畑に蒔いたのは良い麦でしたのに、どうして毒麦の穂が生えるのですか Ⅰ

 炎熱に炙られ朽ち果てる朱の花弁が放つ甘酸っぱい腐臭も、厳めしい扉の内側には届かない。生い茂る葉の影に潜む実は未だ固く小さく、乳色がかった翠をしている。父が売り払った父祖伝来の――遙かなる東の果ての職人の手による、恰幅の良い老人を象った翡翠の置物は、ちょどあのような色をしていた。力への憧憬と好奇心に駆られ、悪戯に手に取った太刀の柄に巻かれていた紐に通されていた珠も。

 ぶつければかちりと涼しげに啼いたあの二顆もまた、カヤトや母と同様に売り払われ、どこぞの金持ちの倉に行き着いたのだろう。酒と女以外の一切の娯楽を解せぬ男の手元にあるよりはよい、と刀も喜んでいるに違いない。

 僅かながらに父との繋がりが保たれていた幼い頃は、あの太刀はいずれ自分のものになるのだろうと信じて疑っていなかった。カヤトは女奴隷の息子ではあっても父の唯一の子なのだし、父は母以外の女を側に置いていなかったのだから。父は、己の所持する女奴隷が近隣でもっとも美しい――言い換えれば価値がある女であることに満足し、一年に一度か二度は彼女を妻として扱っていた。だから母は最後の最後まであの男の下から逃れられなかったのだ。

 触れれば折れそうな華奢な足首を縛めていたのはカヤトでも暴力でもなく、思い出したように与えられる、気まぐれな優しさであったのかもしれない。そしてついに鎖から解き放たれた母は――

 この季節が巡れば必ず脳裏に蘇る幻影。母の笑顔。幸福な女の、幸福そのものの微笑み。

 引き締まった胸の奥を締め付け疼かせる影を断ち切るべく伸ばした手が掴んだのは、当然のことながらあの懐かしい太刀ではなくて。隆起し、縦横にうっすらとした線が奔る腹部に締めた帯から下がるのは、大陸中南部伝統の湾刀と短剣なのだ。遙か昔の実態を伴わぬ部位の痛みは、うつつの鋼の冷たさで追い払う。

 王と高官が集う議場の門の前で謂われなく剣を振るえば、鞭打ち程度の罰で済むはずがない。最良の場合でも狂気をきたしたとして宮廷から打ち捨てられ、最悪の場合は謀反を疑われて処刑される。どちらにしても、行く末に待ち受けているのは死。馬鹿げた暴挙を犯さずとも、結果はさして変わらないのだ。

 庭園を彩る果樹の時を進め、たわわに実をつけた一枝を手折って張り付けたかのような柘榴の紋をそっと仰ぐ。耳を澄まさずとも扉の隙間から這い出て来る声のほとんどは女のものだった。

「そなたは手ぬるいのです」

 華やかな容姿に相応しく、妙なる楽の音さながらに心地良いはずの女王の声は張りつめている。いっそ耳障りですらあった。

「この期に及んで和平を蒸し返すなど。――そなたはあの蛮族共に、父祖の栄光を穢させると言うのですか? ……お祖母さまとお父さまが築き上げた我らの誇りを、がらくた同然に放り捨てよ、と?」

「しかし、我らが生き延びるためには、和平という選択肢は捨ててはならなかった」

 焦燥と不安が揺らめく糾弾への応えは硬質であっても静謐で、決して不愉快には響かないのに。

「叔母上、貴女は矛盾しております。徹底抗戦を叫びながら、将たる私に全軍を預けない。これでは、勝てる戦も勝てませぬよ」

 やんわりと紡がれた反論は、街路で手足を振り上げてむずがる幼子に寄こすものであり、とうに成人し娘をも儲けた支配者に手向けるものではなかった

 僅かばかりの柘榴の花が庭園を彩っていた七日前。派遣した大軍の無残な敗北の報を受けて以来、ナタツィヤが平静を失いつつあることはもはや周知の事実だった。「アマラが寂しがっているような気がする」とろくに馬も駆れぬ身で、縋りつく女官を突き飛ばしてまで、雪深い山々に隔てられたカプサジに赴こうとする女王。もはやこの世にいない誰かに助けを求める青は虚ろに彷徨うばかりで、焦点が定まらぬ瞳は幽鬼じみた狂気の片鱗を覗かせもしていた。

 美しい女の狂気は怖気を通り越して戦慄を呼び起こす。宮廷の官吏たちはナタツィヤを恐れ、いつしか本来は次代の王に過ぎぬマナゼの許に集まるようになっていた。けれどもマナゼもまた唯一絶対の権力を掌握する立場にはなく、女王の承認がなければ一兵たりとて思いのままに操ることはままならない。

「ならば、宮中にたむろするそなたの私兵を前線に送ればよいのです。未だ安全な都に回す兵力があるのなら、奪われた父祖の地の奪還に当てなさい」

「私とて命が惜しい。我が身を守るための私兵を幾らか侍らせる我儘ぐらい、お許ししてくださらなければ」

「――“命が惜しい”? そなたもしや、わたくしが薄汚い手を使ってそなたを闇に葬ろうと目論んでいるとでも……?」

「叔母上はともかく、ネミル人貴族や官吏は私の死を願っておりますから。信心深く慈悲深いネミル人は、アマラの即位の最大の障害である私に神の楽園に赴く名誉を与えるためには、どんな苦労も厭いませんよ」

「マナゼ!」

 ナタツィヤはマナゼの人望を、マナゼはナタツィヤの地位を。

 互いに己にない物を求めるがゆえに、年が近い叔母と甥の争いはいつまでも止まらなかった。

「……わたくしからアスランを奪った悪魔の同胞を神聖な議場にまで連れ込むお前から、そのような讒言を受けるなんて考えもしなかったわ」

「肌が白かろうが黒かろうが美しい者は美しいし、有能な者は有能だ。私はむしろ、亡き前将軍の同胞というだけであのような穀潰しを側に置く叔母上の正気を疑いますよ」

 いかにも口惜しげに唇を噛みしめているであろう女が即位する以前に植えつけられ、地中で深く根を伸ばしていた不和が芽吹く。長い長い休眠期を終え、目覚ましい勢いで葉を広げる諍い。土壌の養分と真夏の光を吸い取る騒乱はいずれ最後の審判の情景が描かれた天井画を突き破り、ペテルデ全土を覆うまでに繁茂するだろう。そして、過去幾度となく繰り返されたように、異民族が放った炎によって王国ごと焼き払われてしまうのかもしれない。

「陛下? 陛下! 何をなさるおつもりで、」

 硬く丸みを帯びた何か――恐らくは真鍮製の、清らかな水を湛えた器が倒れ転がっているとしか判断できない騒音が、控えめな制止を遮った。

「……仕方ない。行くぞ」

 カヤトは共に議場の護衛を務める名も知らぬ年上の少年の後を追い、高官たちのしゃがれ、野太い悲鳴や憶えのある青年の不安げな叫びが飛び交う広間に足を踏み入れる。

 旬の果実や菓子が盛られた卓を挟んで対峙する女と男。彼女の華の顔は死人よりも蒼ざめて見えた。今しがた犯された過ちが自分のものであることが信じられぬとでも言いたげに。

 対照的に、愕然と目を見開く女を眺める男は平静を保っている。癖のある毛先から紅蓮が混じる水滴を滴らせているのに。

「此度の暴挙、わたしを始めとする皆さまが、そして唯一神が、己が眼でしかと見届けました」

 白い肌に囲まれているがゆえになおいっそう異質さが際立つ褐色の肌の青年が、騒々しい歩みを止めた杯を拾い上げる。

「一歩間違えば我が主を死に追いやっていたやもしれぬ狼藉、貴女さまはどのように弁明なさるおつもりですか?」

「……あ」

「――答えてください、女王陛下!」

 闇夜の如き双眸に滲むのは紛れもない怒気だった。

 しがない奴隷を一国の主に立ち向かわせる感情とは何か。そしてそれは、カヤトをも含む奴隷兵の胸の裡にも宿っているのか――その答えは考えるまでもく瞬時に導きだされた。

 奴隷兵たちは、己が命を投げ出しても惜しまぬほどにはこの飼い主を慕ってはいないし、ましてや愛してもいない。憔悴し打ち震える麗しの貴人などよりも、己が身が可愛い。血縁でも友人でもない女と女の国のために、どうして自分たちが傷を負い血を流さねばならないのか。どうせここには、己が手を必要とする誰かなどいないのに。 

 騒ぎを聞きつけ駆けつけてきた奴隷たち皆が共有したであろう未練が、一旦は剣に伸びた手を抑える。女王と奴隷、そのどちらに正義があるのか。それもまたあまりに明白だった。

「……陛下。イングメレディ公に謝罪を」

「此度の件は、貴女さまに非がございます」

「君主としてあるべき姿を我らにお示しくださいませ」 

 口々に女王を責め立てる高官たちの輪には、ナタツィヤの腹心の姿すらあった。

「陛下。偉大なる御父君のご息女として恥じぬ姿を」

 陛下。陛下。陛下。

 喧しい調和を奏でる一団を制したのは、血を滴らせる逞しい指先だった。

「――良い、お前たち」

「ですが、」

「気持ちはありがたいが、傷はそう深くない。派手に出血しているだけだから、徒に事を荒立てるな」 

 青年は前髪を掻き分け己が奴隷に微笑む。  

「ほら、見てみろ。大したことはないだろう?」

「……マナゼさま」

 鷹揚な言葉とは裏腹に、金属の杯が直撃したマナゼの額は痛々しく腫れあがっていた。褐色の肌の青年だけでなく、事の次第を見守っていた少年たちに、新たな将への多大な同情と女王への反感を植え付ける程度には。

「宮廷医の許に参りましょう。一刻も早く処置を施さねば。尊顔が損なわれては大事です」

「一つ二つの傷ぐらいどうってことない。むしろ、男ぶりが上がっていいと思うがなあ」

「マナゼさま!」

 主の軽口を嗜める青年の口調は柔らかなのに、眼差しは氷柱よりも鋭く凍てついている。燃える黒曜石の眼がねめつけるのは、無論この場の誰よりも豪奢に着飾った女で。

「叔母上」

 採光窓から差し込む陽光を浴びた青年の面は蒼ざめているが、双眸の輝きは変わらない。

「……そもそも、開戦を決めたのは貴女の独断だ。皇帝との結婚話に逆上した貴女の決断が、我が領地イングメレディの荒廃と数多の奴隷兵の死を招いた。――それだけは弁えてもらわねば、死した兵たちも浮かばれませぬよ」

 しかし光の色した女王の黄金の髪は陰に覆われていてどこか暗く――澱みを纏って観衆の目に映った。

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