死よ、お前の勝利はどこにあるのか Ⅲ

 嵌め殺しの窓から射す光が、赤みを帯びた黄金に縁どられた青を煌めかせる。柔らかな翠を撫でるのは穢れない薄紅。幼子だけに赦される、滑らかな指先だった。

「うわあ、きれい」

 孔雀の尾羽を掴む幼女の歓声は精緻な調度品に当たって砕け、微かな隙間を潜り抜けて外界に広がる。母と乳母に姫君としてのたしなみを説かれ、浮かべていた涙はどこへやら。父親譲りの凛々しい口元をほころばせる幼い主は、鞠のように跳ねてメゼアに飛びついてきた。

「ありがとう、メゼア!」

 くるくると変わる表情。柔らかな身体。ふくふくとした小さな手から伝わるぬくもり。その全てが愛おしい。

 朧な月光を思わせる銀灰から立ち上る香りは、愛くるしい主には似合っていなかった。アマラには太陽が――温かな陽光と若草こそが相応しい。乳と蜜が流れる、緑滴る楽園の香りが。

 無邪気な主から外を取り上げるのは胸が痛む。「ちょっとぐらいいいでしょ?」と訴えて来る潤んだ眼差しを退けるのも。

 だがそれでもこの姫君に、王族としての振る舞いを身に付けさせなければならないのだ。

「お気に召していただいたようで何よりです。でも姫さま」

「……な、なあに? アマラは、そとにいこうなんて、これっぽっちも……」

「嘘はいけませんよ」

 メゼアに肩を掴まれると、そろそろと足音を殺し明るみに向かって駆け出していた主はぎこちなく振り向いた。

「さあ姫さま! 今度こそ、ナタツィヤさまの言いつけ通りに、姫君らしく淑やかに本を読みましょうね!」

「えー、やだよ」

「姫さま」

「だって、あれむずかしいし、よんでてもちっともたのしくないんだもん」

 ナタツィヤは、アマラに玉座を継がせることを望んでいる。快活にすぎる稚い娘に。

 少女時代に即位して以来、女傑と讃えられた祖母や偉大なる父との器量の差を悟ってか、時に「お飾り」と嘲られるほどにまつりごとに介入しようとしなかった女王。頑なに秘め隠された意思は、彼女が明らかにせずとも周囲の者には察せられる。

 かつて水面下で王位を争った甥よりも、愛する夫との可愛い娘に、父祖から受け継いだ全てを。幾度となく蛮族の蹄に踏みにじられ、焼き払われても滅びなかったペテルデの民の矜持の守護者の座を。

 それは国民を育む女王としてでなく、ただ独りの娘の母としての願いだった。

「分からないところはわたしが読んで差し上げますから。ね?」

「でもやだ」

 不満げに唇を尖らせる主君は、母である女王の真意を理解するにはあまりにも幼すぎるが。

「後で厨房から姫さまが好きなお菓子を持ってきますから」

「ほんと?」

「ええ。陛下には内緒ですよ?」

「じゃあ、よむ!」

 目の前に人参をぶら下げられた馬よろしく跳ね、太腿に飛び乗ってきた童女。そして、生まれたての赤子に匹敵する重量を有する装飾写本。少女の細腕では持て余す重みを支える筋肉は既に悲鳴を上げているが、気づかぬ振りをした。 

「今日はイングメレディ公がいらっしゃいましたから、」

 仄かに黄ばんだ貢を開くと、葡萄と古びた牛酪が入り混じった匂いが鼻腔をくすぐった。

 もはや神話と化したいにしえから垂れる、細い細い縁。異端の神々が奉じられていたこの地に正統な教えの松明を灯し、暗がりで迷う子羊たちを白日の下に導いた伝説の女王の兄の回想録は、メゼアの胸を言い知れぬ懐古と哀愁で締め付ける。

 彼の侍従の出身地であり、奇跡的に・・・・戦火から免れたために、現在に繋がる繁栄を築き上げることとなったイングメレディ地方。彼の地は良質な葡萄酒の産地としても名高い。ナタツィヤや彼女の夫も、献上される新酒を毎年の初冬の愉しみにしていた。

 火山の麓の侘しい村を彩る深緑と紫。若草を食む羊たちの和毛にごげは、まさしくかくかくと船を漕ぐ幼女の髪のようで――

「姫さま」

 押し殺した溜息に混じるのは不満ではない。ましてや憤りでもなく、諦観だった。アマラはまだ三歳なのだ。退屈な・・・・本の読み聞かせの最中、襲い来る眠気との戦いに敗北を喫しても、致し方のないことだろう。

 だが、これではいつまで経っても勉学が進まない。

「起きてください。でないとお菓子はあげられませんよ」

「……えへへ」

 そっと肩を揺さぶると、膝の上の幼女はぺろりと舌を出した。これも無垢な幼子だからこそ許される振る舞いだろう。メゼアが同じことをすると、どこかの誰かから「調子に乗るなよ、ブス」と罵声を浴びせかけられそうだ。幼少期のカヤトの物言いは然程きつくはなかったのだが、現在の彼の形良い薄い唇から吐き出される言葉は抜き身の剣のようだ。

 まだメゼアの母やナタツィヤの両親である先王夫妻が生きていた九年前。北方育ちの王妃の避暑に伴い、短い夏の間だけ身を寄せていた母の故郷カプサジ。四角い見張りの塔が林立する渓谷は、土着の山岳民と彼方から移り住んできた草原の民の末裔の境界線でもあった。あちらとこちらが混在しているのに、決して一つにはならない雪深い村。

『……やる』

 手渡された星型の竜胆の青は、澄み切った空を写し取ったようで。

『……頭に花でも飾っとけば、おまえのそのブサイクな面もちょっとは見れるようになるだろ?』   

 長い睫毛を伏せた少年の眼の紅蓮とは対照的だった。

 ――黙れ、雀斑ブス。

 今も昔も、あからさまに自分より美しい少年に罵られても、屈辱より先に納得を覚えてしまうのが、凡庸に生まれついたメゼアのさがなのだろう。長い睫毛に囲まれた柘榴の瞳が捉える自分は、水鏡に伸びる平凡な少女の像よりも醜く映っているだろう、と。

『あたしならともかくあんたがブスなんて、そんなことあるもんか』

 数年前に病死した母の面立ちは、娘の目を通しても整っているとは言い難かった。朗らかな笑みと親しみやすい愛嬌で誤魔化されていたものの、まず間違いなく十人並みより上には評されない顔立ち。

『あんたのお父さんは綺麗な金色の髪に青い瞳の、そりゃあいい男だったんだよ』 

 しかし、メゼアが母の胎内から這い出る前に雪崩に巻き込まれて命を落とした父は、剣の腕だけでなく容姿にも恵まれた騎士であったらしい。生前の彼を知る者は皆、口を揃えて称賛するのだから事実なのだろう。

『この雀斑はあたしに似ちまったみたいだけど、あんたはお父さんに似てるよ。だから自信を持ちなさい』

 ――お母さんはそう言って慰めてくれたけど、もしもわたしが陛下みたいな美人だったら。

 普段は頑なに秘め隠している、理想ともつかない願望は、溜息となって零れるばかりで。

 もしもメゼアが、父の端正な容貌か母の明朗な気性の、どちらかを受け継いでいれば。そうすればカヤトは笑いかけてくれたのかもしれないのに。

 カヤトの母は麗しい女性だった。細やかに波打つ淡い色の髪に縁どられた嫋やかで儚げな面立ち。大きな巴旦杏形の瞳は泉の澄んだ蒼を湛えていて……。

 片手の指の数を越える歳月に隔てられてもなお鮮やかに蘇る美貌は、灰色の髪の少年に受け継がれている。悪戯っぽい笑顔などはそっくりだった。

 視界を掠める亜麻色は、峻厳な山々の頂から流れる雪解け水で雪いでも白銀にはなりえない。長い三つ編みがナタツィヤや父のような豪奢な黄金であれば、誇りに思えもしただろうが。

 もはや永遠に還らぬ過去への追憶には果てがない。だからこそ、もう戻らなくてはならない。 

 ――これじゃあ、姫さまを責められないな。

 すやすやと寝入る童女の面は安らかだった。きっと、良い夢を見ているのだろう。もしかしたら、大好きな父の夢かもしれない。

「仕方ないですね」

 だらしなく、けれども微笑ましく緩んだ口元から零れる唾液をそっと拭う。甘い眠りを妨げぬように、慎重に。小さな身体を肘掛けに横たえると、小さな口がむにゃむにゃと動いた。恐らくは、おとうさま、と。丸まる背中はまるで猫の仔だ。

「陛下には内緒ですよ?」

 厨房にチュルチヘラを取りに行って王女の部屋に戻るまで、急げば四半刻もかからない。その僅かな間ぐらい、姫君はおとなしく眠っていてくれるだろう。

 石造りの宮殿はナタツィヤの父である先王の命で改装されたものだ。豪奢に飾り立てられていてもどこか冷たく、女性的な嫋やかさや柔らかさに欠ける。女の主を戴いているというのに、扉に施された彫刻一つをとっても王宮はどこか男性的で近寄りがたかった。この宮殿で生まれ育ったアマラが、こぞって外界に駆けだそうとするのも分からなくはない。

 回廊の薄闇から抜け燦燦と降り注ぐ白日の下では、自覚せぬまま背負い込んだ緊張を降ろすことができる。闊歩する孔雀たちの求愛の雄叫び。さやさやとそよぐ柘榴の木陰に佇み求愛者を値踏みするのは、褐色の羽した地味な雌だった。

 獣の雌の見目は、雄に比べると概して控えめで慎ましい。人間だけが、女に男に勝る美を求める。

 もしもメゼアが鳥であったなら。取り柄のない外見を恥じることなく、彼の隣にいられたのだろうか。――まったく馬鹿馬鹿しい。

 たとえ獣であっても、男はより好い女を選ぶ。冴えない自分ではカヤトに釣り合わない。現に、美しければ男も女も平等に愛することで有名なイングメレディ公は、メゼアを一顧だにしなかったではないか。

 喉元からせり上がった自嘲は、爽やかに晴れ渡った空にはそぐわなかった。この蒼穹の下、こんなにもどんよりとした蟠りを抱えるのはメゼアだけ――いや、本当にそうだろうか。

 何の気になしに投げた眼差しの先に聳えるかつての神の像。その向こうから飛び出してきた奴隷兵たちの顔は蒼ざめていた。この世の終わりから逃げてきたのか、と問い質したくなるほどに。

 だがふと不安を覚え立ち止まったメゼアも、すぐに彼らの恐慌の理由を突き付けられた。

「アスラン将軍が、戦死なさっていたなんて」

「ばっらばらだったらしいな」

 支配者を喪った家畜たちの嘶きが、戦慄く足を縫い止める。

「次の将軍は? イングメレディ公か?」

「ああ、多分。だって同じ女王でも先々代の陛下ならともかく今の陛下じゃ、戦の指揮なんてできるわけないだろ」

「じゃあ、あの方がこの時期に領地から離れてここにやってきてたのは……」

「そういうことだろ。……くそ、こんなことになるならもっとイングメレディ派に取り入っておけば良かった」

 新たな庇護者を選定する少年たちの思惑は毒の矢だった。心臓に突き刺さり、全身に猛毒を巡らせる。

 ――姫さまに、このことを何とお伝えしたら……。

 千々に乱れる意識が暗黒に呑まれる最中、暗闇から轟いたのは幸福な姫君の笑い声だった。

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