あなたのみことばは両刃の剣のよう Ⅱ
跨る牝馬はひんひんと不安げに嘶いている。その艶やかな背をそっと撫でると、荒れた掌を通して彼女の怯えが伝わってきた。カヤト同様に蟀谷から雫を垂らした顔をした少年を乗せるのは、栗毛の彼女よりも大きな黒馬だった。数多の奴隷兵をその背に担いだ手練れは、年若く未熟な雌を悠然と見下している。自分がこれに負けるはずはないのだと、傲慢にも確信して。
――お前は、俺みたいになるな。
己に勝る者に立ち向かうには多大な勇気を要する。カヤトはそれを良く知っていた。雪深き山の麓で母と共に暮らしていた時分から今に至るまで、カヤトを虐げるのは常にカヤトを上回る者であったから。
彼らに、自分は上位に――カヤトを害する権利を有しているのだと確信させるもの。それは身体の大きさであったり、属する集団内での地位であった。柔肌の下に流れる血潮もまた、除外できぬ一因だろう。
朧な記憶の中でのたうつ父の、若干の青みを含んだそれとは異なる黒髪の少年もまた、冷え冷えと澄んだ眼でカヤトを見据えている。馬と同じだ。自分がこのような――小柄で痩せた、いかにもひ弱そうな体躯のカヤトに敗北を喫するはずがないと信じて疑っていない。その澄ました面を焦燥で歪ませたら、どんなにか気分が晴れるだろう。
引き締まった腹に長靴の爪先を食い込ませ、喝を入れる。この時、決して手加減してはならない。そうしたら馬は主人を見縊り、命令に従わなくなる。ただし、力に訴えすぎてもいけない。馬は敏い動物だ。もしかしたら、大部分の人間よりも。馬は人の心を敏感に読み取り、服従するに値せぬと判断すれば容赦なく振り下ろす。
――友に語りかけるように、だ。
漆黒の三つ編みを垂らした男が、珍しく赤らんでいない顔を崩す。カヤトと同じ赤い目の男は、所有する女奴隷や息子には蹴りや拳を与えるばかりだったが、有用な家畜にならば優しい言葉とやらを嘯けたらしい。
友に語りかけるように優しく、恋人の耳元で囁くように甘やかに。
「行け。お前にならできる」
ぴんと立った耳に湿った吐息を吹き込むと、だらりと垂れていた栗毛の首に闘志が漲ったように感じられた。
「頼むから、俺の願いを聞いてくれ」
カヤトの懇願は彼女の意に適ったらしい。柘榴の生垣に囲まれた練兵場を震わせる叫びは怯懦を脱ぎ捨てていて勇ましかった。
大昔の、適当に聞き流していた素面の父の気まぐれが、こんな形で役に立つなんて。当時は想像してすらもいなかった。父はあれでもやはり、性根は腐り果て蛆が湧いていたが、草原を制覇した騎馬民族の貴き裔。蒼き雌狼と英雄から伸びた誇り高き枝葉であったということだろうか。
少年と牝馬は、もはや一人と一匹ではなかった。種別や性の区分をも越え、二つの鼓動が一つになる。鋼の牙持つけものは、迷いなくもう一匹のけものに突進する。黒髪の少年は均衡を掴み、手綱を掴もうともがいた指先も虚しく大地に叩き付けられ――
息を整え逞しい背から飛び降り、くぐもった喘ぎを漏らした喉笛に白刃を突き付ける。鋭利な鈍色は日に灼けた皮膚を突き破り、噴き出した紅蓮を啜った。眦が裂けんばかりに瞠られた青い瞳の中で、驚愕が揺れている。
「……や、やめ」
奴隷兵の軍事訓令は通例、どちらかが馬上から転落すれば勝敗が喫する。なのに、どうしてこれはまだ剣を構えているのだろう、と。
「もう、いいだろ?」
交錯する眼差しから伝わる感情は、恐怖にすり替わっていた。
樹から落ちた蝉のようにばたつく手足を踏みしめ、少年の恐れを煽る。遠い昔、東方の草原からやって来たポズホル人。ペテルデを蹂躙し都を灰燼と瓦礫の山に帰しめた、残酷なけものの末裔は、男も女も、老いも若きも区別せずに逃げ惑う民に矢を放った。獰猛なけものは身籠った女の腹を裂き、乳房を抉って……。
白き山の麓の村の住人は一笑に付していた故事は、やはり馬鹿馬鹿しいの一言に尽きる。同じ村で生活していた彼らは、葡萄酒や馬の乳から醸した酒ならともかく人間の血液など、義兄弟の契りを交わす際以外は飲み干しはしていなかった。ましてや人間の肉など。他に食するに足る糧があるのだから、手を着けるはずがない。
偏見も正史に綴られれば真実になる。共通する血を持たない少年にとっては、確証のないこじつけも剣よりも鋭い武器になるのだろう。
カヤトより幾分か年嵩の少年の、凛々しいとすら評せられる目元には怯えが滲んでいる。それは喩えようもなく滑稽で、仄紅い口唇を持ち上げると、砂塵に塗れた面は一切の血の気を喪った。
咽頭の尖りを切先でなぞる。
「そこまで」
汚泥が絡んだ襟元を暴く昂ぶりを制し、死人同然に蒼ざめた唇に生気を取り戻させたのは、女の嫋やかな一声だった。
金糸や銀糸で、華美になり過ぎない程度に精緻な刺繍が施された衣服を纏う女の面に咲いた、紅き花がほころぶ。
「そこのポズホル人、見事でした」
豪奢な黄金の髪に縁どられた女王の美貌は、彼女の装いを凌駕していた。大国の思惑にその命運を左右される山間の小国に過ぎなかったペテルデを、大陸中部の覇者として君臨させた偉大なる王の末子。先の王が、峻厳なる峰を越えた北方の王国の都から兵を引く見返りに得た美姫の娘は整った眉を顰める。感嘆の吐息を漏らしたのは、未だカヤトの足元で這いつくばる少年だけではなかっただろう。
「しかし、少しやり過ぎですよ」
ナタツィヤは、母から華やかな容貌を受け継いでいた。そしてその麗しさは、三年前に親子ほども年が離れた夫との間に娘を儲けても変わりない。むしろ、母となってからより一層美しくなった彼女に、信仰にも似た忠誠を捧げる奴隷兵は少なくなかった。カヤトはその限りではなかったが。
「これは、これは女王陛下。本日も麗しくていらっしゃる」
厳めしい顔で配下の奴隷たちを指揮していた部隊の長が、貴石が縫い止められた靴に触れんばかりに身を屈める。
「そなたは相変わらず口が巧い。ですが、ひらひらと女官たちの間を飛び回っているばかりでは、空言のように響きますよ?」
「いえいえ、こればかりは私の偽りのない本心です。華のような貴人と愛らしい姫君の御姿は、このむさくるしい者たちの慰めになりましょう」
皺一つない絹をぐしゃりと握り締める幼女の頭に置かれた指の一本には、黄金の指輪が嵌められていた。
「この子が“おとうさまにあいたい”と駄々をこねるものですから、せめてと思ってこちらに連れてきたのですよ。アスランは、よくここで馬を駆っていましたから」
影のように女王に寄り添って離れない幼子の、大きな瞳は潤んでいる。熱い滴が利発そうな目元から零れ落ちていないのが不思議なくらいに。
「さあ、アマラ。お馬さんに乗せてもらいましょうね」
「――おとうさまといっしょじゃなきゃいや!」
カヤトの祖が緑の草の海を掻き分けこの国にやってくる遙か前。唯一神以外の神を崇めていた異端の時代を終結させた、伝説の女王の名を受け継ぐ王女は稚い。片手の指の数にも満たぬ齢の幼子に、王族としての思慮分別を説いても無駄というものだろう。
「おとうさまはいつかえってくるの? おとうさま、アマラがいいこにしてたらすぐにかえってきてくれるっていってたの、うそだったの?」
「嘘じゃないわ。でもアスランは、遠い所で戦っているから、アマラに会いたくても会えないのよ。……お父さまの辛いお気持ち、分かってくれるわよね?」
「……はい、おかあさま」
あどけない王女は、母とはまた違った意味で奴隷兵たちに愛されている。妹や親類の少女を思い出させる、と。しかしカヤトの心は、愛らしい幼女の悲痛な憤りでは微動だにしなかった。幾度記憶の澱に沈めても浮かび上がる面影を思い出させるから、子供は嫌いだ。女の子供は、特に。王女はネミル人である父譲りの銀灰の髪をしているからまだ我慢できるが、これで北方系の、女王と同じ金髪だったら、直視に耐えなかった。
――カヤト? ……へんだけど、いいなまえだね。
もはや過去にしかいない少女の面差しは、女王や王女ほど整ってはいなかった。人を微笑ませる愛嬌に恵まれてはいるが、せいぜい十人並みのやや上だと断言できる程度の、ありきたりな造作。だが二本の三つ編みは光に透かせば熟れた小麦のごとく艶めいていた。星々が瞬く夜明けを写し取った双眸はくるくると表情豊かで……。
「陛下、姫さま。こちらにおられましたか」
何より、彼女の口ぶりはこんなにも堅苦しくはなかった。
「メゼア!」
赤い花を携える少女の明るい亜麻色の髪は、光の加減によって金を帯びる。異国の姫君の輿入れの随員であった、北国の騎士を父に持つメゼア。彼女が亡き父から受け継いだ輝きは女王のものには劣るが珍かで人目を引いた。幼き日のカヤトがそうだったように。
「きょうのおはなもきれい。……ねえ、メゼア」
「姫さま。如何なさいましたか?」
幼い王女が姉と慕う女官に耳打ちすると、薄茶の斑点が散った顔が強張った。
「……そこのポズホル人」
宮廷には少なからぬポズホル人奴隷が集められていて、もちろんこの練兵場にもカヤトの「同胞」はいる。
「姫さまがお呼びです」
だが青紫の目は伏せられていてもなお真っ直ぐにカヤトに向けられていて、逃れられそうになかった。
馬と剣を操っていた先程とは打って変わって重い身体を引きずり、所有者の足元に跪く。
「これ、あなたにあげる。あなたのおめめみたいだから」
差し出された雛罌粟はだらしなくしなびていたが、花弁の紅蓮はなお鮮やかなままで。
「かみにかざるときれいだよ」
傲岸なまでに照りつける火球が、この花を燃やし尽くしてしまえば。そう願わずにはいられなかった。
「まあ、アマラ。この奴隷は男なのに、髪に花を飾るだなんて。可笑しいわよ」
「そんなことないよ、おかあさま。このひとかみがながいし、おかおがちょっとおんなのひとみたいだもん。きっとにあうよ」
背後で漏れる忍び笑いは、無垢な姫君の耳には届かなかっただろう。だが嘲りはカヤトの背を突き刺し貫いて、まだ平板な胸を掻き乱した。背に流れる長い髪を揺るがす風はなく、行き場のない恥辱と怒りは痩躯の裡で渦巻き腹の底に溜るばかり。
噛みしめた口元から滲む血の苦味と汗の酸味も舌を苛む砂のざらつきも、己を取り囲む全てが耐えがたい。だがカヤトには、感情の赴くままにこの場から立ち去る自由など与えられていなかった。家畜は飼い主の思うがまま。焼き印を押され軛に繋がれるのだと理解していても、その身を差し出さなければならないのだ。
「……わたくしのような卑賎の身には過ぎた光栄です、殿下」
穢れない指先に触れぬように、くたびれた野の花を押し頂く。
「ありがたく頂戴いたします」
双眸の色味を深める一輪を投げ捨ててしまいかねない衝動を押し殺しながら。
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