彼方からの光 Ⅱ

 赤みがかった光を弾く毛髪は艶やかな褐色に煌めき、虹彩は糖蜜を湛えて輝いていた。目を眇めずにはいられないほどに眩く。

 曇天の厚い面紗の陰に隠れていた朧な白金を脱ぎ捨て紅玉のごとき赤に袖を通した太陽さながらに、光の加減によって纏う色彩を変える女がこの世の誰よりも愛おしい。

「……少し、待ったわ」

 不満げにつんと尖らされた唇の下の小さな黒子をそっと撫でると、柔らかな声が降ってきた。

「でも、怖くはなかったわ。……あなたはきっと来てくれるって、信じてた」

 春の陽光に温められた泉のような微笑みへの思慕を堰き止められるのは困難だった。ひたひたと押し寄せる奔流に身を任せ、細い身体を楢の幹に押し付ける。

 トゥミネは、言葉にせずともアリムの欲するものを察してくれた。あるいはそれを望んでいたのは彼女も同じだったのかもしれない。記憶の澱から浮かび上がっては弾けて消える泡沫に閉じ込められていた少女の面影。頬を染め、何かを待ち望むように目蓋を下ろした彼女の願いは結局叶えられなかったが、今この瞬間掻き抱く女の希求に応じることはできる。

 自分よりも背が低いアリムを慮ってか。そっと屈められた背に片手を、無垢な少女の桃色に染まった頬にもう片方を添える。温かで秘めやかな息が通う、湿った花弁に己がそれを近づけた。ただそれだけなのに、全身の血が滾って汗が噴き出した。

 茹だった頭は一切の節制を放棄し真実に従えと囁くのに、脚は萎えて力が入らない。僅かにでも気を抜けば、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。だが、ここですごすごと尻尾を巻いて逃げ去るのは男ではない。異変を感じてか不安げに瞬く女の、甘やかな眼差しに捕らえられる。

 静寂を破る銃声が轟いたのは、迸る想いを伝えるべく、なけなしの勇気を振り絞って淡く開いた唇に己のそれを重ね合わせようとした寸前だった。 

 茂る葉の陰で身を寄せ合っていた小鳥の羽ばたきと囀りはけたたましいが、周囲に垂れ込める暗雲を押しのけはしなかった。

「――まさか、」

 紅潮していた頬を蒼白に染めたトゥミネの、アリムに柔らかく委ねられていたはずの身体はたちまち硬く強張る。眦が裂けんばかりに瞠られた目は、アリムの肩の向こうの叢を見据えていた。繁茂した藪を掻き分けこちらに近づくのは、大型の獣なのか。

『ここから、』

 少女の甲高い啼泣が蘇る。もしも茂みに潜むのが屋敷からの追手であったら。たとえそれが親方であっても、アリムは彼を屠ってでもトゥミネを守ると誓った。あるいは、現れるのが遠い遠い故郷の村で痩せた畑を耕しているはずの父母であっても。

 戦慄く女を背に隠し、牽制の唸りを発して敵の出現を待つ夕暮れは永遠に続くようにも感じられた。夜闇が入り混じる風は、火照った頬には涼しすぎる。やがて生え際から滲み睫毛に絡め取られた汗に苛まれた視界に飛び込んできたのは、見知らぬ二人の男だった。

 浮浪者同然の、薄汚れた身なりの彼らの片方は短剣を、もう片方は銃を握っている。

「中途半端な髪と瞳に、口元の黒子。……こいつで間違いはねえな?」

 短剣を無造作に宙に放っては掴む男は、彼よりも見苦しく、彼よりも焦燥に歪められた形相の、彼よりも血走った目をした、あからさまに狂人と見て取れる男に語りかける。

「これこそ我々に破滅を齎した、浄化すべき女だ」

 熱に浮かされた病人のごとく喚く男の憎悪は、アリムに――正確には、アリムの背後のトゥミネに注がれていた。

「ようやくこの女に然るべき鉄槌を下すに相応しい時が訪れた。幸運にも、邪魔の入らぬ場所で。……これこそ神の思し召しだ」

「――ああ」

 アリムは彼らを知らないが、トゥミネは彼らとの面識があるのだろう。彼らが自分を探してこの泉の畔にまで足を運んだ理由も、察しているのだろう。項にかかる吐息はしめやかに慄いている。

 ずるずると崩れ落ちた、冷え切った肢体を抱きしめた少年に投げつけられたのは嘲笑だった。

「ガキを、しかも女を誑かして逃げる、か。……お前たちにはたまにその趣味に走るヤツがいるとは聞いていたが、正気の沙汰とは思えねえなあ」

「……てめえ、」

 肉体を覆う衣服はともかく属する性を取り違えられた屈辱が、何よりも大切な女を侮辱された憤怒が理性を押し流す。短剣を構えた男に跳びかからんとしたアリムを留めたのは、細かに震える嫋やかな手だった。

「だめよ。……殺されてしまうわ」

 揺れる榛の先にあるのは斜陽を弾く刃ではなく、不気味な沈黙を守る金属の筒だった。鉛玉にはどんな獣も勝てはしない。

「……あなたは、逃げて」

 懇願とも哀訴ともつかない文句とは裏腹に、トゥミネの腕はアリムの背に回されたままだった。

「なに、言ってるんですか……?」

 窮地に追い込まれたトゥミネを見捨てて自分だけが生き延びるなどいう卑怯な真似をできるほど、身の裡で渦巻く想いは卑小なものではない。それはトゥミネも分かってくれているはずなのに、伝わっていなかったのだろうか。ならば彼女が理解してくれるまで、何度でも伝えよう。肌から心に、魂に染み入るまで、アリムは彼女の側に在り続ける。

「……僕はあなたから離れません」

 乱れた髪を掻き分け、整った耳殻に決意を吹き込むと、翳った双眸は星の煌めきを取り戻した。

「……アリム」

 幼子のごとくしゃくり上げる女の涙を拭い、塩辛い目元に唇を寄せる。

「――何という穢れた女たちだ。浄化しなければ」

 だが狂人が構える武器から憤怒と侮蔑が籠った弾が放たれ、楢の幹を削り夕闇に吸い込まれるやいなや、華奢な手は少年を突き飛ばした。

「……違うの」

 掌に食い込ませた爪から血を垂らし、物々しい男達に立ち向かう女は聖女よりも女神よりも神々しかった。

「……この子は何も知らないの。私が騙しただけなの。……西に往く船代でも巻き上げた後は、こんな子供の相手をするなんて鬱陶しいだけだから、捨てようと思ってたの。だから、」

 震え、途切れ、もたつきながら紡がれたのは、あからさまに虚実と判ぜられる計画だった。噛みしめられた唇が、拳が、不甲斐なくもへたり込んだ少年に寄こされる沈痛な眼差しが――男達をねめつける女の全てが、真実を教えてくれる。

 トゥミネは嘘が下手なのだ。感情を押し殺すのには長けていても、欺くことはできない。そう遠くないいつかの予想は的中していた。

 ――もういいから、もう分かったから、もう何も喋らないで。

「私はあなたたちに殺されても仕方がないことをしたけれど……」

 細やかな睫毛を伏せ、壁画の聖女と見紛わんばかりに荘厳な面持ちを洗う雫は透明だった。水晶よりも、泉の清らかな水よりも。

 涙に濡れ説得にはならない説得を断ち切ったのは、退屈と嗜虐がありありと滲む嘲笑だった。

「そうか。だったらお前はこのガキがどうなってもいいんだな?」  

 女二人・・・など脅威ではないと見くびったのか。片割れに命じて鉛玉を浴びせるでもなく、男は短剣を弓矢代わりに少年のか細い項に投げつける。避け損ねた刃は右手の肩を抉り、乾いた大地に突き刺さった。

 自ら獲物を手放すなど、なんて愚かな。

 嘲りに吊り上げた口元を噛みしめ、叫び声を封じる。この男達に自分の弱みを聞かせたくなかった。トゥミネを心配させたくなかったから。こんこんと溢れる血の滑りは指の合間から滴り心臓を守る肋骨をも超え、下腹までをも濡らす。世界が赤く染まっているのは黄昏刻であるからでもあろうが、それにしても赤すぎた。

「随分と元気なお嬢ちゃんだな。まるで男みたいだ」

 激痛に耐えかね、傾いだ肢体に、成人した男の重みが振り下ろされる。残忍な踵に鮮血滴る傷口を暴かれると、幼くも引き締まった四肢はびくりと跳ねた。

「――やめて! この子は関係ないって言ったでしょう!?」

 男は自らの足元に縋りつくトゥミネを蹴飛ばし、その細い背を踏みしめた。アリムの耳はくぐもった喘ぎを捉えたのに、身体は指一本動かない。

「……こんなことをするぐらいなら、この子をいたぶるぐらいなら、私を殺してよ……!」

 霞む世界で鮮明なのは、自分を救わんとする悲痛な声。

「……髪が短いのはなんでなんだ? もしかして、この女とヤってるのを見咎められて刈られでもしたのか? もったいねえなあ」

 赤黒い体液で汚れた髪を、頬を、唇を弄る不快な指先だけだった。

「お嬢ちゃん、あと四年ぐらいしたらいい女になりそうなのに、ここでこいつと死んじまうなんてなあ」

 堪えに堪え、溜めに溜めた激情が爆発した。ひたひたに酒杯に満たされる葡萄酒を溢れさせる最後の、決定的な一滴は、己ではなく守るべき女に突き付けられた終焉の宣告だった。

「……そこの哀れにも道を踏み外した子供はともかく、お前だけは私の手で浄化してやろう」

 臭気漂う汚物にでも相対しているかのごとく顔全体を顰め、上体を起こした女にぽっかり開いた深淵を向ける男の指は既に引き金にある。この狂人の決意を鈍らせ、ほんの僅かにでも注意をトゥミネから逸らすには、何をすればよいだろう。

 己が口元ではおぞましい肉が蠢いている。これを喰らい、生命を啜れば、失った活力を取り戻せるかもしれない。情動の流れが禁忌を粉砕し押し流すに要した刻は、瞬きよりも短かった。

「――い、やめろ! 離せ!」

 鋭い歯で挟み、噛みちぎった一本を咀嚼する。肉を割いた犬歯が骨に当たると、腹の奥に潜んでいた渇望が鎌首を擡げた。細かな肉片の舌触りは胃の腑を縮こませ、嘔吐感を催させる。

「このガキ!」 

 けれども迸る悲鳴は心地よく、アリムはついにそれを嚥下し我が物とした。他者から奪った、人間の肉を。勝利への恍惚は痛苦を薄れさせる。

 血で彩られた口元を吊り上げ、親指の喪失に呻く男の鳩尾に踵を食い込ませる。仰向けに倒れ伏した男に跨り、空白の隣の二番目の関節までを咥えると、獣じみた双眸は恐怖で支配された。

「化け物だ。……人間じゃねえ」

 あながち外れてもいない罵りは、すぐに絶叫に変じる。泡を吹き、失禁して安楽に逃れた意気地なしにはもう用は無い。あらん限りの血を啜り、己と他者の血潮を浴びたけものは、不遜な筒を構えた男に突進する。

「……アリム」

 怯え、けれども甘い期待を込めた声で己が名を呼ぶ女を助けるために。

 仲間の生命に塗れた豹に狙われれば、人間ならば使命などよりも己が命を優先するだろう。だが狂人は、犬歯に肩を噛まれても、銃を下ろさなかった。

「ネミル人の子供……汚らわしいけだものの裔」

 垢で黒ずんだ布地ごと、腕の肉を噛みちぎられても。鋭利な爪を皮膚の下に潜む生命の管に突き付けられても。

「お前は私を喰うか? それも良かろう。だが、」

 狂気と執念が炸裂する音は金属質で、耳障りだった。もみ合ったために多少軌道は乱れたものの、鉛はトゥミネの心臓を貫いた。

「私は道連れにこの女を地獄に送ろう。――これからはせいぜい悪魔相手に腰を振るといい、売女」

 狂人の吐息は途切れ、射抜かれた胸からは柘榴の粒のように、葡萄酒のように紅い飛沫が飛び散る。

「――トゥミネさん!」

 少年の咆哮にも揺るがぬ水面に映る太陽は稜線の彼方に堕ちた。抱き起した女の胸からは、夕映えよりも赤い雫が湧き出ていた。

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