善き永眠者のための奉神礼 Ⅱ

 蜜を啜った麦と米の粘ついた甘味はどこか懐かしい。混ぜ込まれた干し葡萄を犬歯で破る。乳と蜜が流れる楽園を模した永遠の国の味わいが舌の上に広がると、空っぽの胃が吼えた。もっと食糧を、この身を育む糧を寄こせ、と。

 長い奉神礼の終わりに参祷者に振る舞われる糖飯は、瞬く間に飢えた少年奴隷の食欲に征服された。

 米を食うと母親のピラフの味を思い出す。そう涙ぐんでいるのは、同室の四人の中でもっとも遠くから売られてきたゼカリエだった。

「あれ、うまかったな」

 熱弁を振るうゼカリエは煩わしい。正直睡眠の邪魔だ。米、羊肉、人参の至聖三者の輪における干し葡萄の役割などすこぶるどうでも良い。

「なー、カヤト聞いてくれよ。エドヴィセとニコは“俺のとこにはあんなのなかったから”って冷たいんだよ」

 だがカヤトと同じく大陸東部の流れを汲む少年の懐旧を無碍にはできないのもまた事実だった。

 運命が振るう非情な剣によって引き裂かれた家族に寄せる思慕は、カヤトにも覚えがある。

「お袋の味ってやつかなあ。一口だけで胸が締め付けられて。……ちょっと、泣きそうになった」

 母の味。それはカヤトにとっては母が焼いてくれたクレープブリヌイだった。芳しい黄金の雫を滴らせる、丸い太陽の象徴。発酵乳サワークリームと川魚の燻製を包んだ生地はふんわりと香ばしく……。

『いくらでも食べていいのよ。今日はお祭りなんだから』

 母が微笑みの裏に隠した懊悩を知ろうともせず、歓声を上げた自分は愚かであった。まだ五つにも満たなかったとはいえ、少し考えれば気づけたはずなのに。金は全て酒に変えて飲み干す父が君臨するあの家に、祝祭の料理を用意する余裕などあるはずがなかった。だから母は……。

『美味しい?』

 木苺の甘煮と乳が入り混じった薄紅は鮮やかなはずなのに濁っていた。万年雪を戴く山々を照らす曙光から光輝を剥ぎ取った残り滓。

 逃亡防止のために足首に回された荒縄に転ばぬよう、奴隷商に怒鳴られ殴打されながら踏みしめた峻厳な山脈。その頂上で仰いだ暁は黄金を帯びた見事な薔薇色であったが、黄昏の茜とはまた違う色彩に染められていたのが何故だか口惜しかった。

 別れ際、浅ましい笑みをぶら下げる男に手を牽かれる母が「風邪をひくといけないから」と被せてくれた狐の毛皮の帽子は擦り切れていたが温かかった。だが、当時すでに父の部族の慣例に倣って髪を伸ばしていた自分には必要なかった。だからカヤトは母にそれを返そうとしたのだが、幼い手は嗚咽で遮られた。

 母には細やかに波打つ長く豊かな髪があったが、細い身体に巻きつけた襤褸切れ同然の一枚だけでは山脈のあちこちで凝る寒さに打ち勝てるはずがない。母とてそれは知悉していただろうに、どうして。

 ――わたしのかわいい子。

 殴打の痕跡が刷かれた美しい面をほころばせ、温かな朝食を差し出してくれた母。楽しげに鼻歌を歌いながらカヤトの髪を梳いていた女の指は荒れ果てていても嫋やかだった。

「しっかしお前、ほんと髪長いよな。こんだけ伸ばしてるのに、枝毛もないし」

 なのに、目が粗い敷布の上でのたうつ灰色の蛇を鷲掴むのは、剣胼胝だらけの固く武骨な手だ。しげしげと――まるで駱駝の背に揺られ、草原や沙漠を越えてやって来た織物を観賞するかのごとく瞠られた目。それは、自らと異なる者に投げかけるもの。物珍しい植物や毛色が違う動物に寄こす視線だった。

 ――分からないの? ……の髪だよ。

 いずれにせよ、カヤトが髪に触れられてもよいと認めるのは、この手ではない。だって、あの手はこんなにも武骨ではなかった。触れることを躊躇ってしまうぐらい、穢れなかったのだから。声だって、何もかもが違う。

「勝手に触んな」

 自分のものより大きな手を払いのけると、肌と肌がぶつかる乾いた音が暗がりを震わせた。 

「いいじゃねえか、ちょっとぐらい。べつに減るもんでもあるまいし」

「減るんだよ。俺の中の何かが、確実に」

「……女でもあるまいし、何を気にし、」

 ただでさえ苛立った神経を逆なでする無礼の源は力で封じる。拳と歯に挟まれた唇はもしかしたら切れてしまったかもしれないが、構うものか。

「……お前、本気で、殴るとか……」

 恨みがましい小言を右から左に受け流して、今度こそ薄っぺらな布に潜り込む。

 この閉ざされた室内においては「それなり」に保たれている少年奴隷の繋がりは幽き絹糸だ。力任せに引けばぷつりと千切れる。そして陽の光に蕩ける細い細い繊維をどんなに集め縒り合わせても、強靭な荒縄にはならない。ましてやしなやかに粘つく血の鎖には。

 だからエドヴィセやニコやゼカリエは、カヤトが振るわれていた暴力の量と性質を目の当たりにしながらも、助けようとはしなかったのだ。カヤトとて彼らからの救済の手など求めてはいないし、もしも自分が彼らの場に立ったら恐らく同様の道を選ぶだろうから根に持ってもいないが。彼らと自分は同じ囲いの内側に放たれ同じ草を食んでいても、種を別にする家畜なのだ。交われば子を生すこともある馬と驢馬ほどには近しい、けれども相異なる生物。

『……まったく馬鹿馬鹿しいわよね。だって、あなたの目はこんなに綺麗なのに』

 母の故郷では周辺異民族の――悪魔の徴として恐れられ排斥されていたという赤い瞳。これがあるからこそカヤトは母の同胞には眉を顰められ弾かれる。そして母から受け継いだ面立ちゆえに、父祖を共有する者たちには「北の女奴隷の腹から出てきた半端者」と囃し立てられ――

 カヤトはカヤトである限り、世界を騒がせ彩るどの喧騒にも溶け込むことなく孤独であり続ける。それが、この不甲斐ない身に与えられた罰なのかもしれなかった。 

『あなたのお母さんのいうとおり。おひさまにすかしたぶどうしゅみたい』

 だからカヤトの瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んでくれたあの少女も、母も、カヤトを忘れ去ってしまったのだろう。 

 もぎ取られた彼女らと入れ違いにカヤトの人生に現れたのは、耳障りな異国語で何事かを喚き散らす少年たちだった。操る言葉を互いにすり寄せ、共通語としてペテルデ語を習得し、意思の疎通に困難がなくなっても彼らとの溝はなくならない。ぽっかりと開いた空虚はいずれ腐り落ちる木の板で塞がれているだけで、土で埋められているのではないのだから当然だが。

 結局のところ、カヤトとゼカリエとニコとエドヴィセは四人ではない。独りと独りと独りと独りで、それ以上にはなれないのだ。幾度となくペテルデを襲ってきた大河や砂礫だらけの乾いた土ではなく、大陸を取り巻く蒼に隔てられた砂の海からの軍馬の蹄が刻一刻と迫りくる現在においてすら。

「なあ、」

 遅い成長期を迎え痛む膝。すらりと締まり、一切の無駄な肉が削ぎ落された太腿から脹脛ふくらはぎをまさぐる爪先。これもまた泡沫に過ぎない。

「……何だよ」

 しつこい追求に根負けし、不承不承で布団から顔を出す。暗がりに浮かぶゼカリエの顔は、十四という年齢よりも幼く見えた。

「アスラン将軍が死んで、イングメレディ公が新しい将軍になっただろ? 俺たち、これからどうなるんだろうな」

 躊躇いがちに紡がれた囁きは、やはりあどけなく震えていた。年上であるはずのエドヴィセに弟の影を重ね何かと世話を焼くニコならば、抱きしめはしなくとも頭を撫でるぐらいはしてやったのだろうと思う程度には。

「俺たちが前線に立つまでに戦争が終われば、陛下かあっちの皇帝のどちらかが和平を申し入れてくれればいいけど、もしも……」 

 恐らく、ゼカリエも他者の熱を――あるいは気休めともつかない慰めを求めているはずだった。それぐらいはカヤトにさえ察せられる。 

 確証などはいらない。ただ、そんなことはあるものか、と言って欲しい。俺たちが死ぬなんて、そんなことあるものか、と。

 だが整った薄い唇から飛び出てきたのは、すんと鼻を啜る少年の望みとはもっともかけ離れているだろう一言だった。

「――知るか」

 期待を裏切られた少年が漏らした湿った吐息が、幅の狭い頬を撫でる。 

「俺たちは奴隷兵だ。死ぬためにメシを恵んでもらって、死ぬためにここで飼われてるんだよ」

 纏いつくあえかなぬくもりから染み入るのは、悲嘆と恐れが絡み合った落胆だった。残忍な刃によって親きょうだいや慕わしい村から引き離された少年は、未だ希望を捨てきれてはいないのだろう。いつか、奴隷の身分から解放され、生きて故郷に還るという夢を。

 分かっている。本当は、カヤトはゼカリエが羨ましいのだ。無条件に自分を受け入れてくれると信じられる場所を持つ少年が妬ましくてならない。だから、たった一歳だけとはいえ自分より年少の彼に冷酷な現実を突きつけ苦しめるのだ。恋に恋するように麗しい女王を慕う稚い少年を。

「……ても、駄目なのか?」 

「はあ?」

 手を伸ばせば互いに触れられるほど近くで囁かれた言葉は、深淵から轟くように儚い。

「神さまに祈っても、駄目なのか?」

 けれどもしかと見開いた眼に宿る炎は真摯に揺らめいていた。月光も月明りも射さぬはずの暗闇を暴く、たった一つの光源。

「俺は、どうしても父さんや母さん、爺ちゃん婆ちゃんにもう一度会えないのか? 母さんの腹にいた弟か妹にも会えないままなのか? 近所の優しかったおばちゃんにも、よく一緒に遊んでたおばちゃんの子供にも……」

 だから、知らねえって言ってるだろ。

 喉元までせり上がった衝動は、肩を抉る爪からもたらされる感覚によって遮断された。

「願うのは、忘れられないのはそんなに悪いことなのか? 確かにここのメシは美味いし陛下はお綺麗だけど、でも、俺は……」

 漂う鉄錆の香りは厭わしいが、顔を背けることなどできはしない。これが真昼の出来事であったなら、カヤトは忌まわしい赤に耐えかね、力の限りゼカリエを突き飛ばしていただろう。 

「お前にだって、分かるだろ!?」

 夜で良かった。全てが曖昧な闇に覆われているからこそ、カヤトは迷い嘆く少年を拒絶せずにいられる。

「……お前はどの神に祈るんだ?」

「え?」

「天主か? 唯一神か? それとも――」 

 遠い昔、確かにこの地に君臨していた至高神か。

 みっともなく戦慄く舌が紡いだのは、同一の存在を指し示す三つの呼称のどれだったかは定かではない。朝が巡ればカヤトもゼカリエも、今宵の全てを夢に帰す。これまでもそのようにしてこの危うい綱を渡って来たのだから。    

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