなしに独断で謀反・・を企んだ奴隷兵を粛清する命を下しかねない。また、居並ぶネミル人たちの面にはいずれも凄まじい影が落ちているのに、双眸は追い詰められた獣のみが宿すことのできる炎でぎらついていた。

 エドヴィセの身の安全を考慮するならば、そっと忠告してやるべきなのかもしれない。ここは俺たちの部屋ではないのだから、もう少し言葉を選べ、と。しかし結局、カヤトとエドヴィセは祖を共有しない民だった。エドヴィセやニコがカヤトの窮地を把握しながら捨て置いたように、カヤトはエドヴィセを助けない。

 一瞥をくれてやることすら腹立たしい面影が混じる一団は、飢えた野獣の群れを人間と隔離する扉の前に陣取っている。余計な面倒に巻き込まれては厄介なのでできれば近寄りたくないが、仕方ない。

 細心の注意を払って気配を殺し、頑なに押し黙る少年たちの傍らを通り過ぎる。彼らのくっきりと大きな目に灯る炎の糧は羨望と憎悪だった。その出自ゆえに新たな飼い主に疎まれる彼らは、上手く画策して取り入った者が妬ましくてならないのだろう。宮廷に囲われた羊たちにとっては、すぐ側の丘まで迫った狼の群れの脅威よりも、同種の敵をいかに出し抜くかこそが重要なのだ。

 そして国の存亡を賭けた危機を利用してでも己が保身と地位の向上を計るのは奴隷たちだけではない。むしろそれは、宮廷に数多侍る官吏や世襲貴族の領分にこそ属する仕事だった。

 午後の光に照らされた回廊に落ちる闇は、幾つもの影が交わり重なるがゆえに色濃い。

「公。今一度我が娘と」

「わたくしの娘などは、伝え聞いた公の武勇に恋い焦がれ、夜も眠れぬ有様で……」

「私の娘は、親の欲目を抜いても従順で淑やかな、美しい娘です。きっと公もお気に召されるでしょう」

 豪奢に着飾った壮年の男達の皮膚は、滲み出た脂肪ではない何かによってぎらついている。

「まあ、待て。そう一度に捲し立てるな」

 対照的に、カヤトの頭一つ分ほど上にある頭に痛ましく包帯を巻いた青年の面は蒼ざめ、土気色をしていた。

「お稚児遊びも結構でございますが、いつ此度のような災難に遭われるか分かりません。万一の事態に備え、偉大なる血を受け継ぐ次代を儲けるのも、高貴なる者の務めにございます」

「しかし、なあ。そなたらの令嬢は皆それぞれに魅力的で、とてもただ一人には絞り切れない」

 のらりくらりと言葉を重ねる青年の声は、隠すつもりのない退屈と疲労でひび割れていた。額をかち割られて一刻も経たぬうちに、雁首揃えたむさくるしい連中に責め立てられては、溜息の一つも吐き出したくなるだろう。一度は治まっていた疼きがぶり返しもするだろう。ついでに、居室に戻るまで少し肩を貸してくれ、と飛び出してきた少年奴隷を呼び止めたくもなるのかもしれない。

「少々、頭痛がぶり返した。この話はまたの機会にしよう」

 次なる王が包帯に手を当てて短く呻くと、いずれも名の知られた世襲貴族たちは悪戯が露呈した幼子よりも素早く退散した。

 少年の肩から染み渡るのは、怪我人にしては力強い、剣を扱う者だけが纏う皮膚の硬さだった。

「お前と顔を合わせるのは二度目だが、少しの間に逞しくなったな。背丈も、顔も」

「左様でございますか」

「そして相変わらずつれないな。口説く楽しみが増えたとも言えるが」  

 細い顎を持ち上げる指先が喚起する嫌悪をねじ伏せろと、ともすれば主であるはずのカヤトの意思すら跳ね除ける腕に言い聞かせる。しばしの辛抱なのだから耐えろ、と。

 吊り上がった眦を、仄かに色づいた薄い唇が描く緩やかな曲線をなぞり、鎖骨の整った形を確かめる指先は無遠慮ですらあったが、温かかった。この男が発する熱と光に魅せられ、身も心も捧げる者がいるのももっともだ、と得心がゆくぐらいには。

 だがカヤトが心惹かれるのは筋肉と直線で構成された面白みのない四肢ではなく、柔らかな肉と曲線で成り立つ丸っこい身体なのだ。例えば、雀斑が散った顔のあどけなさを驚愕の表情によって際立たせている少女のように、年の割に豊満なふくらみと腰を備えた――

「あ、あの、イングメレディ公」

 忙しげに瞬きをしてこちらを見やる少女の髪は金がかった亜麻色をしている。光に透かせば熟れた小麦の艶を放つ三つ編みの持ち主は、メゼアでしかありえない。

「へいかが、ナタツィヤさまが、および、で……」

「そうか」

 どうして、なぜこいつが、こんな所に、こんな時に。その理由は既に明らかにされている。恐らく女王は正式に甥に詫びるために、女官に彼を探させたのだろう。たまたまその命を受けたのがメゼアだったのだろう。本当に、ただそれだけなのだ。些細な偶然の積み重ねが、神の悪意すら感じさせる結果を導いただけで。

 心の奥底の脆い部分を削り取り磨滅させるぬくもりから解放されたのは素直に喜ばしいのに、ちっとも喜べない。

「あ、あの、カヤト」

 メゼアが立っていた角度からはそういう・・・・光景としか映らなかったのだろう。だから彼女は、惜しみもせずに己が持ち物を差し出すのだ。

「これ、良かったら使ってください。返さなくてもいいですから」 

 手巾ハンカチは清潔で、可愛らしい刺繍が施されていた。今にも羽ばたかんばかりに精緻に刺された黄金の鳥が啄むのは赤い林檎かカヤトの矜持か。

「気色悪い想像してんじゃねえ。何もかも余計な世話だ」

 か細い指先を払いのけると、華奢な肩がびくりと震えた。それでも彼女は、立ち去ろうとしたカヤトの腕を抱きしめて離さなかった。

「でも、いやだったでしょう?」

 二の腕に押し付けられた、布越しに伝わる丸みは予想以上に柔らかで。ずぶずぶと蕩ける理性を駆逐する衝動が囁く。このままこの少女をどこかに連れ込んで、腹の底に溜った澱みをぶつけてしまえば良いのだと。そうすれば、この凍てついた蟠りは融け消えて、カヤトは少しは楽になれる。

 ――それはあまりに浅ましく、おぞましい願いだった。

「やめろって言ってんだろ!」

「きゃ、」 

 力づくで滾る欲望から少女を引き離す。尻もちをついて倒れ込んだ少女は、呆然とカヤトを見上げていた。ひたとこちらを注視する、差し伸べられる手を信じて疑わない目は眩かった。

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