あなたの罪が緋のようであっても Ⅰ

 纏う衣服や色彩、奉じる神すらも異にする民でひしめく雑踏には様々な臭いが充満している。しかし、深まりゆく春の喜びを薄れさせるほどの不安を嗅ぎ取ったのは、記憶に残る限りでは今日が初めてではないだろうか。

 特別な祭日や使いの場合を除いては、勤め先である屋敷に見世物の珍獣よろしく繋がれるアリムは世情に通じてはいない。だが、まだトゥミネと知り合う以前――親方に連れられ門を潜った厳冬の終わりは、行き交う人々の顔は今日などとは比べ物にならぬほど明るかった。彼らを照らす太陽は貞淑に厚い雲の面紗の陰に隠れていたのに。

『お前さえ黙ってりゃばれやしねえから、これでも食っとけ。……旦那様の金で食う肉は美味いだろ?』

 帰り際、むさくるしい髭面に少年じみた悪だくみを乗せた親方が差し出してくれた串焼きの露店は在りし日と変わらない。けれどもその向かい側の、世襲貴族や高級官僚の子女で賑わっていた衣料品店は――

 荒らされ焼かれ、往時の輝きすら覆い尽くすほどの煤に塗れて落ちぶれていた。火難にでも遭遇したのかと勘ぐりたくなったが、その両隣は傷一つない。

 穏やかな春風などでは流しきれぬ焦げ臭さには、憎悪の残り香が混じっていた。麗しい絵画に落とされた無残な焦げ跡のような鬱屈の発露は、そこここに点在している。汚濁と――八つ当たり同然の激怒を宥める生贄として選ばれたのは、いずれも富裕層を対象とする高級店ばかりだった。

「貴族ってのは、どいつもこいつもろくなもんじゃねえが、皇帝ってのはその筆頭だな」

「ああ、全くだ。儂らは子や孫がいつ飢えて死ぬかと夜も眠れねえのに、あいつらは俺たちから取り上げた金でこんなもんため込んでやがるんだから」

 訳知り顔で呟く二人の老人。その片割れの手には、みすぼらしい風采にはそぐわぬ、煌びやかな首飾りがある。アリムは紅玉と真珠を取り囲む精緻な細工には覚えがあった。もはや瓦礫と化したかつての宝飾品店の店頭で見かけたからだ。

 老人が高価であるに違いない装飾品をどこでどのように入手したのかは分からないし、分かろうとも思わない。その使い道にも興味はない。換金して妻子や孫たちのための食糧に変えるでも、自身の遊興に使い果たして泡沫とするでも、好きにすればいい。だが一抹の不安はあった。

 少女めいた大きな水色の瞳の端に過った影は、民たちに悪魔よりも憎まれる官警の制服に身を包んでいたから。

「爺さん、爺さん」

 ――こんなとこでそんなこと喚いでると、豚小屋にぶち込まれて死ぬまで出れなくなるよ。

 なけなしの慈悲に駆られて紡いだ制止は、その途中で断ち切られた。

「んだよ、どうし、」 

 筋肉が盛り上がった逞しい腕が老人たちの枯れ木同然の腕を捻る。鳴り響いた厭な音と掠れた絶叫に眉を顰めたのはアリムだけではなかっただろう。

 割れた石畳に押し付けられた額から血を流し、骨ばった背を足蹴にされる老人の、救済を求めて伸ばした指は荒々しい軍靴に踏みしめられた。大地に叩き付けられた鎖が奏でる悲鳴はしゃらしゃらと瀟洒だが、少数の弱者が多数の強者に嬲られる陰惨さを薄らせはしない。むしろ、あえかな金の光はその醜悪さを際立たせる。

 折れた肋骨が肺に刺さりでもしたのか。紅い泡を吹いた老人の肢体はやがて微動だにしなくなった。もう片方の、死を免れた老人に待ち受ける終焉もまた、安らかなものではないだろう。あるいは、彼にとってはこの場で命を散らしていた方がまだ良かったのかもしれない。アリムにできるのは、彼らと彼らの家族の安息を心中で密やかに祈りつつ、この場から立ち去ることだけだった。

「おい、そこのネミル人のガキ」

 だが、野太い声に呼び止められては、応じぬわけにはいかない。騒動を聞きつけて集まってきた人だかりの中には子供もネミル人も少なからずいるが、ネミル人の子供はアリムだけなのだから。

「はい。何か御用ですか? 警察さん」

 従順な羊の振りには慣れている。屋敷においてはその暑苦しさと煩わしさを持て余し投げ捨てたくなっても、その皮を被らなければならなかったから。

「お前、ジジイどもと何を話してた?」

「話して、なんて。ただ、片方のお爺さんの口元に麺麭屑が付いてたから“みっともないよ。そんなんじゃ周りの人に笑われちゃうよ”って教えてあげようとしたんですけど……」

 生え揃った睫毛を伏せ、熟れた林檎の唇を噛みしめる。すんと鼻を啜り濡れてもいない目元を擦ると、厳めしかった青年たちの顔は僅かに緩んだ。彼らの目には、後々起こりうる面倒を回避すべく、肌身離さず懐に仕舞っていた、うっすらと赤茶の染みが残る肩掛けを面紗がわりに被ったアリムが少女として映っているのかもしれない。イリセから譲られたばかりの上衣が、少年用の脚衣をほとんど覆うまでに長いのもまた幸いだったのだろう。

「……そのお爺さんが、皇帝陛下にあんな恐ろしい暴言を吐く、怖い人たちだなんて思わなかった。……怖かった、です」

 気弱な少女の真似事は存外上手く行った。青年たちはそうかと頷き、俯くアリムの頭に手を置く。

お嬢ちゃん・・・・・は出稼ぎに来てるんだろう? 一体どこに勤めてるんだい?」

 上目遣いに仰いだ面は手負いの猫の仔か何かに対する憐憫に溢れていた。先ほど一人の老人を虫けら同然に甚振り絶命に至らしめた青年と、柔らかさを愛でるかのように薄布越しに自分の髪を撫でる彼が同じ人間であることが不思議でならなかった。

「……世襲貴族の、ダデシュヴァリ家のお屋敷で奉公させていただいています。今日は、お嬢さまからお使いを命ぜられていたんですけれど……」

 恐怖のあまり、もう立っていられない。そう嘯き青年の血飛沫が飛び散った外套を握ったアリムに差し出されたのは、葡萄の芳しさと胡桃の芳ばしさを漂わせる飴の欠片と、意図を解しかねる慰めだった。

あの・・ダデシュヴァリ家か」

「え? あ、“あの”?」

「……何でもないよ、お嬢ちゃん。でも、お嬢ちゃんとはまたいつか会うことになるかもしれないね」

 青年は、皸とひび割れだらけのアリムの指に「可哀そうに」と顔を顰めた。慈愛はアリムなどよりも道端に転がる亡骸にくれてやるべきではないか。

 胸中で渦巻く蟠りを素直に、言い換えれば考えなしに吐き出すほどアリムは愚かではないつもりだから、黙って警邏隊を見送った。彼らの影が視界から消えるやいなや、震えて動けないはずの足でしかと立ち上がった少女・・の背に突き刺さる視線は、氷柱よりも鋭く凍てついていた。

「……女ってのはガキでも怖えもんだな。ありゃ末は大した淫売になるぞ」

「いや。屋敷で奉公してるってのは嘘で、案外もう淫売なんじゃないか? この辺りには多いだろ? 確かめてみろよ」

「そうだな。最近は女を買う金もなかったからなあ」

 下卑た嗤いに追いつかれてはならない。少女の淑やかさをかなぐり捨て駆けだしたアリムを追う男は執拗だった。

「待てよ、ガキ」

 待てと言われて待つ馬鹿がどこにいる。嘲る余裕は、たちまち距離を縮める気配にこそぎ取られた。アリムの脚は決して遅くない。むしろ俊敏だと自負していたが、それは十二の少年にしてはだったということだ。子供は大人には敵わない。手足の長さも、膂力も。

 薄暗い路地の人通りはいつにもまして少なかった。追い詰められた少年は立ちはだかる男をねめつける。

「結構しぶとかったな。手間かけた分ぐらいは、愉しませてもらわねえとな」

「……ざけんな」

 このけものに矜持と我が身を蝕まれる屈辱を享受などできはしない。親方と同じであるはずなのに印象は似ても似つかない髭面に放った唾は、淀んだ双眸を中心に飛び散った。

「この、」

 突然の反撃に怯んだ男の股間を尖った爪先で蹴り上げる。仰向けに倒れた彼の急所に全ての重みを集中させると、逞しい四肢はばたばたと跳ねた。太い喉から迸る呻きにならない呻きは快く、他者の肉体の一部を蹂躙する快感は言葉にならなかった。

 片脚を何故だか持ち上がりつつある股間に置いて、口元から汚い唾を垂らす男を見下す。

 靴底で感じる無防備な臓器の一部の脈動はおぞましかった。いつもこんなものを感じているのかと考えると、トゥミネが哀れでならなかった。トゥミネに会いたかった。

「おい、下種」

 返事など必要としてはいなかったから、薄汚れた靴の先端を、酒気と悪臭を漂わせているだろう暗がりに放り込んだ。衝撃を受け止めかねて砕けた黄ばんだ歯が、締まりのない口から零れ落ちる。後を追って溢れ出た鮮やかな粘りはやがて男の息を遮り止めるかもしれない。萎えて垂れ下がった肉塊をむき出しにしても、直に踏みつけても、獲物には抗う力すら残されていないようだった。

 けれどもくすみ黒ずんだ蛇を靴底で擦ると、浅ましくもそれは再び屹立した。己にもぶら下がっているはずの肉の変化は吐き気と好奇心を催させた。衝動の赴くままに嬲っていると、爆発はあっけなく訪れた。

 はちきれんばかりに膨張した棒の先端から迸る白濁は靴に、脚衣にまで飛び散った。鼻腔に絡む生臭さは少年の嗜虐心を萎ませた。早く屋敷に戻らねばトゥミネに心配されてしまう。

 陶然とした目で自分を見つめる男に最後の、渾身の力と激情を込めた一撃を振り下ろし、踏みにじる。高揚した四肢はまさしく獣に――雪豹に還ったかのように軽かった。

 優美な鉄の檻に囲まれた林檎は既に徒花の薄紅を落としてしまっている。緑滴る葉を茂らせた観賞用の樹の下で佇むのは焦がれる女性ではなかった。

「あ、アリム。……あんた、飴一つ買うだけなのに、どうして、」

 泣き出しそうに愛くるしい顔を歪めた少女の、甲高い非難は聞こえなかった。己が鼓動だけがけたたましく轟いていた。

 守り維持する女を喪った離れに飛び込み、階を駆ける。

「アリム? 一体、どうしたの?」

 アリムの血相を見咎めてか。気づかわしげに眉を寄せた女性に飛びつき、共に寝台に倒れ込んだ。

「トゥミネさん」

「なあに?」 

 華奢な背に腕を回し、丁度よく膨らんだ胸に顔を埋める。優しく快い彼女の香りを胸いっぱいに吸い込むと、涙が溢れてきた。鼠よろしく追い詰められていた最中は感じなかった震えが、今更ながら迫ってきたのだ。

 怖かった。叫びたかった。でも、隙を見せればたちまち骨の髄まで貪られてしまう。だからアリムは耐えた。耐えなければならなかった。あの男に振るった暴力はアリムの恐怖の裏返しだった。あの時ああしなければ辱めを受けるのは自分だった。

 ――トゥミネさんは僕なんかよりずっと怖い思いを、何回もしてきた。

 貶められかけた我が身を憂いて流す嘆きは、虐げられて生きてきた女性のための熱情になる。

 トゥミネの側にいたい。片時も離れずに、彼女を傷つける全てから守ってやりたい。深淵から浮かび上がる希求は、飾らざるありのままの姿では捧げられない。だが研磨し金属の土台に埋め込めば、凝固した血の雫でも紅玉の代わりにはなるだろう。

「……トゥミネさんは、どこか行きたい場所はありませんか?」

「……あるわ」

 紗幕に濾された光を浴びて輝く女は、少年にとっては神々しいまでに美しかった。磨き抜いた煙水晶の瞳の艶やかな輝きが、幼い青を捕らえる。揺らめき溶け合う榛と灰――翳った黄金と曇った白銀が交錯する、朧な星芒が近づく。

「あなたと行きたい場所が。でも、それには……」

 傾いだ黒檀の頭が少年の額に押し当てられたまさにその瞬間、顧みられぬまま枯れ果てた矢車菊が散った。強い風に煽られたように、はらはらと。

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