善き永眠者のための奉神礼 Ⅲ

 音楽的なまでにゆったりとした――けれども力強い異国の言語が、時折耳慣れぬ訛りが混じりはするが流暢な、メゼアの耳にも馴染んだ響きに置き換えられる。

「では、どうあっても和平はならぬと申すのですか?」

 海峡を越えた西の異教徒の国からの使者を携えて宮廷に訪れた、もはや亡い隣国の高官は大陸中南部ナスラキヤの民ではなくなっていた。頭に巻きつけられた見慣れぬ布も、眩暈を覚えるほどに細やかな緋色の唐草に覆われた黒衣も、不必要にへりくだる彼に似合っているとは言い難かったけれど。血の気の引いた顔を冷や汗で濡らす男の体躯はそれなりであるはずだが、服を着ているというよりも服に着られている印象は拭いきれない。

 その点、彼の前に立つ痩せぎすの男は、今にも卒倒せんばかりの男よりも豪奢な衣服をきちんと着こなしていた。

 ひょろひょろとした体躯に血色の悪い顔、飢えた野良猫のように吊り上がった剣呑な目つきの男の容姿は、皇帝の即位前からの腹心という肩書に反して平凡で、いっそ貧相ですらあるのに。端々に東方の面影が垣間見える造作も白い肌も、一般的なナスラキヤ人と大差ないものなのに。

 唯一なる神を捨てた唾棄すべき背教者に投げかけられる眼差しは鋭さを増すばかりで。己より年若く小さな男の影に隠れんと身を縮める壮年の男の姿は、いっそ道化じみてもいる。

 生命の樹の文様が織り込まれた絨毯を、居並ぶペテルデのこれまた辟易とするほどに着飾った高官たちを、先代の王がとりわけ愛した玉座に坐し睥睨する女王をも路傍の石のように眺める男。彼の舌が紡いだ音色は、メゼアたちにとっては意味を成さない。その逆もまた然り、だ。

「しょ、承知いたしました。サリク殿」

 けれども豊かに蓄えた口髭がどこか滑稽な男にとっては、怒れる神からの啓示に等しいらしかった。もごもごとまごつく口元を責め立てる蔑みは、彼を守るために控えるカハクーフの奴隷軍人たちからも発せられている。胆力を備えぬ男が無言の圧力に屈するのは早かった。

「……あ、新たなる我が君スィハーク陛下は、寛大でいらっしゃる」

「それはそなたの恰好から言われずとも察せられます。前に顔を合わせた時分は宰相の補佐役の一人にすぎなかった貴方が、短い間に随分な身分になったものね」

 紅を乗せずとも赤い唇から飛び出したのは、冷え冷えと凍てついた嘲り。美しいが冷ややかな、磨き抜かれた紅玉のような。

「無用な殺戮を厭い、然るべき税を納めれば、我らの神を崇めることすら赦してくださる」

「……そう。それは本当にお優しいことね」

「ええ。まさしく神のように慈悲深く偉大な……」

「それなのに貴方は、唯一神と同胞を捨て、紛い物の神の下に走ったというの?」

 メゼアが知る――不敬に当たるとして口には出さずとも、姉のように想い慕い、忠誠を捧げてきたナタツィヤは女王ではなかった。娘を愛し夫を愛し民草を愛する、慈悲深い母。華やかで朗らかで麗しい、自分にはない魅力に恵まれた、理想の偶像。それこそが、メゼアが――ナタツィヤの亡き父や夫をも含むペテルデの民が女王に求め押し付けた姿だったのだ。

 夫を喪い、幼い娘を避暑の名目の下遠いカプサジ地方に避難させたナタツィヤが、支配者たらんとして振る舞おうとすればするほど、人心は離れていく。これまでほとんどを宰相たちに一任していた国議に出席し真意を述べれば、陰で蔑まれる。

 お飾りの小娘が要らぬ口を叩くな。自分の力量を弁え、これまで通りおとなしく玉座に座っていればよいものを。

 ある官吏が吐き捨てた暴言の一端は、父の威光や夫の手腕に甘えていたナタツィヤに帰せられるのかもしれない。けれど、全ての罪を彼女に被せてしまうのはあまりに酷だ。

 だって、主は慣れぬ国政を担おうと、女王としてあるべく威厳を演出しようと努力しているのに。

 貴石が嵌めこまれた肘掛けに乗せられた主君の指先は細かく震えていた。普段は仄かな薔薇色に染まっている真珠の頬は、叩いた白粉では誤魔化しきれぬほどに蒼ざめている。

 ――どうしてこの男の目は、こんなにも冷たいのだろう。だって、陛下はこんなにお美しいのに。

 雨に打たれた大輪の薔薇のごとき美女の憂いを前にしても、一切揺るがぬ異国の男に対する憤りが柔らかな胸元で蟠る。

 宮廷中の敵意を浴びる男の面からは一切の感情が読み取れない。ただ平然と、時折無感動な一瞥を投げかけるばかりで。

 見知った少年の瞳に宿る、僅かに紫を帯びた芳醇な紅とはまた異なる純粋な赤に貫かれると、禽獣を通り越して呂畑に生える雑草か何かの、酷くつまらないものになったような気分になる。

 傲慢なまでの無関心。サリクと呼ばれた男の、主の名を口にする際以外は灯らぬ熱こそが、「こちら」の反感を煽る最大の要因だった。彼がほんの僅かでも、傍らの男の怯懦と動揺を纏ってくれれば。憤激を押し殺す高官たちの溜飲も少しは下がっただろうに。

「し、しかしサリク殿。それは……」

 あたふたと逡巡する男の大げさな身振り手振りに焦燥を募らせるのはペテルデ人だけではなかったらしい。もっとも、彼らの苛立ちは、首尾よく立ち回り生き延びた者への嫉妬と憧憬を多分に含んでもいるが。

「……」

 サリクが鋭い目を不穏に光らせ何事かを発すると、背教者の背が戦慄いた。

 厚い布地越しにも容易にそれと分かる震えの源は何か。答えは、すぐに強張る舌に乗せて告げられた。

「ナタツィヤさま。貴女は望めば陛下のご夫人の列に加わり、一切の気苦労からも責務からも解き放たれた、何不自由のない生活を送ることも可能なのです。お美しい貴女には、重責ではなく安楽こそが相応しい」

 王の位から退き、国ごと異教徒の皇帝に嫁げ。

 無礼極まる要求は、謙遜と共に述べられたからこそ受け入れがたかった。

 ――御夫君を亡くしたばかりの陛下に、あんまりだ。

 カハクーフでは何人もの妻を娶り、おまけに女奴隷を囲うことが公然と認められている。それは彼の地の男にとっては至極当然の振る舞いなのだと説明されても、一夫一妻を定めた神に従う唯一神教徒の目には、どうしてもふしだらに、言い換えれば汚らしく映ってしまうのだ。たった一人の男が、自らの欲望を満たすためだけに数多の女から自由を奪い、不幸にするなんて。

 例えば唯一神を受容し神の名を語る悪魔たちを捨てさる以前の、メゼアの父の祖国では、君主は幾人もの妃を持つことができたらしい。しかしそれは五百年以上も前のことなのに。カハクーフは未だ野蛮と残忍の二つ名で恐れられる獰猛な北方の民すら捨て去った、遅れた風習が根付く国なのだ。

 不敬の徒の巣窟に放り込まれれば、ナタツィヤはきっと生きてはいけない。いや、むしろ自ら命を絶とうとするかもしれなかった。

 堪えきれない憐れみを込めて仰いだ主君の、華奢で嫋やかな肩から指先までの震えが、彼女の心情を現している。ナタツィヤもまたこのおぞましい申し出に憤慨しているのだ。

「貴女さまの姫君は陛下の宮廷にて皇女がたの姉妹として友人として、貴婦人に相応しい教育を授けられ、ゆくゆくは然るべき殿方の妻となられるでしょう。陛下は妻となられる貴女のお子を、我が子同然に愛おしまれるでしょう。――雪の他には何もない鄙びた貧村と、あらゆる栄華が集う神の楽園にも匹敵する宮殿。どちらが姫君の養育に相応しい場かは、聡明な貴女ならばご理解していただけるかと存じます」

 それが許されるのならば、メゼアは母の大切な故郷を貶める男に掴みかかってだらしなくたるんだ頬を打擲したかった。行ったこともないくせに、雪だらけの貧村などと、どの口が吐き捨てるのか。古来より絶えず襲い来る外敵から峻厳な白き峰の麓を守り抜いた、誇り高い山岳民の生きざまを知らぬくせに、よくも。

 不治の病を患う前の母ならば、父祖の名誉を穢す発言を耳にするやいなや、腹立たしい腹部に突進していただろう。母は女丈夫と名高い、勇猛なるツァディン人の名に恥じぬ女性だった。病を得て衰弱するまでの母は、よく雄羊を猫の仔同然に抱えて闊歩していた。水牛の乳を搾るのも上手な働き者だった。なのに、メゼアは……。

 美しさも力も聡明さもない、主の支えになることもできない役立たず。父にも母にも似なかった、凡庸な少女。それが紛うことなきメゼア・レゼシュヴァリなのだ。

 せめてもの反抗の証に、不遜な男達をねめつける。メゼアの視線など他の雑多な感情に押しのけられ途中で墜落してしまって目標には届かないだろうが。

「素早い英断を期待しております」

 万が一神がメゼアの願いを聞き届けてくれるならば。煌びやかだが繊細な飾りを下げた耳に届くまでに、この不遜な懇願を霧消させられただろうに。

 選び抜かれた極上の青玉サファイアよりも青い、と亡き夫に讃えられた目を伏せるナタツィヤ。長い黄金の睫毛がゆるゆると持ち上がるまでそう大した時は経過していなかったはずなのに、メゼアの口内はからからに干からびていた。

 物々しい高官を右に、嫋やかな女官たちを左に従える女王の花弁の唇がほころぶ。

「そなたらの主に伝えなさい」

 告げられるのは恭順か、抗戦か。しんと静まり返った広間で、人々は次なる一挙を待ち構える。

「わたくしの夫は亡きアスランただ一人なのだと。――ペテルデは異教徒の軍門には下らぬのだと!」

 数多の運命を決定づける一言が告げられるまでの一瞬は、永遠にすら等しかった。

 女王の決断を讃える高官の熱狂は女官の最後尾に控える少女をも呑み、一つの巨大なうねりとなる。

 わたしたちが――未だ大陸中南部最強として君臨するこの国が、蛮族の群れごときに敗れるはずはない。わたしたちには、神の加護がある。

 もはや完全なる敵になった使者に退室を求める叫びは留まるところを知らなかった。甲高い軋みを張り上げながら重い扉が開くと、淀んだ空気が一掃される。頬を撫でる風は冷たかった。

 髪も肌の色も様々な武装した青年たちを従えるというよりは、監視されていると評したくなる風采の男。恐らくは和平の任を与えられていながら仕損じ、がくりと項垂れる不敬の輩がおもむろに歩を止める。

「甘やかされ育てられた小娘が、この山間の国が、我が国の精鋭を蝗のごとく蹴散らしたあの皇帝に、あの大国に敵うとでも、本気で……?」 

 一切の装飾なしに零され大理石の床に当たって砕けた毒は、居並ぶ者たちの官人たちの胸に跳ね、消えぬ痕を残した。実体を備えぬ代わりに、決して癒えぬ傷を。

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