死よ、お前の勝利はどこにあるのか Ⅰ
その鳥の頸は月光に暴かれた
あれ、羽を毟って炙ったら美味そうだな。何だかんだで鶏の仲間なんだから、いけるだろ。
放し飼いにされている孔雀たちが知れば抗弁を吼えること間違いなしの、風情の欠片もない思考。成長期を迎えたばかりの少年の空想を引き裂いたのは、庭園を彩る生きた装飾品の蹴爪でも囀りでもなかった。
「おそいよ、メゼア」
姫君は胸の半ばまで伸びたくすんだ銀髪を振り乱す。
「ひ、姫さま。どうか、お待ちになって……」
「やだ」
「姫さま!」
「だって、きょうはくじゃくさんからはねをもらうってきめたんだもん」
放たれた矢のように疾走する幼い主を追いかける少女の足取りは、お世辞にも軽やかとは言えなかった。足首に絡む長い裾には、太陽を模した渦巻き文様が刺繍されている。
滑稽かつ哀れに轟く衝撃音の源を窺うと、蹲る少女の姿が飛び込んできた。
「いたた……」
捲れ上がった裳裾から覗く穢れない脹脛の、伸びやかな曲線も。未来の夫以外の男の眼差しから守るために、淑やかに秘匿されている娘の肌は真珠よりも滑らかだった。あれよりも白く柔らかなのは、恐らく――
『だいじょうぶよ』
奴隷商に牽かれながら越えた山脈が戴く万年雪の底に埋めたはずの過去は氷の刃だった。母の啜り泣き。男達の下卑た笑い声。近くにいながら何もできなかった、今よりも小さく無力な自分。カヤトの手元まで転がってきた、一枚の錆びた銅貨の冷たさ。父が酒杯を叩き付ける音。
『あなたは男の子だし健康だから、きっといいご主人さまに巡り合えるわ。だから、わたしのことはもう忘れて……』
大きな
大きな目に恥じらいを湛えながら繊維に絡む砂塵を叩く少女は、母ほどには美しくなかった。その肢体は健康的で、大気に蕩けて消えてしまいはしないかと不安と焦燥を呼び起こす儚さを纏ってもいない。
一体、何をどうやったら段差も穴もない、整えられた庭園で足を取られるのか。
メゼアは、彼女の母の――王国北東部に住まう山岳民族ツァディン人の敏捷な身のこなしをあまり継がなかったらしい。ならば父に似たのかと問われれば、それも違うのだろう。
『……ほんとだよ! お母さんがおしえてくれたんだもん』
彼女の父は異国に輿入れする王女の護衛として選ばれたほどの、手練れの騎士だったらしいから。勇猛なる山岳民の娘にしては、あまりにとろくて覇気に乏しいメゼア。彼女の囲われた羊のごとき気質は、一体誰から継いだものなのだろうか。
「メゼア、あしいたいの? だれかよんでこようか?」
少女の足元に縋る幼女の長い髪には、柘榴の棘が潜んでいた。
「大丈夫ですよ、姫さま。少し挫いただけですから」
小さな頭の頂から毛先までをそっと撫でた華奢な手の主に唇を噛みしめさせたのは、一体どの痛みなのだろう。ごくごく淡い紅に染まった指先から零れるのは、くたびれた一片とは比べ物にならぬ、鮮やかな……。
「おかあさまにたのんでだれかをよんでもらうから、ここでまってて」
幼子の無垢な頬に滴る一滴は、籍を切って溢れだした動揺に洗い流された。
「わたしなんかのことでナタツィヤさまを煩わせてはなりませんよ。陛下は大変お忙しくていらっしゃるのです。姫さまも分かっておられるでしょう?」
「でも……」
空の青よりも深い蒼にぽたぽたと染みを作るのは、蒼穹から垂れたものではない。石造りの堅牢な宮殿を、様々な言語や民族が――それぞれの人生が行き交い蠢く街路を、城壁を越えた世界の全てを覆う天蓋には雲一つないのだから。
痩躯から伸びる薄闇は、ざわざわと囁く果樹が落とす濃く長い影に紛れてしまっている。見つめ合う彼女らには、押し殺した吐息は届かないだろう。
――来んなって言っただろうが、あのブス。
ほんのしばしの間のつもりで、執拗に己をつけ狙うネミル人の少年たちの追求から隠れていただけなのに、出るに出れなくなった。これでは昼食に遅れてしまう。薄い腹は食物を求めてきゅうきゅうと啼いている。このまま午後の座学に集中できそうにない。
奴隷兵の頭に、読み書きどころか唯一神についての知識を植え付け、無用な装飾で飾り立てるべく躍起になる宮廷人たち。彼らの思惑に――たとえわざとではなくとも――背いた少年に待ち受けているのは、鞭の一振りである。カヤトの背には、冷酷な微風を受け止めていない場所など存在していないのに、未だにあの撓りには慣れないのだ。
「それに、そんなことをしてしまったら、姫さまが陛下の言いつけを破ったことが知られてしまいますよ?」
「おかあさま、おこるかな?」
「お怒りになられますね。“今日はお部屋でおとなしくしていなさいね”陛下は姫さまにそうおっしゃっていましたもの」
親しげに身を寄せ合う少女たちは、赤く爛れ薄黄色の液が滲む蚯蚓腫れの痒みなど想像すらできないのだろう。だからこのように悠長に、言い換えればぐずぐずと過ごすこともできる。
燃える双眸が捉える少女の顔には、焦燥の翳りは落ちていなかった。
どうやらナタツィヤ女王は、お目付け役の責務を果たさなかった侍女を咎めもなしに赦すほどお優しい主らしい。羨ましいことだ。これがカヤト達ならば、まず間違いなく鞭か杖が振り下ろされる。ついでに食事も抜かれるのは確実だ。
もう、いい加減にここから立ち去らなければ。
育ち盛りの少年の、獣めいていて旺盛な食欲がひしめき合う食堂の混雑は戦場すらも及ばない。飛び交う給仕係とその他の奴隷兵の怒号と駆け引きを潜り抜け、望みの糧を掴むには労苦を要する。今日の主菜は牛肉の葡萄酒煮だ。飴色になるまで
たとえ数刻の後には消化され消え失せてしまう泡沫に等しいものであっても、カヤトは肉が好きだった。みっともなくがっついていると陰口を叩かれても、他者の生命の抜け殻を取り込めば身体が燃える。細い四肢に力が漲る。
「……いいもん」
「姫さま?」
「おこられてもいいから、おかあさまになんとかしてもらう」
鼻を啜る幼女と狼狽える少女を捨て置くのは気が引けるが、そもそも自分には彼女らを助ける義理などない。
なんか盗人みてえだな。
薄い唇から行き来する吐息ごと自嘲を押し殺し、じりじりと歩を進める。
「そこの奴隷兵」
だが少年の細やかな企みは、草を踏みしめる微かな足音を従えた朗々たる呼び声に妨げられた。
「か弱い少女と姫君の窮乏に手を差し伸べずして立ち去るなど、卑怯者のすることだ。麗しの女王に仕える騎士には相応しからぬ振る舞いだろう?」
揶揄いを装った非難に応じぬわけにはいかない。
「イングメレディ公」
左右を武装した奴隷で固め、自身も腰に剣を佩いた青年の逞しい眉が顰められる。女王の早逝した異母兄の唯一の嫡子であり、前王の孫息子として領地を治める現在の次期国王マナゼ。彼は、華やかな美貌で名高い叔母には似ていなかった。けれども王国の最盛期を築き上げた祖父譲りの力強い面差しと洗練された身のこなし、数々の武勇は宮廷の女官の心を惹きつける魅力を発している。
そして、次代の王に惹かれるのは女ばかりではない。国政のほとんどを大臣や異民族の夫に預ける女王に不満を覚え、王宮を辞したトヴィリ人やリニ人の官人たち。彼らは競ってマナゼの宮廷に
――西方で牙剥く狼。
穏健派の宮廷人が密やかに授けた渾名は青年の双眸の鋭さを引き立てている。
「あれは、もしや?」
「ええ、恐らくは」
マナゼは荒削りの風貌に野性味を付け加える顎鬚を撫で、右に侍る奴隷の青年の腰を引き寄せた。
褐色の項に黒い巻き毛を遊ばせる青年の面立ちは、くっきりと整ってはいるがこの地の民のものではなかった。
砂塵と灼熱の帝国カハクーフ。破格の勢いで版図を広げ、若き皇帝に率いられついには海峡を越えてペテルデの隣国の大部分をも手中に収めた黒き獣たち。彼らと王配が刃を交えるこのご時世に、カハクーフの流れを汲む奴隷を宮廷に引き入れるなど戯れが過ぎる。無謀を押し通して自身の権勢を誇示するにしても、もっと別の、要らぬ疑念を招かなぬ方法があるだろうに。
ふっと窄められた濡れた唇。親密に交わされる笑み。それらは宮廷で囁かれる「陛下の甥の悪癖」を思い出させるに十分な代物だった。
自身の容貌がその対象に選ばれるほど優れているなどと、己惚れるつもりはない。しかし熟れた果実よりも甘やかで濃厚な空気に当てられれば、どこかここではない場所へ駆け出したくもなってくる。
「ポズホル人奴隷」
まだ滑らかな顎を掴む指は太く硬い。こんなことは知りたくもなかったし、知る機会も欲しくなかった。
「お前、朝の訓練で私の奴隷を打ち負かしただろう? お前は小さいが目立つ顔をしているから、憶えていたぞ」
「お褒めに預かり光栄です」
「私の奴隷にもポズホル人はいるが……お前はどの系統だ? 純粋な草原の民ではないだろう? 目は細いが彫の深さが違う」
「……ええ。母はイヴォルカの生まれでした」
「そうか。やはりな。……しかし近くで眺めても珍しい、綺麗な顔をしている。叔母上のものでなければ、力づくででも私のものにするのだが」
つくづく今日はついてない。少年はこみ上げる衝動を噛み殺し、引き攣る頬を持ち上げる。
「……は、はあ」
マナゼの左の奴隷は心ここにあらずの態で空を仰ぎ、右の奴隷はにこやかにこちらを見守るばかりで、主の戯れを止める素振りはない。
「そんな顔をするな。冗談だ」
少年が穏やかな拷問から解放されたのは、右の奴隷が主の耳元で何事かを囁いた直後だった。
「左様でございますか」
「ああ。それより、」
しかしほっと安堵を吐き出したのも虚しく、新たな責苦が始まった。武人らしく節くれだった指は、真っ直ぐに足首を抑えて蹲る少女に向けられている。
「私の配下では色々と面倒が生じかねない。お前が宮廷医の許まで連れて行ってやれ」
青年は悪戯っぽく片目を瞑り、あどけない姫君を抱き寄せる。
「私は、叔母上に愛くるしい我が従妹殿を届けよう。これから叔母上や高官たちとの軍議が控えているのだ。丁度いいだろう?」
幼女は青年の逞しい腕の中でじたばたともがいていた。
「やめてー! はなしてよ、マナゼ! おかあさまが“マナゼはきょういくにわるいからちかよったらだめ”っていってたんだもん!」
「いくら叔母上の言いつけでも、人を謂われなく猥褻物扱いするのは慎むべきだぞ、アマラ。お前は王女なのだから、全ての民に対する慈愛と寛容の心を持たなくてはならん。無論、私にもだ」
「……えー」
これで、昼飯は食いそびれるな。
騒々しい一行を見送った少年の胸に湧いたのは静かな諦観だった。
「ごめいなさい。あの、わたしは、」
「煩い。ブスはせめて黙ってろ」
「……ごめんなさい」
少女のおずおずと気づかわしげな眼差しを溜息で蹴散らし、強張る背と腿に腕を回す。密着する柔肌の熱と重みは、柘榴の棘よりも鞭よりも耐えがたかった。
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