あなたの罪が緋のようであっても Ⅱ
泣き疲れた雪豹の子供の寝顔は安らかだが、乾いた涙でべとついていた。頬と唇の林檎色がやや褪せたように感じられる理由は、決して仄暗い日差しの仕業だけに帰せられまい。
『トゥミネさん』
荒々しい、焦燥が滲む足音と共に居室に飛び込んできた少年から馴染みのある生臭さを嗅ぎ取った瞬間、トゥミネの心臓は凍った。性癖と性根が捻じ曲がった輩に悪戯されたのか、と彼の衣服に乱れがないかを確かめ、無事を確認するまでは氷は解けなかった。大きな青い目から零れる涙に濡れるまでは。
掻き抱いた逞しくも小さな肢体は、まだ十を二つ越えたばかりの少年のものなのに、アリムは一体どこの誰に虐げられたのだろう。
あどけない面を怯えで歪めさせる外道がこの世に存在し、息を吸って吐いている現実を思うと、震える背に腕を回さずにはいられなかった。まだ七歳だったトゥミネを最初に蹂躙した男達と同じかそれ以上に唾棄すべき蛆は、残念ながらこの都どころか国中で、ひいては世界中で蠢いているのだ。
――浄化しなければ。
告解室の静寂を乱す、熱と狂気を帯びた囁きが蘇る。譫言のように繰り返す「司祭」と他の数人を除いては、トゥミネは組織という船の乗組員や行き先すらも知らない。興味もない。だが、暗澹とした苛立ちが募るのだ。幼子や女の涙が染みついた金で贖えるほど、自由と平等とは安い代物なのか、と。皇帝や貴族などよりも真っ先に浄化されるべきなのは――地獄の劫火にくべられるべきなのは、お前たちではないのか、と。
時刻は太陽が天頂に坐した正午だというのに一向に眠気が訪れないのは、身の裡で燻る熾火のためか。あるいは仮初の主が「ある嫌疑」を払拭するために奔走し、彼との煩わしい共寝を免れられているからか。どちらにせよ、トゥミネはようやく掴んだ虫食いのない幸福を手放したくはなかった。
たとえ生きるためでも、もう好きでもない男に脚を開きたくはない。触れられたいと欲し、触れたいと焦がれるのは腕の中の少年だけなのだから。
「……アリム」
細い喉から漏れた甘い囁きは作り物ではなかった。自分でも、一刻も早く苦悶を終わらせるための偽りの満足の吐息ではない声の甘さに驚かされた。
「私、少しお出かけしなきゃいけないの。……とても怖い男の所によ」
七日に一度の教会通いに、呼吸すらままならなくなるまでに重く胸を締め付けるのは初めてだった。
本当は、薄い目蓋が持ち上げられて大きな青い瞳が現れるまで、彼の側にいたかった。悪夢にうなされ涙を流すのなら彼の哀しみを拭い去ってしまいたかったのに。
司祭は他の組織の男とは異なり、子飼いの女たちの肉体に手を付けはしない。この世に罪を齎した「女」を憎み蔑む彼は、女との交わりを忌避しているために。だが禁欲と節制の仮面は、己が定めた規則が乱されると、強風の前の砂の山さながらに崩れ落ちる。約束の時間に遅れれば、服に隠れる肌は杖の痣だらけになるだろう。だからトゥミネは行かなければならない。我が身の安全ではなく、自分が傷を負えば悲しむ少年のために。
かつて自分の物であった肩掛けをかけると、少年の寝顔に柔らかさが戻った。ただそれだけで月に一度の障りに苛まれ鈍重な四肢は羽になる。
「すぐに戻るわ」
一方的な約束を破っても咎める者はいないが、トゥミネは走らずにはいられなかった。傍から見れば歩いているのとさして変わりはないだろうし、すぐに力尽きて脚を引きずるはめになるのは分かり切っているが。
春分祭の際のただ一度を除いては、渡るたびに頭痛と嘔吐感に悩まされていた橋の下のせせらぎすら、小鳥の囀りとなって背を押してくれている。「河向う」の懐かしくも厭わしい街並みで唯一純粋に慕わしい――母との思い出が散りばめられた聖堂の煌めきすらも、もはやトゥミネには不要だった。この煌びやかだが冷徹な光よりも、泉の青を湛えた瞳の輝きこそが愛おしい。
「ごきげんよう、司祭さま」
その資格などありはしないのに白い祭服に袖を通した男の、痩せた肩越しに来訪の挨拶を述べる。
「……貴女は、誰だ?」
「私です。トゥミネです」
引き攣った面に過ったのは怯えと驚き、それを上回る恥辱だった。司祭は、たかだか女に揺るがされた自身を戒めてか、峻厳に唇を引き結ぶ。潔癖な瞳に映るのは、桃色に上気した頬の、それなりに見目良い女だった。
「……ああ、そうだ。お前の髪と瞳は光の加減で様々に移り変わるから、稀に別人が来たのではないかと勘ぐってしまう。口元の黒子がなければ、名乗られても俄かには信じがたい」
数え切れないほどではないが、多くの男に指摘された
「私は混血ですから」
「ああ、そうだな。汚らわしい血で誇り高い血を澱ませたお前たちは、神の教えに反して罪なき仔羊を搾取する貴族の豚どもの閨に放り込むぐらいしか使い道がない。だが――」
喜ぶべきか、あるいは憤慨すべき出来事があったのだろう。いつ誰が訪れるとも定かではない聖堂に響くのは、奇妙に昂ぶり上ずった侮蔑だった。
「女は知恵でも力でも魂の崇高さでも我々男に劣る生き物だが、丹念に研磨し巧みに操れば豚を解体して心臓を引きずり出すには十分な刃になる」
「はあ」
常ならば無礼と咎められ足蹴にされかねない、気のない応えすらも司祭の高揚を衰えさせはしないらしい。
「皇帝は、近々弾圧の命を下すらしい。それを掴んだのはお前の同胞。私たちが拾い上げ磨き上げた娘だ」
「……そんな」
「後宮に献上されるはずの娘を逃すことで自身に歯向かった我らを、この街ごと。……だが、そのような暴挙が許されるはずはないだろう?」
乾き、皺が刻まれた頬は恋に恋する生娘めいた赤みが灯っていて気味が悪かった。女ではなく男の腹から生まれたのかのようなこの男が身を捧げるのは、唯一神が再臨するに相応しい世を創るという、崇高だが分不相応な理念だけ。組織内でも密かに狂人と畏れられる男の目は、この世ではないどこかに据えられていた。彼にはもはやトゥミネは見えていないだろう。
「――立ち上がって武器を取り、浄化するのだ。皇帝を、あの色狂いの愚物に阿る豚どもを、豚の汚物に集る蝿どもを」
――さすれば神は再びこの世界に戻ってくれる。救世主による正当な支配が始まる。
恍惚とした面持ちで祭壇の前に跪く男は敬虔であるはずなのに、醜悪極まりなかった。狂人と同じ空気を吸うことすら耐えられそうにない。踵を返して聖堂から抜け出した女は、やがて脇腹の痺れと吐き気を堪えられずに炉端に蹲った。内股を垂れる経血の鉄臭さも耐えがたい。だが幻の――現在は流されてはいないが未来において迸るであろうおびただしい血潮は、月のものの鈍重な責苦を凌駕した。
あの狂人が描く夢想が、このムツタシで息づく民が戴く理想になったら。狂人に扇動され圧制の軛を断ち切った暴徒は、世襲貴族もその使用人も分け隔てなく虐殺するだろう。そして、猛牛の群れと化した羊たちが最初に贄に選ぶのは、よからぬ噂が蔓延する――使用人の女を凄惨な虐待の末に殺害した暴虐の主に服従するダデシュヴァリ家に違いない。皇帝の不服を被ったために凋落の気配著しい同家は、官警にすら打ち捨てられるだろう。これしきの犠牲で民を宥められるのなら、と率先して切り捨てられるだろう。
自分が弄した策に締められるのが自分の首だけならばいい。だが、誰よりも大切な少年の、無垢な命が非情な刃に刈り取られるのだけは……。
「ああ、」
魂に焼き付いた穏やかな寝顔の幻影に縋りつく。頬に濃い影を落とす長い睫毛に囲まれた双眸から、生命の灯火を消し去ってはならない。あの光を守るためならば、どんな汚泥も微笑みながら啜ると自分は誓った。あの子のためならば、どんな罪に塗れても構わない。この身はもとより穢れているのだから。
饐えた胃液でぬるつく掌に爪を立てる。生理的な涙で霞んだ視界のあちこちには民草の憎悪を燃え上がらせる警邏隊の制服が過った。その一人に声を掛け誘き寄せるぐらい、娼婦の自分には造作もない。
「ご婦人、いかがなさいましたか?」
獲物は招いてもいないのにやって来た。しおらしく俯いて自然に吊り上がる口元を隠し、打ちひしがれた女になる。偽りの涙で胃液の痕を清める。
「……警邏隊さま」
「お加減が悪いのなら、少し日陰で横になればいい」
若者にありがちな、異性への憧憬と拒絶を誘われぬ程度の欲望が入り混じる声もまた若々しかった。これならば誑し込みも容易だろう。
肩に置かれた厚い掌を左手で払うと、青年は僅かに顔を顰めた。
「いいえ、違うのです。これは体調不良などではありません。ですがわたくし、あそこで……」
自らの体液が滴る指先で指し示すのは、異邦の神のために建てられたはずの聖堂だった。
「恐ろしい企みを耳にしましたの。……まさか司祭様が、あんな恐ろしいことを企てるなんて。……ああでも、あの方は本当の司祭様では……」
「どういうことです? ……しっかりしてください、ご婦人!」
それきり口を噤み、四肢を戦慄かせて卒倒した振りをしたトゥミネに痺れを切らしたのか。青年は舌打ちを置き土産に走り去っていった。大地に爪を食い込ませながら仰いだ空は厚い雲に埋め尽くされているが、トゥミネの心中にはアリムの瞳そのものの、晴れ渡った蒼穹が広がっていた。
――私はきっと、このために生きてきたんだ。
穢らしい生に意地汚く縋りついてきたその意味を、ついに果たした。全身でうねる静かな高揚の勢いは、屋敷に戻り未だ目覚めぬ少年の頬に唇を落としても衰えなかった。数日が経過した後、己が生した所業の残骸――無残にも破壊された聖堂の、大理石と硝子と鏡の破片を踏みしめてもとめどなく押し寄せて来る。恍惚は晒された組織の一員の、初めて対面する者も混じる首級の凄まじいまでの醜さまでをも呑みこんだが――
「……どうして?」
最もその死を希った男の面影は、鼻が曲がる腐臭を漂わせ、白い粒に蝕まれる一群には探し得なかった。ひしめき合う群衆の合間を縫って、有り過ぎるほどに憶えのある鋭い眼差しに貫かれる。その瞬間、汗の珠が浮いた背筋から熱が引いた。
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