蜜よりも甘いものはなにか Ⅴ

 寝台に押し付けた手弱女に跨り、拳を振り下ろす男は悪鬼だった。肉と肉が、肉と骨がぶつかる鈍い音が響くたびに、部外者であるはずのトゥミネの肩もびくりと跳ねる。寝台が発する軋みが、体液の生臭さが傍らで行われている暴虐の種類を暗示する。

 固く閉ざした目蓋の向こうで繰り広げられているだろう暴力は恐ろしく、止めに入らなければと募る焦燥でさえも、萎えた手足に力を返してはくれなかった。意気地なく震えるトゥミネにできるのは、この凄惨な悲劇の一刻も早い終焉と苛まれる女の解放を希うことのみ。

 どこか澱んだ静寂が訪れてからどれ程の時が流れたのか。どれ程の暴力が加えられたのか。恐る恐るこじ開けた目に飛び込んだのは、不遜にも挑戦的にも受け取れる女の、強かな笑みだった。

「……この際だから打ち明けておきますが、あなたやあなたの奥方があの娘をあなたの胤だとお思いになったのは、見当違いもいいところの、勝手な勘違いですよ」

 メジュイェは乱された襟や、太腿が露わになるまでたくし上げられた裳裾を直しもせず、口元から垂れた鮮血を拭う。彼女の、鉄錆の臭気漂う紅に彩られた口元に刻まれたのは侮蔑と嗜虐であって、怯えではない。

「考えてみてくださいな。わたくしはあなた以外の男にも数えられないぐらい抱かれました。それぐらい、命じたあなたもご存じでしょう?」

「だがお前があの娘を身籠った時期は、」

「あなたの目の届く限りではあなたにしか抱かれていませんので、あなたが勘違いなさるのももっともですが、」

 生温かな風に髪を遊ばせ、雲間に隠れてもなお輝かしい太陽に目を細める女は、主を見てはいなかった。遠い遠い、決して戻らぬ過去から齎される痛みを堪えてか、深く息を吸った彼女が吐き出したのは想像を絶する辛苦だった。

「あなたの奥方が、頼みもしないのにわざわざわたくしの下に送って下さった男達の誰かの胤ではないかと疑わなかったのは何故なのでしょうね?」

 知らなかった、と呼気同然の驚愕を吐き出した男に叩き付けられたのは更なる惨苦だった。

「報告しませんでしたし、たとえ報告したとしても奥方の尻に敷かれていたあなたは知らぬ振りをするだろうと考えましたので」

 淡々と抑えられた口ぶりは、かつてメジュイェが舐めさせられた杯の苦さを際立たせていた。どちらかといえばおとなしく寡黙な印象の若奥方メゼアとは異なり、主の妻は苛烈な性分を立ち居振る舞いから匂わせる女だ。彼女は、夫の妾の寝所に良からぬ類の男を寄こしていたと聞いても違和感を覚えさせない、年老いていてなお烈火の蛇を連想させる気性を有している。若かりし頃は滾る溶岩さながらに恐ろしい女だったろう。

 気位が高い妻を持て余した若き日の主は、しばしの安息と解放を求め、細やかな反抗の証としてメジュイェを囲ったのだ。齢を重ね、妻を従えるに十分な権勢を得てからは、長きに渡る抑圧の反発として、トゥミネやその他の女を。

 気持ちは分からなくはないが、新たな囲い女の世話を最初の愛人にさせるなんて。メジュイェが主の心変わりに痛む胸を備えた独りの女なのだという事実を無視した行いは、あまりにも自分勝手で下劣だった。もはや役目から離れたと拒絶するメジュイェに関係を強要することもあっただろう。

 ――最低。

 こみ上げる怒りを視界にちらつく男に唾として吐きかけはしなかったが、心情としてはそれに近いものがあった。この肉袋にはそれをしてやる価値すらない。

 トゥミネはもうこの男とは寝られない。指一本でも触れられれば嘔吐してしまいかねない。

「だが、」

 なけなしの救いを求めてか、燻る情欲のはけ口を欲してか。自ら蹂躙した女に縋りつく男の背は脂肪に覆われ締まりなく、浅ましかった。雀斑が散った端整な面立ちが顰められたのは当然だった。

「それに、大抵は酷い技量の輩ばかりでしたが、たまにあなたよりも巧みな男がいて、それなりに愉しめましたから」

 最後の、決定的な宣告が下される。トゥミネをも貶めてきた男の、密やかに積み上げられていただろう色事に関する矜持が粉砕されるのは快かった。

「あなたの目を盗んで他の男と密会を重ねるのは愉しかったですよ。あなたと寝るよりも」

 もっと、もっとこの男を打ちのめして欲しい。二度と女を抱く気を催さぬまで、徹底的に。

 枷が嵌められたのかと錯覚するまでに重く、強張っていた手足に生気が漲る。肌は燃え、滾る闘志に握り締めた掌からは血が滲んだが、痛みは感じなかった。高揚が苦痛を麻痺させたのだ。

「ずっと黙っておりましたが、わたくし、最中にしつこく好いかと尋ねる男には虫唾が奔る性分ですので」

 待ちわびた一言を発した女の笑顔は先程までとは打って変わって慈悲深かったが、憤怒に目を血走らせる男にとってはどうだったのだろう。

「わたくしだけではなく大抵の女は“そう”ですので、後学のためにも覚えていた方がよろしいかと、」

 歯型が散らばる細い首に、厚い脂肪を纏ってもなお骨ばった男の手が回される。犯されている最中も呻き声一つ上げなかった女は、突然の生命の危機にもたじろがなかった。

「……あなたがそうしたいなら、そうすればいい」

 潔く目を閉じた彼女を死なせたくない。我が物とは俄かには信じられぬ激情が、温もった四肢をつき動かした。

「何をなさっているのです!?」

 ぶよついた背に突進し、狼狽えた男の腕を引くと、蒼白の面に生気が戻った。

「随分と遅い加勢ですが……助かりました」

 いかにも苦しげに咳き込む女を庇うように抱きしめる。戦慄く背に添えられた手は温かかった。

「娼婦が二人寄って集って傷を舐め合うか。……惨めなものだな」

 吐き捨て足取りも荒く立ち去った男には追いかけて拳をくれてやる労苦につり合う価値すらない。だから腹立たしい罵りは忘れてしまうに限る。 

「――今のみっともない言葉、聞こえました?」

 なのにメジュイェはからからと、彼女らしくなく大口を開けて嗤いながら、ごく浅いが決してささやかではない傷を弄る。

「どうして男ってああいうのばっかりなんでしょう? ……それとも、わたくしが出会ってきた男が不運にも問題のある男ばかりだっただけで、世の中にはわたくしたちを心の底から愛してくれる男が実在するのでしょうか?」

 赤黒い斑点を舐め取る舌の蠢きは淫靡だが、伏せられた目元では苦渋と諦観がせめぎ合っていた。メジュイェが身体を売ってきた年月は分からない。もしかしたらトゥミネよりも幼い、それこそ物心が付いた頃から、彼女は期待するごとに踏みにじられてきたのかもしれなかった。

「――います」

 自分よりも長く長く蹂躙されてきた女の指先を握り締める。彼女の冷え切った肌と心に、あらん限りの熱を伝えたかった。

「いるんです。この世のどこかには救世主さまがいて、私たちを救ってくれるって……」

 母が、教えてくれました。

 嗚咽に遮られたはずの言葉は、穏やかな笑みを浮かべる女に届いたらしい。

「……あなたは母親に似て夢見がちなのですね。サヒネの娘トゥミネ」

「あなた、なんで……?」 

「聞いていたでしょう? わたくしも、あの男の甘言を真に受けて河を越えるまでは、あなたの母親と同じ“河向う”の娼婦でしたから」

 縺れた髪を撫でる女の手つきは母そのもので、涙は止まるどころか勢いを増すばかり。

「あなたやサヒネに何があったのかを詮索などいたしませんが……サヒネはもう亡くなったのですね?」

「は、い」

「わたくしは、あの人がずっと羨ましかった。客に殴られてもへらへら笑っていられるあなたの母親の能天気さに苛立ったこともあったけれど、」

 噛みしめられた亀裂は新たな紅蓮を迸らせ、彩られる。

「たとえ一時でも愛した男に他の男に抱かれろと強要されてから、わたくしは信じることを諦めてしまった」

「……」

「ですが、あなたは諦めないのでしょう? わたくしにはあの子供のどこが良いのかは分かりかねますし、悪趣味だと思いますが」

 血に塗れひび割れた花弁がほころぶ。無残に腫れ、赤や蒼の痣に蝕まれた面では笑みを形作ることすら困難だろうに。

「信じていれば、信じることを諦めなければ、わたくしもあなたの母も辿りつけなかった世界に往けるのかもしれませんね」

 感涙で曇った視界に白いものが接近し、額に湿り滑った何かが押し当てられた。それがメジュイェの唇だと悟った頃には、彼女は既に立ち上がっていた。

「……あの娘に付けたかった名前を持ったあなたが目の前に現れた時はどんな嫌がらせかと思い、随分辛く当たってしまいましたが、あなたに出会えて良かった」

「――待って! まだ手当が済んで、」

 霧か霞。あるいは幽霊のごとく消え失せてしまったメジュイェ。彼女の行方を一睡もできぬまま夜を明かしたトゥミネに知らせたのは、まだ若い下女だった。 

 あの宴の日の失態――高官が伴ってきた客人・・を取り逃がした過失を主に叱責され、その重荷に耐えかねたメジュイェは、隠し持っていた毒を仰いで自害した。泡を吹き、喉には掻き毟った痕跡がある遺体は二目と見れぬ有様で、故人の尊厳を守るためにも明朝速やかに墓地に運び込まれた。

「ですから、今日から私があなたの部屋付です」

 寝ぼけ眼を擦る使用人たちの前で主人自らが宣告した「事実」を語る娘の目には、隠しきれない疑念と不安が渦巻いていたが、トゥミネの裡で脈打つものは娘が抱える危惧の比ではなかった。

「そう。……ねえ、あなたの名前は何ていうの?」

「イリセ、です」

「じゃあイリセ。あなたは、私がこれから話すことを信じてくれるかしら? いいえ、信じてくれなくてもいいわ。ただ、私が知ってる“真実”をできるだけ多くの人に広めてくれれば」

 もうこの世にはいない女の悲嘆に満ちた人生の断片を語り終える頃には、娘の双眸は涙と憤りでぎらついていた。

「……じゃあ、あの人がわたしたちの計画をご主人様に報告せずに、門番を買収するお金を盗み出してくれたのは――あの人が亡くなったのは、」

「それはあなたたちの責任ではないし、メジュイェも娘さんを助けられたのなら本望でしょうけれど、」

 泣き崩れた娘の肩をそっと抱き寄せても、拒絶されはしなかった。それが、彼女を「こちら」に引き込んだ証だった。

「……ごめんなさい。私、あなたやあの人のこと、見下してました。厭らしい、最低な女なんだって。ああはなりたくないって。……でも、こんなに辛い目に遭ってたなんて、」 

 ――私にできることで、償いになることがあるのなら。

 譫言のように呟く娘の耳元に吹きかけたのは、儚い反抗だったはずだ。密やかに囁かれる真相が、屋敷の主人と敵対する高官の耳にでも入ってくれたら。重い腰を上げ調査に乗り出した総督府が、咎人の頭に然るべき鉄槌を下してくれたら。そうすれば、メジュイェもきっと安らかに眠れるはずだった。

 たとえ握り潰された真相が己が紡いだものとはかけ離れていたとしても――メジュイェが自死していたとしても赦さない。彼女を死に追いやったのは、紛れもなくあの男なのだから。

「私は厭なの。メジュイェの死の真相を、このままあの男に握り潰されることが」

 トゥミネからイリセへ。イリセから彼女の恋人である馬丁の青年へ。馬丁の青年から、彼の友人である御者へ。御者から、街を行き交う者たちに。

 屋敷に敷かれた緘口令を飛び越えた企みは、燻る民衆の不満に火をつけ炸裂させた。

「あいつら貴族は俺たちの同胞じゃない。エラムレ人と結託して、俺たちを搾取するような奴らは――」

 週に一度の告解の帰りにトゥミネが小耳に挟んだのは、その鋭利な破片だった。

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