彼方からの光 Ⅰ

 大空は瞠られた少年の水色とはかけ離れた灰色を纏っていた。厚い、今にも雷鳴と豪雨を垂らしかねんばかりの雲は陽光すらも通さない。間近に控えた黄昏の沈んだ赤が混じる薄暗さは、庭園でほころぶ春の盛りの喜びをも翳らせた。鉄の門にほど近い外れにひっそりと佇む白と赤の牡丹一華アネモネは、過ぎ去りし秋に親方の指示でアリムが手がけた花壇からは遠く隔てられている。

 風に運ばれたのか、あるいは誰ぞの気まぐれによって蒔かれたのかは分からない。だがこの花はいかにも儚げな風情の下に毒を隠し持っているのだ。茎を手折れば滲み出る汁は皮膚に水泡を生じさせ爛れさせる。二年前に身をもって得た知識は、細くなよやかな緑を挟んだ、砂塵に塗れた指先を萎えさせた。

 万が一にでもトゥミネが毒に触れ、あの美しい指先が損なわれてしまったら。優しい彼女は恐らく笑って許し、自分の無知に一切の責を帰すだろうが、アリムは自分を叱責せずにはいられないだろう。曇天の下、どこか煤けたような白は痛みと引きかえに愛でるに値するほどではない。風にたなびく花弁などよりも、天を覆う鉛を引き裂く優美な群れ――空舞う白鳥の方がまだ良い。

 あの鳥はどこに行くのだろう。少年は誇り高く力強い飛翔に魅入られ、嘆息する。爪も牙も脆弱な肌を守る毛皮も備えぬこの身には、東方の山脈の雪豹の王の生命が流れている。

 人間と動物の婚姻。唯一神の教義では否定され嘲笑され、実践すれば火刑に処される交わりから生まれたとされる民は、大陸の東方の各地に散らばっていた。蒼き狼の腹から生まれた民もいれば、白鳥の衣を脱ぎ去った乙女を母に持つ部族もいる。遙かなる虚空を揺るがすあの翼は、いったいどこを目指しているのだろう。どこに還るのだろう。

 雪と見紛う純白を掴まんと伸ばした腕は、嫋やかな手に捕らえられた。

「……何を見ていたの?」

 侘しさとも焦燥とも羨望ともつかない、あらゆる感情がせめぎ合う瞳は頭上の空を宿した灰色だった。夜明けの森の泉に立ち込める霧の、沈み憂いを帯びた色彩が嵌めこまれた面は鳥の羽のごとく白い。結い上げもせずに背に流された黒檀の髪とあどけない表情は少女のものだった。

「あの、白鳥を」

「……そう」

 戦慄く肢体に己が熱を与えんと抱き付くと、穏やかな――花の匂いで誤魔化されぬトゥミネ生来の香りと、塩辛い涙の匂いが胸いっぱいに広がった。赤く柔らかな頬に降り注ぐ雨の源は雲ではない。雲と似ていながら遙かに崇高な双眸の、濡れた縁を指先を伸ばす。背に回された腕には息苦しさを憶えるまでの力が込められていた。

「ねえ、アリム。あなた、七日前のことを覚えている?」

 紅を乗せぬ、生来の可憐な桃色が震える。

「……はい」

 とうに忘却の彼方に押し去っていた、意識して目を逸らしていた傷はすっかり瘡蓋で覆われていたが、いまだ癒えてはいなかった。

 浅いが広い擦過傷をトゥミネがほじくり返す意図はともかく、あの日は彼女にとってもまた大変な日であったことはぼんやりと察していた。甘く重い眠りから解放されたアリムの視界に真っ先に飛び込んだのは、潤んだ眼差しが神聖でありながら蠱惑的な女の横顔だった。

 以来、イリセに差し出された紅茶を啜っていてもアリムが側にいてもどこか心ここに在らずで、しかしアリムをひたと見据えていた女の、定まっていなかった視線が固まる。

「私は、あなたと一緒に行きたいところがあるの」

 不安げに噛みしめられた唇から零れ落ちた紅い珠よりも、アリムは頑なな決意を秘めた毅然とした口調に驚かされた。

「そこがどこにあるかなんて分からないわ。もしかしたらずっとずっと――死ぬまで探しても辿りつけないかもしれない、幻のような国よ」

 少年を戒めていた腕が緩む。肩口に凭れた小さな黒紫の頭から漂う香りと、肌を濡らす涙と呼気の湿り気は僅かながらのむず痒さと戸惑いを凌駕する喜びを喚起した。彼女はようやく言ってくれるのだ。

「……あなたがここでの生活やご家族を捨てられるほど、私は価値ある人間ではないことは分かってる。あなたよりも十歳も年上だし、娼婦だし……」

 その面を拒絶への恐怖で引き攣らせ、口元に自嘲を刷きながらも。

「でも、もしもあなたが私の手を取ってくれるのなら――」

 深淵から立ち上る靄に包まれ曖昧な、遠い昔から待ち望んできた言葉を。

「私は、世界で一番幸福な女になれるわ」

 お前が持つ他の全てのを捨てても自分を選べ、と。アリムにとっての幸福を尋ねもせぬまま身勝手にも決めつけ、身を退こうともせず。愛おしい存在と引きかえにするなら要らなかった、求めてもいなかった救済を垂れようとするのでもなく。

 歓喜の光に焼き尽くされた脳裏で微笑む過去たちが囁いた。

 ――抱きしめてやればいい。

 幼き日に、林檎の樹の下で横たわる女にしてやれなかった分も。身の裡から押し寄せるありったけの愛おしさと喜びを伝え、分かち合えと。

 躊躇いなく引き寄せた女の胸の奥に潜む臓器の脈拍が、肌から肌に染み渡った。このままでは働き過ぎて止まってしまうのではないのか、と恐怖してしまうまでに忙しない鼓動が己と彼女のどちらから響いているのかは既に判然としなかった。トゥミネと自分が一つになったようだった。

 世界から自分たちの他の一切が消え失せてしまったのかと錯覚してしまうまでの、完璧に調和した静寂。欠けるものなどなにもない完全を彩り壊すのは、強風に煽られた一片だった。赤い赤い花弁の優雅な舞に見惚れたのはアリムだけではないらしい。

「きれい」

 鮮血とも火の粉ともとれる紅蓮を掴もうと伸ばされた指に己が指を絡める。

「そんなのより、もっといいのがありますよ」

「あら、どんなのかしら?」

「トゥミネさんも知ってるでしょう? 割ったらお金や宝石や宮殿が出て来る、魔法の柘榴の……」

 ――あなたと僕が・・・・・目指す場所には、きっと。

 緩やかに波打つ豊かな髪を掻き分け、露わになった耳朶に息を吹きかける。

「あの花を追いかけて行けば、見つかります。……だから、」

「……ええ」 

 トゥミネ以外にはどんな者にも、それこそこの世の全てを支配する唯一神にすら聴き取れぬ小さな声で紡いだ約束。その待ち合わせの場所は、彼女ならば明示せずとも分かってくれるだろう。

 神話と化した九百年前。聖なる果樹に守られていた神域は焼き払われ、この世の悪を生み出した女神が住まう太古の森は拓かれた。そうして人間とけものの領域が一つになっても、変わらずにそこにある清らかな畔。不変を積み上げたはずの城門が破壊されてもなお損なわれなかった水面と、そこで踊る黄金の輝きと楢の大木に別れを告げずには、自分は一歩も進めない。

 肉体は自分の物ではないぬくもりを惜しみつつもどちらからともなく離れたが、心は繋がっている。

「……じゃあ、行くわね」

 見えぬ蒼穹を模した青の裳裾は生温かなうねりを孕んでいた。膨らんだ裾を手で押さえ、はにかむ女を呼び止めはしない。彼女と自分はこれから死が互いを分かつまで共に在れるのだから。しばしの別離はそのためには不可欠な準備。たとえ掌ほどの小袋すら満たせぬはした金や擦り切れた衣服でも、長引くであろう旅路においては必要になるだろう。

 はやる心を宥めるべく、深く深く息を吸う。肺腑がはちきれんばかりに、もう堪えられないと悲鳴を上げるまで。

 狩りは得物の喉笛に牙を食い込ませて終わりではない。仕留めた肉塊を巣穴に引きずり込み、柔らかな肉を咀嚼し迸る生命を啜り己が一部とするまで警戒を解いてはならないのだ。油断と慢心は元来は俊敏に大地を駆る四肢を重くし、爪を鈍らせる。だからアリムも、無事に己が荷を纏めこの屋敷から脱出するまでは野の獣にならなければならないのだ。飢えて今にも息絶えんばかりの、けれども用心深く叢に隠れ、獰猛に目を光らせている豹に。

 獣には及ばずとも常人よりははるかに鋭い聴覚は、樹々の葉を擦るしなやかな気配を捉えた。

「……アリム!」

 白茶の仔猫を従え、令嬢に相応しい淑やかな振る舞いなど教えられていないかのように駆け寄ってくる少女の愛くるしいはずの面は、激痛に苛まれ歪んでいた。

 捲れた裾から覗く白く真っ直ぐな脚の軸がぶれ、精緻な刺繍が施された布地が砂塵に塗れる。けれどもカトゥラは、膝を血で汚し、鼻を啜りながらも走ることをやめなかった。

「……あげるから!」

 可愛らしいはずの令嬢の形相と気迫は、少年の脚をしばし縫い止める。

「飴でも肉でも服でもお金でも、あんたが欲しいだけあげる。今までのことも謝るわ! だから……」

 噛みしめすぎた唇はひび割れていたが、少女の痛みは少年の心に何物をも与えなかった。怒りも侮蔑も、軽蔑も。辛うじてこみ上げるのは、慈悲と称するにはおこがましく憐憫とするには値しない漣だけ。

「ここから、」

 彼女が纏う衣服には遙かに劣る、擦り切れ染みが浮いた上衣を握る指に込められた力は、少女にしては強かった。しかし握れば折れんばかりの細腕を振りほどくなど、年頃にしては逞しいアリムにとっては造作もない。

「――今までお世話になりました、お嬢さま」

 己に縋りつく少女を突き飛ばし、抗議の雄叫びを上げる猫と轟く泣き声に背を向ける。振り返りはしなかった。振り返ろうともしなかった。今しがた己が害した少女はもはや敬うべき存在ではなくなったのだから。アリムがすべきなのは、カトゥラに言いつけられた使用人たちが自分を抑える前に、トゥミネが週に一度の教会通いを装って赴いた場所に辿りつくことだけ。

 人目を忍んで駆け込んだ使用人部屋の、乱れた寝具の下から取り出した手袋を抱きしめる。

 体躯同様に同じ年頃の少年よりも逞しい手にはまだ合わないこの手袋が嵌められなくなるまで。布を被れば少女に間違われたこの身に、女物が合わなくなるまで。まだトゥミネよりも低い背丈が彼女を追い越し、彼女を守るに相応しい大人になるまで。象牙の髪に純粋な白が混じり、若々しく引き締まった皮膚が弛み皺が刻まれやがて柩で眠る刻が訪れても、自分はトゥミネに寄り添い支え続ける。

 正門を避け、裏門から飛び降り逃れた小さな世界に戻ることはないだろう。軛を断ち切った幼いけものは走り続けた。人波に揉まれ弾かれ、ぶつけた肩に対する痛みをわざとらしく訴える浮浪者に呼び止められ痛罵されても。

 ぐずぐずに崩れた果肉と蛆の蠢きすらも届かぬほどに足裏が麻痺するまで。靴底で弾ける果実の腐臭は甘やかだったが、

「――アリム!」

 柔らかな肢体に抱き留められる恍惚には及ばなかった。

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