彼方からの光 Ⅲ

 忍び寄る夜の、冷ややかな暗澹が入り混じる風が残照を映す泉を揺らす。茜の帳が降りた空を戴く地上は――かつて太古の森に守られていた泉の畔そのものが、葡萄酒の、血の、炎の紅に包まれている。己の物とも他者の物ともつかぬ血臭に覚えるべき忌避はもはや麻痺していた。

「……アリム?」

 掻き抱く女の胸から溢れる生命に押し流されてしまったのだ。温かな肢体からはいずれぬくもりが失われ、いまだ瞬かぬ星よりも輝く瞳は薄い目蓋に隠される。桃色の唇は二度と麗しい琴の調べを奏でず……。

「トゥミネさん」

 いずれ氷と化すであろう肉体を抱きしめる。古び、黒ずんだ血潮に塗れた頬に添えらえた手は冷たかった。徐々に重みを増してゆく柔らかさが胸を軋ませた。遠い昔、一面の紅蓮に囲まれながら、だらりと垂れ下がった四肢に打ちのめされたことがあるような気がする。姉の亡骸が林檎の樹の下に降ろされたのは、白々とした陽光が降り注ぐ午後であったのに。

 繰り返し繰り返し、濃い霧が立ち込める夢の中で、絶望を噛みしめながら抱きしめた女は既に生きていなかった。だがトゥミネの息は辛うじてながら続いている。

「僕、医者を、」

 激痛に苛まれているであろう肢体を降ろそうとした腕に、華奢な指先が食い込む。

「……いやよ。離れないで」

 潤んだ、けれどもどこか恍惚とした充足を滲ませた眼差しが少年の脚を縫い止めた。

「そばにいて。……さいごまで」

 おどろに縺れた髪に縁どられた白い面は砂塵に塗れ汚れている。滑らかな皮膚はいくつもの細かな擦過傷で損なわれていた。けれどもほころんだ微笑は、死の濃い影を吹き飛ばすほどに輝かしく、気高かった。この世を超越した、楽園に住まうどんな神々よりも。

 唯一神も救世主も彼らの左右に侍る天使たちも。この世の悪と女を創造した古の女神も、異端の神話の中でのみひっそりと生きる女神「智慧」も。この山間の地で崇められたどんな存在も、トゥミネには及ばない。少年の腕の中で死に逝く彼女は娼婦であり、その身は数多の男の欲望に穢されている。けれども魂は、双眸から流れる涙は、いつかの黄金の光弾く泉の水よりも清らかだった。

「どうして泣いているの?」

 トゥミネが暗黙の裡に指し示す望みを叶えるなどできそうになかった。誰よりも愛おしい者との永遠の別離を控えて、涙しない人間など人間ではない。

 ならばアリムはやはり人間だったのか。引き継いだ雪豹の王の血統を誇り張った胸の奥の臓器には魂が宿っている。ならば狂ったように鳴り響く鐘の音の源には、人間を人間たらしめるもう一つも宿っているのだろう。至高なる神に分け与えられた神性は心臓を住まいとし、死後罪深い肉の檻から解き放たれ天上の楽園に帰還するのだろうか。

 遡ること遙か一千年には及ばずともおおむね等しい古代の終焉と崩壊の折に、白亜の神殿と共に炎で清められた伝承は嘘偽りであるが、縋らずにはいられなかった。

『だ、大丈夫?』

 青い袖から伸びる幻の手に。苦悶に歪められながらも優しい笑みに。

 ――本当は、ずっとあの手を取りたかった。あの綺麗な手を汚すと悪いから、取らなかったけれど。

「……ねえ、アリム」

 己が頬に添えられた手には吹き出す赤がこびり付いていた。己のものと似通った、決して清らかとは評せぬこの手なら、掴むに躊躇いなどいらない。折れんばかりの力を込めて細い指先を握っても、末期の微笑は苦悶に翳らなかった。

 切れた端から垂れる雫で彩られた女の唇が紡いだ満足は虫の羽ばたきにすらかき消されんばかりだったのに、氷柱となって刃となって少年の胸を切り裂く。

「私、幸せよ。あなたを守ることができたもの」 

 トゥミネは既に受け入れているのだ。己が死を。抗いも嘆きもせずに。

「……あなたはひどい」

 全身の血の巡りを早め、鳴りを潜めていた裂かれた肩の激痛を甦らせる激情を知ろうともせずに。己がそうしたように、アリムもまた別離を受け入れるだろうと。もはや己はアリムには必要のない存在なのだと、身勝手に判断して。

「どうして、いつも!」

 彼女の鈍感さが、永久の別れを目前にしなければ言葉にしようともしなかった自分の不甲斐なさが憎かった。言わずとも察してくれるだろう、と信じて裏切られたのは一度だけではないのに。どうして同じ失敗をしてしまうのか、自分でも分からない。

 噛みしめすぎた唇から生じるひりつきは、嘆きの鞭に打たれる痛苦に比すれば痛みではなかった。

「僕は、あなたとずっと一緒にいたかったのに」

 言わなければ分かってもらえないのなら、何回だって言ってやろう。たとえ飽きられても。もういい、と溜息交じりに制されても。

「神さまも誰もいない、僕たちだけの場所で、ずっと――」

 あなたこそが我が半身。誰よりも愛おしい者なのだと。

「……アリ、ム」

 この身を構成する血肉を育む糧を、己が肉体を削ってでも分け与えてくれた父母も、同じ生命を分かち合うきょうだいたちも、もういらない。彼らと同じ場所に還りたいとも思わない。

 涼やかな風に擦られた楢の葉の囁きは悲しげだが、アリムにとってはそれは既に塵ほどの価値すらも持たなかった。この、腕の中の女と比較すれば。

 いつ抱え込んだのかすら判然とせぬ、もはや魂の一部となっていた蟠りを吐き出す。

「あなたがいない世界で生きていけるはずがない!」

 やっと、言えた。

 こみ上げる奇妙な達成感と熱情は、新たな雫となって眦から溢れる。まろやかな曲線を辿る滴は、伝い落ちて薄紅の花弁を濡らした。呆然と瞠られた眼から零れる感情の欠片をも。

「私、ずっと、勘違いを……」

 あえかな、ほとんど吐息同然の悔恨が齎したのは幸福だった。ようやく分かってもらえたのだ。己の真の、唯一の望みを。命を捨ててでも手に入れたかった希求を。

「……ごめんなさい。ごめんね。……ごめん」

 泣きじゃくる女の面は歪み、少女の無垢な悲嘆を刻む。少女は慈悲深い少年に移り変わり、そして再び少女を経て女に戻った。

「ごめんね……」

 嗚咽に遮られ形にされなかった連なりは己が名でしかありえない。なぜなら尊い瞳は、己のみを見据えているから。止めようにも止められぬ喜びと悲しみを両の眼から迸らせるアリムを。

「……やっと、分かった?」

「……」

 もはや喉を震わせる気力すら惜しまなければならなくなってしまったのか。トゥミネは僅かに首を下げ、口元を緩める。が、儚い微笑はすぐに散らされた。

「う、ん。……ほんとに、」

「もう、いい。……喋らないで」

「でも、」

 悲壮な決意に寄せられた眉根を撫でても彼女は承服しなかった。もう謝罪はいらないのに。

「もう、ほんとに、いいから、」

 涙に洗われた面に頬を添える。華奢な頤を持ち上げる。淡く開いた唇に、己が唇を重ねる。ただ舌を動かすだけでも激痛に苛まれるであろうに、謝り続ける頑固者を黙らせるには言葉を封じるしかない。

 噎せ返る血の鉄錆の臭気が懐かしく愛おしい。伝えたくとも伝えきれなかった想いを分かち合うには、一度では足りなかった。

 親鳥の嘴に挟まれた蚯蚓を突く雛のように、互いの歯に挟まれ、切れて鮮血に塗れた亀裂に亀裂をぶつけていると、啜った血液で強張った布が張り付いた背に腕が回された。押し付けられた唇は柔らかかった。不器用なくちづけを交わす至福は蜜よりも甘かった。

「うれしい。……こんなの、はじめて」

 どちらのものともつかない囁きを吹き飛ばす透明なうねりはその勢いを静めている。梟の囀りも狼の遠吠えも轟かぬ、静寂に包まれた畔は急速に暗黒に呑みこまれつつあった。

「ずっと、待ってた」

 震えたのはトゥミネの唇であったが、吐露された想いはアリムのものでもあった。自分たちはずっと待っていたのだ。互いが互いを。交わした約束を叶える日を。

 この畔には柘榴も、満天の星空もない。けれどもそれは些細な、気に留めるに値しない差異だった。自分たちが本当に欲していた居場所は互いの腕の、心の、魂の中なのだから。

 狂おしい奔流を分かち合うために啄んだ花がほころぶ。

「でも、これからは、」

 万感の想いを込めて首を振ると、あどけない笑みが返ってきた。  

「ずっと、いっしょに……」

 与えられたのはずっと欲しかった答えであり誘いであった。少年は息絶えんとする肉体を抱きしめる。そうすれば互いの身が溶け合うと、二つが一つになれると思ったのだ。二つが一つになれば、もう永遠に離れずに済む。

 鋭利な爪が柔肌を突き破り、脆い骨が悲鳴を上げるまで。這う汗に冷やされた背筋が戦慄いた。勢いを取り戻し吹き付ける大気は既に冷たい。

 ――分からない? 私たちは、もう……。

 幻にしてはいやに鮮明な笑い声と湿った呼気が耳朶をくすぐった。降ろしていた目蓋をこじ開ける。霞む視界で真っ先に確認した唇は、胸は既に動いていなかった。まだ温かいが、トゥミネは亡骸になったのだ。

 大地に食い込ませた指が弛緩する。砂塵でざらついた指先で触れても、細い眉はもう顰められることはない。

 最期の泡沫のぬくもりを求めて重ねた唇は既に冷え切っていたが、かつて幾度となくこの身と魂を千々に引き裂いた悲しみに襲われはしなかった。自分たちは既に一つになったのだから。

 ――ねえ、連れて行って。

 まだ仄かなぬくもりを残す花弁が蠢いたのは幻想に過ぎないが、アリムは彼女の願いを叶える。トゥミネが、自分が目指した場所。神すらもいない、自分たちの他には誰もいない幸福の在り処に往く。アリムが往かなければトゥミネも往けないから。

 ――今度こそ一緒に、往こう。

 そこがどこにあるのか。どうすれば辿りつけるかは既に分かっている。こんなに近くに在るのに、どうして分からなかったのかが不思議なぐらいだ。

 黄昏の茜と青紫は既に去っていた。夜の漆黒を湛えた水面はたった一つの幽き、けれども煌々とした星芒をも映していた。遠い遠い天空からの、雲間から覗く遙かなる光を。  

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