死よ、お前の勝利はどこにあるのか Ⅱ
小麦色の三つ編みから立ち上るのは芳しい実り。解れ毛の他には隠すもののない項は乳と甘酸っぱい果実の匂いを漂わせていた。腕の中の少女が身じろぎするごとに、荒れ狂う生命の源を宥めるために深く息を吸うごとに、カヤトを絡み取る体臭は生来のものではない。
メゼアの髪や衣服には、盛りを終えはらはらと散ったはずの、落葉樹の余韻が纏わりついている。過ぎ去った春には、清冽な香気と紫や白の小花で人々を楽しませていた
『やっぱ、美人っていい匂いがするんだな』
ほとんど唯一の出身地や民族を超えた奴隷兵の繋がり――秘密裏に「女王派」と称される集団に所属するゼカリエが赤い顔でまくし立てていた世界の定めは、ありふれた面立ちの小娘にも当てはまるらしい。
「ねえ、カヤト」
「気が散るから黙れって言ってんだろ、雀斑ブス」
メゼアはいい匂いがした。白くて丸っこい、甘い香りがする生き物。汗と砂に塗れ剣を振るうカヤトたちとは相容れない、か弱く脆いメゼア。
少女の青い衣服は全くその用を生していなかった。薄い布地は穏やかなぬくもりを遮らず、むっちりと肉付きが良い腿の弾力や滑らかさを率直に伝えて来る。
男にはありえぬ柔らかな曲線は、その末端を目の当たりにしたからこそ暴力的に迫った。湿った吐息が、さらさらと流れる金がかった亜麻色が、年の割には豊満なふくらみがカヤトを掠める。全身の血が沸騰した。灰色の頭は、今にも息絶えんばかりの重病人よりも熱に浮かされて。
――こいつは、警戒しないのか。
そっと覗き見た柔和な面は気づかわしげに顰められている。伏せられた青紫は、戸惑いと憂いを含んでいても、不安の影は射していない。十分すぎるほどに発育した肢体は固く強張ることなく、その全てをカヤトに委ねていた。蛮族出の奴隷に。自らに謂れのない暴言を吐く、粗野で無礼なポズホル人に。
メゼアは女王の亡き母とも縁深い父と、山岳民の有力な族長の血縁であった母との間に生まれた自由人。対してカヤトは、遠い大陸東北部イヴォルカ地方の貧村から売られてきた女奴隷の息子だ。生まれ持った身分からして差がありすぎる。
――俺にどうこうされるとか、そんなこと考えねえのかよ。
薄い唇から漏れ出たのは自嘲だった。彼女が自分を対等の存在として意識するなど永遠にありえないのに、無駄なことを。
本来ならば、メゼアはカヤトよりも
まして、悪態を吐くぐらいならばまだしも、取り返しのつかない暴挙を――力と衝動に任せて泣きじゃくる少女から純潔を奪いでもしたら。カヤトに待ち受けているのは、報復の果ての凄惨な死だ。白き闇に呑まれて虚無に還元される、恐ろしい……。
『ここと天国は大きな樹で繋がっているんだから、そんなに怯えなくても大丈夫なのに』
母が子守歌で紡ぐ天国は西の大洋に浮かぶ孤島であったり、水晶か金でできた山であったりした。脳裏にこびりついて離れない、凍てついた終焉ではなくて。
『あの鳥だって天国にいけるのよ? だからカヤトも、神さまの決めたことにきちんと従っていれば、きっと』
選ばれし至福者だけが辿りつける、蜜と乳の河と
この腕の中にいるのに、望むままに組み伏せ蹂躙することもできるのに、手が届かない。まるで泉に映った月のようだ。銀の円盤は、指先が凪いだ水面を掠めた途端に揺らめき消えてしまう。
山脈の北と南の特徴が蕩けて一つになった、異国の面影を残すが親しみやすい造作に愛嬌を添える斑点は星に似ていた。小さな顔の左側に散らばる薄茶の配列に覚えがある。星々を繋げ、身近な道具や動物に見立てる遊び。幼かったカヤトが偶然に発見した天秤が、夜空から肌理細やかな頬まで降りてきたわけでもあるまいのに。
くるりと上がった睫毛に囲まれた夜明けの瞳は、真っ直ぐにカヤトを仰いでいる。
「あなたは凄いですね。わたしをちゃんと持ち上げられていて」
「あ? 俺は男なんだから当然だろ?」
「……そうですね。そうなんですよね」
濡れて艶めく唇は、熟れた木苺の汁を擦りつけたようで。自分の双眸すら許容しがたいのに、ふっくらとした唇の紅には嫌悪を抱かないのが不思議でならなかった。
――これが欲しい。
遮るもののない陽光よりも激しく身を灼く欲望。滾り迸る熱情に出口はない。
――こんな、どうってことない顔したやつに、どうして。
メゼアは可愛らしいが平凡だ。宮殿どころか城下の寂れた雑踏にさえ、彼女のものよりも整った造作は転がっている。掃いて捨てるほどに。
カヤトはメゼアよりも美しい女を両手の指の数を越えるまで挙げることができる。
第一に、ペテルデとこの宮廷の主であるナタツィヤ。次に母。そして奴隷兵たちも頻繁に足を運ぶ青物屋の主人の愛娘。それから……。
なのになぜ、彼女らにはぴくりとも動かされなかった胸は、メゼアの前に立つと早鐘を打つのだろう。
「カヤト」
「さっきからごちゃごちゃうるせえぞ」
「……ごめんなさい。でも、あなた、少し大きくなりました?」
大きな胸と臀部ぐらいしか取り柄がない、凡庸な少女の眼差しと囁きに、どうしてここまで踊らされなければならないのか。自分のことなのに、何一つ判然としない。
「背が低くて悪かったな」
反射的に吐き捨てた嘲りは、透徹した瞳から動揺を隠してくれただろうか。
「やっぱり、あなた前よりも背が伸びてますよ」
「ほんと懲りねえな、あんた」
「ごめんなさい」
「どうしてそんなに謝るんだよ。鬱陶しい」
「……そうですね」
もしかしたら、敏い彼女はとうに見抜いているのかもしれない。
押し殺し噛み砕いて嚥下し、重石を付けて深淵に沈めても浮かびあがってくる、昏い欲望を。全てを把握した上で平然と自分に身を預けているのなら大したものだが、この少女の性根はねじ曲がっても歪んでもいない。彼女がそのような人間であったなら、カヤトはもっと楽になれた。潔く踏ん切りをつけ、還らぬ日々を切り捨てることができた。
『わたしはね』
決して届かぬ光への憧憬も、渇望も。胸の裡で燻る何もかもを、一緒くたに。
「ねえ、カヤト」
形良い耳殻をくすぐる澄んだ響きは、過去から届いた幻ではなかった。
「今度は何だよ」
「あなた、手足が長くて細いんですからそれでいいじゃないですか。身長ばっかりあっても脚が短いと、悪目立ちしてかえって悲惨だって誰かが言ってましたよ」
慰めとも気休めともつかない――あるいはそのどちらでもありうる――呟きは、普段の堅苦しいまでの礼儀正しさを脱ぎ捨てていた。年相応の、少女らしい口ぶりが懐かしい。メゼアにはやはり、こちらの方が似合っている。
「俺の同室のやつも同じこと言ってたな。そういうもんなのか」
溢れだす郷愁はカヤトから棘を抜いた。
「ええ」
細い喉からころころと零れる鈴の音は孔雀のけたたましい喚きにも掻き消されない。聖なる樹の葉が奏でる騒めきは、蜜蜂の羽ばたきめいた衣擦れに弾かれ地に落ちる。
「誰に何と言われようが、あなたは……」
だが、密やかに吐き出された言葉の末端だけは捉えることができなかった。形にされる以前に呑みこまれて押し戻されてしまったために。ふわふわと膨らんだ胸を切り開き魂が宿る心臓を抉り出しても、メゼアが赤らんだ顔を俯かせた原因は探れまい。なぜならそれは、確かな実体を備える血肉ではなく、目に映らぬ心と魂が治める領分に属する事象なのだから。
嫋やかな白が舞い散る緋を掴む。
「すみません、ちょっといいですか?」
萎れた一片を挟む指先が艶めく青緑を指し示した。生い茂る若草と似通っているが趣を異にする翠を宿した尾羽を。
「あれを、姫さまに差し上げたいのです。きっと今頃、ナタツィヤさまに叱られて、すっかりしょげていらっしゃるでしょうから」
「あ、ああ」
唐突に腕の中からすり抜けたのは少女のぬくもりや重みだけではなかった。
「姫さまもお寂しいのです。大好きなお父さまとは長く顔を合わせていなくて、陛下も近頃お忙しくて、姫さまにあまり構ってあげられなくて……。だから我儘をおっしゃって、せめてわたしたちの気を引こうとなさるのでしょう」
ひたとカヤトに据えられていた黄昏の紫はここにはいない主に捧げられている。
「ごめんなさいね、カヤト」
メゼアはひょこひょこと足を引きずりながらこちらを振り返ったが、カヤトを見てはいなかった。靄のように広がる軋みは瞬く間に硬化し、鋭利に尖って棘となる。
「わたし、重かったでしょう?」
「――ああ、重かった。石を運んでるみたいに重かった」
柔肌を引き裂き血を滴らせる、柘榴の罠に。
「……そう、ですか」
「だからもう二度とヘマすんじゃねえぞ、ブス」
遠ざかる背に投げかけたかったのは、心にもない暴言ではなかった。
――お前、もう歩いて大丈夫なのかよ。
彼女の肩を支えて共に歩むべきだと分かっているのに、できなかった。噛みしめた唇から滲む鉄錆こそが、カヤトがメゼアの隣に立つに値しない生き物である証だった。
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