永遠の知恵の円形劇場

あなたのみことばは両刃の剣のよう Ⅰ

 柘榴の葉の緑と花弁の緋は、薄めた墨色の中に在っては異端だった。腰のほど近くまで届く一本の三つ編みは、解くと遙かなる東の果ての絵画の河のように豊かに流れる。少年にしては長い髪を手で梳いて整えていると、指先を掠めるものがあった。

 滴る血に濡れる柘榴の棘を引き抜く。噴き出した汗の珠に捕らえられ、首筋にへばり付いた一筋が不快だった。

 細められた奥二重の目は柘榴の実とそっくり同じ赤に色づいている。白い肌に灰の髪の少年を彩る唯一の鮮やかさ。陽に透かした葡萄酒の、磨きぬいた柘榴石の紅は、少年が最も厭うものでもあった。

 水鏡を眺めると、いつも思う。カヤトの面立ちは、細部はもはや朧になった母から譲られたものなのに、どうして双眸だけがあの父に似てしまったのだろう。

 凪いだ湖面に映る己は年の割には小柄で、髪を垂らしていることもあって少女のようだった。

 ――こんなどうでもいいことにうじうじ悩むなんて、それこそ女みたいだ。

 長靴の爪先に当たった小石を拾い、佇む「彼女」の顔面目がけて放る。嫋やかな眉が、細く吊り上がった目が、高く通った鼻梁が、仄かに赤い薄い唇が――カヤトを構成する造作が砕けて跳ねた。

 後ろ手で髪を編む。適当に交差させた束はみっともなくほつれているのだろうが、カヤトは女ではないのだから知ったことではない。結った髪の良し悪しに心を煩わせるのは女の仕事だ。少なくとも、かつてカヤトの最も近くにいた女はそうだった。

 遮るもののない初夏の陽光の眩さは腹立たしさを覚えるほどで、大樹の影を求めずにはいられなかった。泉の冷気と太陽の熱が蕩けた微風が枝葉を揺らす。

 新緑の合間から射す白金は柔らかい。剣胝と節が目立つ指が滑らかな白茶を撫でる。楢は少年の重みにあえかな悲鳴を上げた。しなやかな筋肉を纏った四肢が足場を探る。ごつごつとした樹は支えとなる突起には事欠かず、痩躯に耐えうる枝を見つけるのは困難ではなかった。樹皮の乾きを背で知ると、身を引き裂かんばかりの痺れが全身を貫いた。けれども少年は普段通りに、己が腕を頭の下に敷いて、雲一つない蒼穹を仰ぐ。

 ざわざわと若葉の天蓋を揺らす風が不自然な赤みと熱を帯びた頬を撫でる。あやすように細い顔を掠める幻の指は、母のものには似ていない。しかし緩やかに上下する胸の奥からこみ上げるのは、紛れもない懐旧だった。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 強引にもぎ取られた、二度と戻らぬ日々への未練ほど役に立たぬものはない。太陽から火を盗んだ英雄が繋がれた白き峰に抱かれた小村での歳月が、堅牢な城壁に囲まれたこの都で過ごした月日に越えられたのは三年も前なのだ。

 穏やかな闇の誘惑に身を任せ、頬に濃い影を落とす睫毛に囲まれた目蓋を降ろす。すると、どこかから懐かしい忍び笑いが忍び寄ってきた。

『ずっと見てはいけないわよ。目が悪くなるから』

 光明は、東方の常夏の国からやってくる。

『お父さまと同じね』

 炎を吐く馬に牽かれた、金剛石と緋の布で飾られた黄金の馬車に乗って。薔薇色の暁が巡るたびに生まれて、黄昏の帳が落ちるたびに年老いながら。

『わたしも東からここまで流れてきたのだけれど、お父さまは――お父さまの御先祖さまは、もっと遠くから……』

 疲弊した痩躯からしばしの安息さえも取り上げる囁きは止まらない。

『それはちがうよ。たいようは……』

 それは永遠の生命を齎すのだとカヤトに教えてくれた少女の髪は、熟れた小麦の穂だった。光の加減で黄金を帯びる煌めきが眼裏でちらつくのが腹立たしい。

 身の丈に合わぬ衣服の袖から覗く細かな擦過傷を照らす輝きが、微睡む少年を苛んだ。細い喉は乾きを訴えてひりついている。このままでは永遠の生命を得るどころか干し肉になってしまいそうだった。

 首の半ばまでを覆う襟を乱し、不愉快な湿気を追い出す。外気に晒された鎖骨の窪みに溜る汗を煌めかせるのは、水で溶いた蜂蜜のように滴る木漏れ日だ。少年は、成人した男の隆起は備えぬものの、引き締まって俊敏な野の獣の仔を思わせる肌を露わにしなかった。

 本音を言えば、今すぐに煩わしい衣服を脱ぎ捨て、頭から水を被りたい。あの青き淵に飛び込み凪いだ水面に波紋を広げれば、不可解に翳った胸中も幾分か晴れるだろう。だが長く豊かな髪を乾かすには多大な根気と時間を要するし、そうすれば午後の訓練に間に合わなくなる。カヤトは、ただでさえ癒えぬ古傷と打撲の爛れた痕に埋め尽くされた身体に、これ以上の苦痛を刻みたくはなかった。

 ――敵を飲み干せ。この葡萄酒のように。

 天頂に坐す光輝にとっては泡沫に過ぎずとも、幼き人の子にとっては永遠にすら等しい時に隔てられた午後から響くのは、当時既に国軍を率いる将軍であった王配の激。

 ――盾として民草を守り、剣となって襲い来る外敵を屠る刃となるのだ。

 市場に牽かれる家畜さながらに宮殿に連れられ、若き女王の――その頃ペテルデを統治していたのは、彼女の父である先王であったが――所有物となってもう九年も経つ。

 纏う衣服どころか、汚泥が挟まる爪の一欠けら、砂塵に塗れた髪の一筋すらも己の物ではない。あるいは、心すらも。粗末な寝台と三度の食事、王の支配から離れぬ限りの自由を保障された家畜は、調教された獣と同じだ。喩えるならば牧羊犬といったところだろう。野生と誇りを手放した獣は、飼い主の羊を害するどんな困難にも立ち向かわなければならないのだ。

 カヤトが父祖から継いだ蒼き狼の血脈は、幻の鎖を引きちぎられるほど強くはなかったのだ。これもまた無用の長物と言えよう。数百年前の大陸東部の覇者と同じ流れを汲む血潮は、女王と王国に捧げるためだけに存在を赦されている。でなければかつてこの地の民を虐殺し、都を略奪して火を放った蛮族の末裔など、とうの昔にこの都から駆逐されていたに違いない。

 ――あなたたち、オオカミの……。

 遠い昔のあどけない微笑みが、現在に切迫した過去の下卑た嗤いにすり替わる。

 ――犬なら犬らしく、尻尾振って鳴いてみろよ。

 奴隷兵である少年たちの、犬のそれと酷似した独自の社会。年齢や生地、属する民族ごとに徒党を組む彼らの輪からあぶれたカヤトは、孤独に辺りをうろつく狼だ。群れた犬は一匹の狼に勝る。

 蘇る恥辱は切れた唇の端から噴き出した。濡れた舌先で赤錆をなぞる。

「……っ、て」 

 傷は存外に深く、尖った犬歯が掠めるとくぐもった喘ぎが漏れた。この程度の痛みには慣れているはずなのに、蟠りは喉元に痞えていて嚥下できない。

 拳を埋め込まれた下腹部ではなく、脈打つ生命の源が軋むのは何故だろう。どくどくと、己が裡で反響する音色は、忙しない律動を奏でていた。カヤトを執拗につけ狙う年嵩の少年奴隷の一団に、生い茂る柘榴の影に引きずられていった半刻前のように。


「女でもあるまいし、髪を伸ばして何の役に立つんだか。……男でこんなに髪伸ばしてるの、陰間ぐらいだぜ」

 嘲る言葉とは裏腹に、物珍しげに――沙漠を行き交う駱駝の背か潮風孕む帆を掲げた船で運ばれる、舶来の絹や錦であるかのごとく、墨染の糸を撫でていた太い指。おぞましい体温が項を辿って胸元まで降りてきた途端、唇を割って飛び出したのは偽らざる心情だった。

「なに触ったかも分からねえ薄汚い手でべたべた触るんじゃねえぞ、豚どもが」

「……チビの癖に偉そうな口利きやがって」

「てめえらこそ、ブヒブヒブヒブヒ、馬鹿の一つ覚えみたいに喚きやがって」

 そうしてくれと頼んでもいないのに、カヤトを柘榴の花弁が降り注ぐ大地に縫い止める少年たち。彼らの双眸をぎらつかせる嗜虐。嘔吐を催す澱みを怒りに塗り替えるべく、隙を付いてふてぶてしい顎に爪先をめり込ませた瞬間。幾度となく味わわされた鞭の撓りは忘却の彼方に押し寄せられていた。

 背に奔る赤い痕は刻を追うごとにずきずきと疼く。のたうつ淡紅の蛇の牙から垂れる毒が、本来は滑らかな肌を灼く。糜爛しべたついた液が滲む裂目に沁みる雫の一滴一滴が、霞みゆく意識を嬲った。

 女の股の間でも舐めてろよ、クズどもが。

 父祖を共有する民にとっては最大限の侮辱となる暴言も、吐きかけるべき相手が目前に、あるいは己が足下にいなければ心中に虚しく響くばかりで。

 鋭利な犬歯を柔な口唇に突きたてもがいても、労苦は徒花となって散るばかり。

「――あなた、大丈夫ですか?」  

「……あ?」

 痛みに呻く少年を暗がりから引きずり出したのは、樹下から投げられた澄んだ囁き。重い目蓋をこじ開け、憶えのある――ありすぎる声の源を探る。真っ先に眼に飛び込んできたのは、カヤトの虹彩に勝るとも劣らない赤。そして盛りを過ぎた雛罌粟ひなげしを掴む華奢な白と、亜麻色の三つ編みだった。

「早く戻らないと、訓練に遅れますよ」

 カヤトの乱雑なそれとは対照的な、きっちりと編みこまれた二本が傾ぐ。少女の口調は十五を迎えたばかりの娘にしては堅苦しいが、労わりに溢れてもいた。大きな青紫の瞳に過る危惧と焦燥は、規律を破った奴隷兵に与えられる罰を知悉する者だけが発せられるもの。カヤトと同じく宮廷に住まう彼女は、幼い王女の侍女だった。素朴な野の花は、同盟国でもある西の隣国にて、異民族と刃を交えている父を恋い慕う姫君のために摘み取られたのだろう。

 選りにもよってこいつと会うなんて、今日はつくづくついてない。

「んなことぐらい、お前に教えられなくても分かってる。余計な世話だ」

「そう、ですか」

 舌打ちをして樹上から飛び降りると、あえかな悲鳴が静寂を破った。

「あ、危ないですよ、カヤト。あなた、具合が悪そうなのに、無茶をして」

 少女はつんと尖った可愛らしい鼻を中心に散らばる雀斑そばかすが目立つ面を顰めながらも、迷いなく少年に手を差し伸べる。

「うるせえ」 

 震える指先を乱暴に振り払われても、なお。

「大した用もないのに話しかけんじゃねえぞ、雀斑ブス」

「ごめんなさい。でも、」 

 暴言を浴びせられても、真っ直ぐに。

「“でも”も何もねえんだよ。ブスのしけた面見てると、こっちの気分まで悪くなる」  

 縋りつくような眼差しから逃れるべく、ふらつく脚を叱咤して疾走する。あの足が遅い少女がどんなに速く走ったとしてもカヤトには追いつけないだろうが、全速力で。

 程なくして姿を現した王宮の裏門。奴隷兵の宿舎を睥睨するようにそびえる石柱に刻まれた、零落した神の姿はいつも直視に耐えなかった。鶏の頭と蛇の足の彼を大事にしていた誰かの想いが、踏みにじられているようでならないから。 

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