あなたのみことばは両刃の剣のよう Ⅲ

 地に叩き付けた雛罌粟を踏みしめても、返ってくるのは固い弾力ばかりで手ごたえがない。滾る怒りと屈辱の象徴を蹂躙しているという満足感が。

 執拗に踵を振り下ろす紅が柘榴の花弁であったなら。身を灼く熱も少しは冷めたかもしれないのに。

 物心ついた頃から、カヤトは赤を疎んでいた。燻る炎は、酒に呑まれて自分たちを売り飛ばした父への嫌悪から湧き起こるものなのかは定かではない。だがとにかくカヤトは、水鏡に映る己の双眸から宮殿の庭園に生える果樹の実りまで、一切の血の色を忌避していた。

『聖イェラーヴァさまの日に、赤い雛罌粟の花束をもらったの。とても綺麗だった』

 冬になれば雪と氷に閉ざされる貧村から売り飛ばされてきた母の、数少ない穏やかな思い出の中で咲き誇る野の花すら。一たび生温かな粘りが迸れば、薄れゆく生命の名残に酔いしれずにはいられないのに。

『わたしの故郷は寒くて、雪だらけで。だから、あの花が咲くと嬉しかったわ』

 実の両親によって無残にも摘み取られた母の初恋を彩る花が散り、一面の白に降り注ぐ。黄を帯びた儚い一片は、いつしか黒ずみ葡萄酒の滴りに変じて……。

 背筋に悪寒が奔り、ひしと両の腕を摩らずにはいられなかった。阻むものなど何一つない陽光を浴びているはずなのに、肌着一枚で雪の上に立っているようで。    

 眩い光が過去と現在を、夢と現の境を蕩かす。繰り返し繰り返し、数え切れぬほど荒れ狂う胸を引き裂いた幻の断片。舞い散る闇を浸食するのは、己が首から噴き出した――ああ、これ以上はもう戻らない。

 堪えきれぬ寒さに慄く骨ばった背を、細くとも固く引き締まった四肢を濡らす水分がなけなしのぬくもりを奪い取った。末端の感覚が消え失せた手足を引きずり、奴隷兵の寄宿舎に爪先を向ける。この宮殿に住まう者たちのほとんどは、それが自由人であろうとなかろうと、蛮族出の奴隷に施す慈悲など備えてはいない。だから、自分の身は自分の力だけで守らなければならないのだ。

「カヤト」

 背後から追いかけて来る澄んだ声もまた、深淵から浮かび上がる泡沫なのだろう。

「ねえ、待って」

 春の日差しのぬくもりと小川のせせらぎ。少女の澄んだ高音には時折、少年にだけに赦された、芯の通った清明さが混じる。少女と少年の狭間を行き来する、媚を纏わぬ凛とした響き。それはメゼアのものだった。

「――待ってください!」  

 少女の金がかった亜麻色の前髪は乱れ、秀いた額に張り付いている。小作りで可愛らしい鼻の頭に散る雀斑は、異国の血を感じさせる優しげな顔立ちをより親しみやすいものにしていた。柔らかな手に肩を掴まれると、鎮まっていたはずの鼓動が乱れる。

「先程は、姫さまがご無礼を……」

 大きな青紫の目は、一心に自分を見つめていた。平均的な高さの身長の彼女と、自分のそれが変わらぬことが腹立たしい。

「姫さまに悪気はないのです。なんせ、まだ幼くていらっしゃるのですから」

 健やかな薔薇の雫を垂らした乳色の頬は滑らかで、傷一つ見当たらない。青い布地に隠された皮膚も、殻を剥いた茹で卵のようだろう。夜明けの瞳を縁どる豊かな金茶の睫毛が忙しげに瞬くと、星の煌めきを思わせた。

「どうか、分かってくれませんか」 

「俺はあんたと違って、あんな子供の言ったことをいちいち気にかけるほど暇じゃねえよ」

 後れ毛がかかる項から立ち上る甘い匂いと、朝露に濡れた桜桃めいた唇が放つ瑞々しい艶。もぎ取られる寸前の果実から漂う香気。それらを退けるのは、カヤトにはあまりにも困難な仕事だった。

 やらなくてはならないと理解しているのに、手に付かない定め。処刑場に立つ死刑執行人の胸中とは、このようなものなのかもしれない。

「知りたいことが分かったらさっさと自分の居場所に戻れ。ここはお前がいるべき場所じゃない」

「……そうですね。あなたの言う通りです」

 曇りない瞳の青が翳り、深くなる。

「ありがとう、カヤト。そしてごめんなさい」

 本当は、揺れる熟れた小麦の穂を手繰り寄せ、華奢な肢体を引き留めたかった。

「……なに勝手なこと言ってんだ、あのブス」 

 彼女の耳に届くと分かり切っている暴言を吐き捨てるのではなくて。

 ――少年奴隷の血と汗が染みこんだ練兵場は、かつて処刑場であった。伝聞と焚書から逃れた僅かな書物を頼りに、往時の繁栄を偲ぶのみとなった神殿の聖なる樹は、全て燃え尽き大地に還った。なのに何故、また柘榴などを植えたのだろう。林檎でも杏でも、宮殿を華やがせるに相応しい果樹は他にも沢山あったはずだ。なのに何故、選りにもよって、艶やかな花の陰に悪辣な罠を潜ませた受難の象徴などを。

 淫蕩な裂目から覗く種子そのものの瞳でねめつけても、樹々は少年の心中など素知らぬ顔のまま。カヤトに要らぬ苦痛を味わわせる棘は鋭さを増すばかりで、いつまでも抜けない。刺さり続ける。

 乾いた幹に苛立ちをぶつけると、生い茂る葉はざわざわと擦れた。そよぐ緑と朱の対比は晴れ渡った青を従え、唯一なる神に与えられた鮮やかさを際立たせる。あえかな不安を呼び起こすまでに。


 少年奴隷には私的な空間など存在しない。流れる血や気質の違いなど一切考慮されずに、四、五人が放り込まれる一部屋の大部分は粗末な寝台に占拠されている。カヤトは乱雑に――半ば蹴破って扉を開く。すると、お世辞にも寝心地が良いとは評せない寝床から、見知った頭がのそりと這い出た。

 絡まりもつれ、飛び跳ねる毛先。エドヴィセは冬眠から覚めたばかりの熊のように目を擦っている。

「そんなに怒ってると折角の綺麗な顔が台無しだぞ」

 けれどもいつもの軽口を叩くことは忘れていなかった。

「黙れ殺すぞ」

 備え付けの水差しで姦しい口を封じる。「褒めてやってんのに」とのくぐもったぼやきは咽頭が目立つ喉まで押し戻された。

『カヤト。わたしのかわいい子』

 母は美しかった。そしてカヤトは母に似ている。だがカヤトは、自分の容貌が秀いていると感じたことは一度もなかった。カヤトは同世代の奴隷兵と比較すると小柄で、線が細い。見てみぬふりをしても決して逃れられない明白な事実は、劣等感を煽りはしても自尊心を育みはしない。

「お前も色々大変だよな」

 エドヴィセの顎から垂れる水滴を拭いつつ長い溜息を吐くのは、もう一人の相部屋の奴隷ニコだ。面倒見が良い彼は、がっしりと逞しい体躯とは裏腹に、ぼんやりと頼りないエドヴィセの面倒を進んで見ている。

 ――あいつは、俺の弟に似てるから。顔とかそんなんじゃなくて、雰囲気が。

 いつかの夜に、誰に乞われるでもなくニコがぽつりぽつりと零したのは、長い歳月を共有すれば嫌でも知れる事実だった。

 羊飼いの息子であったエドヴィセは、家畜が流行り病で全滅したためにきょうだいとともに親に売られた。ニコともう一人の同室のゼカリエは、人買いに浚われて奴隷の身に堕ちた。カヤトは、父の酒代を捻出するために。 

 ありふれた不幸と不運が渦巻くこの部屋で、最も馬鹿馬鹿しくて最も憐憫を施すに値する身の上を持つのは己である。それもまた、細く締まった足首を縛める重石であった。自分たちの上に立つ人間・・にならばともかく、同じ奴隷に憐れまれるなど。

「何がだよ」 

 きつく荒々しい語気に棘が生える。

「だってお前、変なやつらに目を付けられてるだろ? 俺がもしも“あんなこと”言われたら、ちょっとな……」

 しかし他者に向けたはずの剣は実態を備えぬ盾に弾かれ、少年の胸に突き刺さった。

「ま、頭がおかしい奴らのことなんか気にするなよ。適当に受け流しとけ」

「そうそう。あいつらガタイはともかく顔がいまいちだからな。お前のことが羨ましいんだろ」

 気休めを装って零された慰めは塩だった。ざらざらと傷口を抉り、ひりつかせる。

 背に重くのしかかる虚勢は脆く、呆気なくひび割れるのに、脱ぎ捨てることはできない。奴隷商に牽かれて寂れた戸を潜った九年前に、脱ぎ方を忘れてしまったから。

 異邦の女奴隷を母に持つカヤトは、故郷の山間の村でもやはり異物だった。奴隷の子だと囃し立てられ、嘲られていた。夏祭りナーダムにも招かれなかった。だが少なくとも、生来の容貌で嘲られることはなかったのだ。

 奥二重の切れ上がった吊り目は眦が裂けんばかりに見開いても、談笑する彼らの大陸中南部人らしいくっきりとしたものにはならない。

 ――あいつの顔、変だよな。

 ――ほんとだ。あんな細い目で、ちゃんとものが見えてんのかね?

 狐みたいな目の、みっともないチビ。カヤトを最初にそう呼んだのは、蒼き狼の末裔の故郷とは山脈で隔てられた草原地帯から馬を駆ってやってきた、白き豹の子孫たちだった。

 他国から売られてきたエドヴィセたちと、祖父母の世代に先々代の王の征服地から流れてきたカヤトには、奴隷であること以外の共通点がある。カヤトたちは、どんなに巧みにこの国の言葉を操り、風俗に慣れ親しんでも、純粋なペテルデ人にはなれないのだ。

 生まれながらのペテルデ人は概ね三つの系統に分けられる。トヴィリとリニ人とそれ以外だ。平野で畠を耕すトヴィリ人と山で羊を追うリニ人は、互いに見分けがつかないほどに混ざり合っている。しかし彼らは、この地に唯一神ではない神がいた遥かな昔においては、決して相容れぬ生物だった。 

 もはや神話に等しくなった五百年前、トヴィリ人はリニ人をけものとして使役していた。神の規に背いた圧制に終焉をもたらしたのは――

「あいつら、将軍と同じネミル人だからって調子に乗ってるからなあ」  

「ほんと! お前らがナタツィヤ陛下と結婚してるわけでもないのに、偉そうに。……そりゃ、アスラン将軍は強くてかっこいいから、誇りに思うのも分からなくはないけど」

「でも時々、イングメレディ公の私兵が羨ましくなるよなあ。あそこは、ここほどあいつらが幅を利かせてないだろうし」

 幌馬車をねぐらに草原を駆け巡る騎馬民族。ペテルデ西南部に住まうネミル人の祖の一つだったのだ。先の王の友人であり女王の夫でもある将軍を輩出したかつての蛮族は、自らを王国の柱だと称して憚らなかった。トヴィリ人とリニ人とネミル人。ペテルデという宮殿はこの三つの礎石によって支えられているのだと。

 天上に坐す身には瞬きのようであっても、卑小なる人間にとっては想像もできぬ途方もない歳月。全てを押し流す透明なうねりは、この熾火をも消し去ってくれるだろうか。

「だからカヤト、お前もちょっとは自信を持てよ!」

 骨が軋むほどに背を叩く手の温かさが、この時ばかりはありがたかった。ひび割れてもなお嫋やかな母の手とも、メゼアの柔らかで滑らかなそれとも違う、厚い掌のざらつきが。

「は?」

「その顔に産んでくれたお前の母さんへの感謝の証として、明日の昼飯の肉を俺とエドヴィセによこせ」

「……なんだそれ。ちっとも意味分かんねえし」 

 温かな笑みにつられたように破顔すると、ニコは不意に息を止めこちらを凝視してきた。九年前から欠かさずに――鼻血が出るまで殴り合った日でさえも眺めてきた顔に、今更物珍しいところなどありはしないだろうに。

「何だ?」

 自分のものより高い目線に真っ直ぐに挑む。先に視線を逸らしたのは、カヤトではなくてニコだった。

「お前、やっぱりもっと笑った方がいいぞ」

 豪快に開いた唇の隙間から覗く歯の白さは、柘榴を宿した虹彩に眩く映る。その不可解な事実もまた、時間だけがなせる魔術の仕業なのかもしれなかった。

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