善き永眠者のための奉神礼 Ⅰ
配下の兵を庇って銃撃と砲弾を浴びた王配の亡骸は、破片を集めることさえ難儀したらしい。夫の戦死の報を受け失神した女王を再び卒倒させた惨状は、柘榴の――生命の樹の文様が施された柩に封じられている。戦地から
むせ返るほどに、息苦しさを覚えるまでに焚かれた乳香。それは、人間の終の住処の扉の隙間から漏れ出る腐臭を誤魔化すためのものなのだろうか。
振り香炉から漂う煙は砕いた瑠璃を塗した紛い物の蒼穹に阻まれ、真実の天上には届かない。
「アスラン」
まろやかな真珠の頬を伝い落ちる涙を拭うべき指は既に崩れ落ち、悲痛な呻きが求める声はとうに消え失せている。死者は応えない。
「あなたはわたくしの父であり夫でした。お父さま亡き後、あなただけがわたくしの光だったのです。なのに、どうして……」
夫を奪われた女の悲嘆も、父を喪った幼子の憤りも。
「……おとうさま。おとうさま!」
燭台の炎を受けて貴石のように煌めき堕ちる哀悼は、固い石板に弾かれるばかりで。
「なぜ小さなアマラを、わたくしを、この国の民をおいて逝かれたのですか?」
ついに崩れ落ちた女が凍てついた石棺に縋りつく様は、親を求め彷徨う幼子そのもの。
前王の末子、それも唯一の娘として蝶よ花よと育てられた姫君。幼き頃は偉大なる父の、長じてからは勇猛な将である夫の庇護下にあった女王の背は、あまりに細く頼りなかった。
――この女が、我々を背負っていけるのか。前王在りし頃は最強を謳われた精鋭軍を幼子の群れのように蹴散らした、黒き悪魔たちを退けることができるのだろうか。
女王を取り囲む女官たちや、佳人の嘆きに誘われ涙を流す一部の参列者を除けば、荘厳であるが厳めしい聖堂に集う面々に突き付けられたであろう現実。
「あなたがいなければ、誰がペテルデを守るというのですか? ……その任は、わたくしにはあまりにも重い」
その重みと鋭さに誰よりも打ちのめされているのは、他でもない女王なのだろう。ならば、女王や幼い王女の次に王配アスランの死を悼むのは――言い換えれば、その喪失によって不利益を被るのは誰か。
――あいつらのあんなしけた面見るのは初めてだな。
ちらと上げた眼差しに飛び込む、王を守る生きた盾として侍るネミル人奴隷兵の伏せた顔に刻まれているのは哀悼であることは間違いない。だがそれ以上に予測のできぬ未来への怯えと、虐げていた者からのかつての己の傲慢への報復への恐れが、彼らから不遜を剥ぎ取り不安の
執拗にカヤトを衝け狙っていた少年たちの面で交錯する陰は色濃い。しかし対照的に、同色の糸で精緻な刺繍が施された喪服に袖を通す青年を取り囲む一団は、張り付けた仮初の仮面でもっても隠しきれない歓喜で輝いていた。
――これで、ようやくあるべき場所に還ることができる。宮廷に跋扈する忌々しい異民族を駆逐し、わたしたちの王国を取り戻すことができる。
伝染性の病のごとく燭台に暴かれた薄闇に蔓延するのは、押さえつけられていた誇りだ。ネミル人以上に蔑まれる蛮族出の奴隷であるカヤトですら察せられる矜持は、どこか歪んでいておぞましい。女王の配偶者の葬儀に駆け付けたリニ人やトヴィリ人の世襲貴族たちが吐き出す、押し殺された秘めやかな安堵も。もっとも、それは自分とてさして変わりないが。
少年はこみ上げる自嘲を整った口元に刷き、長い睫毛の濃い影を薄い頬に落とす。カヤトは、身内でも友人でもない、ましてや知人ですらない飼い主の不幸を悼むほどできた家畜ではない。将軍アスランの死は、カヤトに何物ももたらしはしなかった。犬歯をつき立て噛み砕いても喉元に痞え蟠る痛みと嘲りから解放される喜びすらも。
長い髪を引かれ、柘榴の樹の根元に押さえつけられる屈辱は幾ばくかの時が経てば。あるいは練兵場で馬を駆り、剣を振るえば、汗となって流れ落ち、カヤトの外側に排出され、骨肉の一部にはならない。父の拳に刻まれた痕と同じだ。
逆らうともっと痛い目に遭うから、ここは我慢しておいた方がいい。それにこんな傷、どうせすぐに治る。
衝動的な熾火の暴走に命じられるがままに怒りを滾る熱を噴出させることはあっても、少年に概ね不条理に振るわれる暴力を受容させ続けたのは、諦観ではなく順応だった。時間こそが全てを消し去ってくれる。大いなるうねりが行き着く果ては、神だけが把握しているのだ。七つの天の上の楽園に坐す唯一なる神だけが。
濃密な乳香の噴煙と共に漂う黄金の鈴の音は、嫋やかな嗚咽にかき消され虚しく消え去るばかり。金属の喘ぎは広々とした空間を埋め尽くする全ての参祷者の耳に届くにはあまりにも幽すぎるのだ。
そっと欠伸を噛み殺す者。気だるげに首筋を掻く者。友人らしき少年と密やかな談笑を交わす者。絡み合い錯綜する悲嘆と策略の陰に息づく少年奴隷たちの様相は、不謹慎であっても嘘偽りなく自分たちの心情を表現している。
「だいぶ足が痺れたな」
「でも、これからまだ
カヤトと同様に、大概の奴隷兵たちは将軍の逝去に毛ほどの関心も払っていない。そして、皆もう既に己が眼前で繰り広げられる悲劇に食傷してしまっているのだ。
「叔母上」
渦巻く少年たちの不満を代弁するかのごとく立ち上がったのは、彼らの新しい庇護者だった。
「亡き御夫君を悼まれるお気持ちはお察しいたします」
「……マナゼ」
「ですが、我らにも限度というものがあるのです」
「それは、いったいどういう意味なのです?」
蒼ざめ窶れた頬に憤りの紅が昇る。
「叔母上は小さなアマラの母であると同時に、ペテルデの母でもある。母が父の死に涙するばかりでは、我ら子は心から哀しみを表すこともできない。どうか我らに、前将軍の喪失を悼む時間をお分けくださいませ」
「……」
「これ以上ご高齢の聖下をお待たせしてはなりません。叔母上も、それは存じていらっしゃるでしょう?」
未来の王の整った唇から発せられた柔らかな綿に包まれた棘は、彼だけのものではなかった。度を超した涙は憐れみよりも苛立ちを招く。
「言えてる」
カヤトの右隣に立つ少年がぽつりと零したのはひたひたに葡萄酒が注がれた器に落とされた最後の――決定的な一滴だった。溢れた雫は酒杯には戻らない。
「自分の夫が死んで悲しいのは分かるけど、どれだけ待たせる気なんだよ」
「ガキじゃあるまいし、いつまでも泣いてばっかりで面倒くせえな。こっちは訓練の後で疲れてんのに」
「陛下は、幼少のみぎりからご自分のお立場を自覚しておられていないような振る舞いをなさることがあられましたが、此度のこれで明らかになりましたな」
豪雨に打たれた薔薇のように項垂れる女王を糾弾するのは、国境近く――同盟国であった隣国の崩壊と共に、最前線となった王国西部イングメレディ地方に所領を有する世襲貴族だ。数多の貴族の中でもっとも女王の甥に近い場所で侍る中年の男は、マナゼの母方の血縁なのだと耳にした憶えがある。
「同じ
そもそも、先代の次の王には、ナタツィヤではなくマナゼを――女ではなく男の主を望んでいたとも。
「だいたい、選りにもよってネミル人などを夫になさるから。ただでさえ国内に有力な基盤を持たぬ貴女様ですのに」
「……それは、御夫君を喪ったばかりの陛下にはあまりに酷な言い分だとは考えられぬのですか?」
ネミル人の祖の軍勢の蹄に荒らされ灰燼に帰した王都以東と、伝説の女王アマラやその兄である初代の総主教の庇護の下、比較的破壊を免れ繁栄を謳歌した西部。
先々代と先代は威光で、王配アスランは武勇で抑え込んでいた、王国の東と西の確執の根は存外に深い。遙かなる始まりの後、既に滅び去った幾多の異民族や隣国に踏みにじられ、軛に繋がれ支配された過去は共通していても、その被害の度が異なるために。
「殿下の死を悼みもせず、薄汚い策謀を巡らせる狐は出ていけ!」
「ペテルデの行く末を真に憂う者は、多かれ少なかれ私と同じ危惧を抱いておりますよ。私たちの――リニ人とトヴィリ人の国には、あのような者は必要ないと!」
女王とその甥を挟み二つに分かれる貴族の群れから飛び交う怒号は醜く、
「どうか、じっとなさっていてくださいね、姫さま」
「メゼア?」
いつにもましてきっちりと堅苦しく編まれた金茶の三つ編みを垂らした少女が、主の耳をそっと塞いだのはもっともだった。
「どうしてみんなおこってるの? これじゃあ、おとうさまはかみさまのところにいけないよ」
「……ひめさま」
泣きじゃくり不安を訴える幼子の背を撫でる娘。稚い主を庇うように抱えて立ち上がった彼女を引き留めたのは、
「見よ」
一切の反抗を赦さぬ、凛々しい一喝だった。
「このように幼い、残忍な手によって父を奪い取られた哀れな娘から無用な涙を搾り取るのがそなたらの望みなのか? 有史以来の国難を控え、このように醜悪に争いあうことが?」
高みから射す光を一心に浴びた青年を輝かせるのは王者の威厳。彼と対峙する女王は、対照的に暗がりで立ちすくんだまま。暗黒と光輝。そのどちらに居並ぶ面々が惹きつけられるかは火を見るよりも明らかで。
「……マナゼ殿下のおっしゃる通りじゃ」
不自由な片足を引きずりながらも
「唯一神と亡き殿下の御前で、これ以上の争いはならぬ」
若かりし頃は見渡す限りの聴衆を涙させたと伝えらえる美声は、老い、張りを失ってもなお――むしろそれゆえに人々の心を打つ。
「聖下」
「よい、よい。老いたりといえども、このぐらい、一人で」
「しかし、最近は特におみ足の具合が優れぬと……」
慈愛に満ちた笑みによっても誤魔化されない疲労を纏った老人と、彼に駆け寄り肩を支える青年の一対は完璧だった。
「マナゼ殿下は相変わらずお優しいのう。このような爺に気遣いは不要だと申しておるのに」
「聖下は私の第三の祖父なのです。どうか私に祖父孝行の機会をお恵みください」
愛おしげに目を細め高貴な青年を仰ぐ老人は、呆然と佇む女王には一瞥すらも垂れなかった。
「嬉しいのう。この老いぼれを祖父と呼んでくださるとは」
「聖下がお望みになるのなら、私は永遠に貴方様を祖父とお呼びいたしましょう」
聖性と栄光、威厳と慈悲の完全な結合。
その繋がりからあぶれた女王は何を顕すのか。その答えはあまりに残酷で不吉だった。
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