蜜よりも甘いものはなにか Ⅳ

 仮初の住まいに向かう足取りは過ぎ去った刻の喜びの大きさだけ重くなる。

『一応は同じ所に住んでるのにこんなこと言うのはなんだかおかしいけど……さようなら、トゥミネさん』

 厳めしい鉄の門をくぐる寸前で掌からすり抜けた皮膚の硬さを、あどけない笑顔に昂ぶった体温をかき集めても、枷は華奢な足首を縛めたままで。処刑場で執行人の訪れを待つ罪人の心持ちはこのようなものなのだ。祭壇に奉げられる無垢な羊にはなれないトゥミネには、咎人の称号こそが相応しい。

 独りの夫に独りの妻を定めた唯一神の掟に囲われた羊たちの群れを乱し、冒涜する女は古来より常に断罪されてしかるべき存在であった。もはや文献を縁にしても容易には辿れぬ異端の古代には、それと知ってなお神官を唆した・・・娼婦は己が首から迸る血潮でもって犯した罪の穢れを拭わねばならなかった。

 海峡に隔てられた熱砂の帝国では、婚前交渉や不貞は絶命に至る石打でもってしか購われない。神を欺いて太陽から火を盗み出した英雄が繋がれた白き峰に住まう山岳民は、一族の未婚の娘が純潔を失えば、彼女とその相手を屠って損なわれた誇りを回復する。他にも貞節を穢した女に下される裁きは数多あろうが、大差はないであろう。男は、世界は、唯一神は、自らを裏切った女を赦しはしない。「最初の女」が禁断の智慧の木の実をもぎ、裏切りに失望した神が地上から天の向こうの楽園に去ってしまってから、ずっと。

 ――そんなに大事な樹なら、いっそ植えなければ良かったじゃない。

 ふと視界に入った、清しい緑の葉を茂らせる林檎は花を愛でるためのものだ。実を付けはするが、その酸味は舌を刺すばかりで、砂糖と煮でもしなければ食べられたものではないらしい。

 空腹を持て余し齧りついてみたが、いっそ食べない方がましだった。アリムはいつかそう吐き捨て、冴えた青の瞳を眇めていた。だからトゥミネは、彼に甘い果実をあげたくなったのだ。あの柔らかな頬に昇る林檎色を愛でたかったから。

 しっとりと肌理細やかな、触れれば指先に吸い付く幼子の肌の滑らかさに頬が、緊張が緩む。癖のある髪の柔らかさと匂いを知るのは、彼の身内を除けば自分だけだろう。真昼間からだらしない面を下げて少年を連れ歩く女に、世間が押す烙印は優しいものではない。花も実も付けぬ春の柘榴の、青々とした葉の影に潜む棘よりも鋭利だろう。

「気持ち悪い」  

 侮蔑を紡ぐ澄んだ高い声には覚えがあった。

「ごきげんよう、カトゥラさま」

 双眸を怒りで燃え立たせる幼い令嬢と言葉を交わすのはこれが最初だったが、トゥミネはいつも彼女に見られていたし、彼女を見ていたから、初めてという気がしない。

「あんたはともかく、わたしの気分は良くないわ。あんたに会ったから」

「左様でございますか」 

 この十も年下の少女の眼には、自分はどのように映っているのだろう。

 大好きな祖父を誑かし、祖母を嘆かせる悪女か。恥ずべき職に従事する、賤しい女か。あるいは――

「あんた、お祖父さまの愛人のくせに何やってんの? どうしてアリムに手を出すの? ……ここには男は他にも沢山いるのに、どうしてアリムなの?」

 ある少年を挟んで対峙するかたきか。

 愛くるしい一対の翡翠から零れ落ちた雫が、トゥミネの予想を裏付けた。

「あんたにはあんたをちやほや大事にしてくれる男は沢山いるんでしょ? なのにどうしてそいつらだけで満足できないの!?」

 トゥミネがカトゥラと同じ年頃だった時分は、想うがままに感情を迸らせるなどできなかった。買われればどんな男にも脚を開いて奉仕しなければならなかった。こみ上げる嫌悪感を飼いならせなければ、調教と称して館の男達に陵辱され、意識を喪失するまで折檻された。

 祖父母と両親と使用人たちに守られ、欠ける物などない邸宅で育まれた、世襲貴族の無垢な姫君には想像すらできない世界がある。自分が生きてきた世界とカトゥラのそれは、比較するまでもなくカトゥラの方があらゆる意味で恵まれている。だがトゥミネは、屋敷に潜入した当初は僅かながらに心臓に突き刺さっていた、一切の感情を動かされなかった。羨望も、嫉妬も、憎悪も。

 ――だって、あの子は私を選んでくれたのだもの。

 もはやこみ上げるのは甘い勝利感と憐憫だけ。本当に欲しかった者を手に入れ損ねたカトゥラと、手に入れたトゥミネ。世間一般の基準ではどうあれ、アリムに関しては勝者は自分だ。だから大人の女に相応しい余裕でもって泣きじゃくる少女から涙を治めさせることもできる。

「……泣きすぎると目が腫れます。お祖父さまに心配されますわ」

 潤んだ目元にそっと押し当てた手巾は、差し伸べた手ごと払いのけられた。柘榴の紋に彩られた一枚はひらひらと虚空を漂い、やがて少女の足元に舞い降りて踏みしめられる。

「お祖父さまはもうわたしのことなんてどうでもいいのよ! お祭りが終わってから、いつもいつも怖い顔をしてらして……」

 精緻な刺繍はたちまち土に塗れ損なわれたが、トゥミネは気に入りの一枚を惜しまなかった。屋敷の主人に戯れに与えられた、いずれ捨て去るはずのものだったから。 

「……あんたもメジュイェも、穢い女はみんないなくなればいいんだわ」

 齢に似合わぬ暗澹を漂わせた囁きとぐしゃぐしゃに踏みにじられた薄布を残して、少女は立ち去っていたた。

 強風に煽られ門の彼方に跳んでいった手巾は、どこか優雅なひらめきが榛の目の端から去ると同時にトゥミネの脳裏からも消え去ってしまった。

 トゥミネはともかく、メジュイェに「穢れた」ほど似合わぬ形容があるだろうか。彼女は、端整だが魂を宿さぬ、聖女の冷ややかな石像のごとく潔癖なのに。あの冷たい目に見据えられれば、大抵の男は委縮してしまうだろう。だが時折甘い艶を放つ琥珀の眼差しに囚われる男もまた、存外多くいるのではないだろうか。

 あの中年の女は、地味に装っていても美しい。若かりし頃は、まさしく大輪の薔薇のようだっただろう。豪奢な衣服と宝石で身を飾り髪を結い上げ相応しい化粧を施せば、どんなに肥えた男の目も愉しませることができたに違いない。整ってはいるが決して抜きんでてはいない自分などよりも、よほど。

 メジュイェが自分の同類だとすれば、トゥミネが抱き続けていた細やかな謎のほとんどは氷解する。かつて娼婦であった女が髪結いと化粧に長けていても不思議はない。

「……ああ」

 あまりの衝撃に、厚い雲に遮られてもなお温かな日差しを浴びた果樹の幹にもたれかからずにはいられなかった。メジュイェに会って、会って話がしたくてしかたなかった。喪った母の面影を求めていると言えばそれまでなのだろうが、手酷く拒絶されても構わないから、彼女に確かめたいことがあった。

 三度の食事と細々とした世話に手を借りる以外は、トゥミネとメジュイェの繋がりは無いに等しい。彼女の部屋がどこにあるのか、暇な折には何をしているのかも知らない。

「……今は、どこにいるのかしら?」

 気怠い頭痛を堪え、あてども把握せぬまま立ち上がった女に進むべき道を示したのは、馴染まされたはずなのに初めて耳にしたように響く男の怒号だった。

「――メジュイェ!」

 身が震えるほどの激怒は、自分に割り当てられた部屋――西方趣味の露台から轟いている。開け放たれた窓から出入りする風に揺らめく白い紗幕の向こうには、見慣れているはずなのに顔を合わるのはこれが初めてだと錯覚させられてしまう男女の影があった。

 気を抜けばもたつき絡まり大地に、固い床に叩き付けられる手足を懸命に動かし、息を切らせて階を登る。蟀谷から汗を流すトゥミネの眼に飛び込んだのは、

「なぜ勝手な真似をした? なぜあの娘を逃したのだ? あの方は事を公にせず内密に処理せよと命ぜられたが、この件は皇帝の耳にも届いたのだぞ!」

「最初は他人の空似かとも思いましたが、あの日のあなたの酷い顔を見て確信しましたから。……実を言えば、殺してしまいたかったのですけれど」

 打たれ赤く腫れた頬に手を当ててもなお挑戦的に男をねめつける中年の女の横顔だった。虐げられ貶められてもなお気高いその面は、市場で菓子を商っていた幸福な娘に、異民族の高官に捕らえられ打ちひしがれていた哀れな娘に酷似していた。二人の血の繋がりを確信させるほどに。

 光の加減で雪原の煌めきを纏う銀褐色の髪は、一筋の乱れなく結い上げられていたはずなのに解れていた。彼女と見つめ合う男は、扉の影に隠れて蹲るトゥミネなどいないように、あるいは気づきもせずに女の髪に触れる。 

「そうだな。昔の君は美しかった。あの娘も美しかった。……私は、自分の娘と寝るほど堕落していても、娘を黙って皇帝の寝所に贈るほど非情でもないつもりだった。君が一言相談してくれていれば、私は……」

 艶やかな毛先から項へ降り、盛りを過ぎて線が崩れかけていてもなお魅惑的で豊満な胸元と腰をなぞる指先を、メジュイェは微笑みながら――けれども蛆虫か長虫に対する侮蔑と嫌悪でもって拒絶していた。

 触らないでください。下働きの女の紅い唇が発した命は、高位の貴族であり官僚である男をしばし屈服させた。

「母親から生まれたばかりの娘を取り上げた男を信じよ、と? ……そんなこと、たとえ聖女でも出来かねますわ。ましてわたくしはもとはしがない街娼ですから、好いてもいない男に開く身体はともかく、聖女の慈愛など持ち合わせてはいませんので」

「……メジュイェ」 

 肩を落として項垂れる男の面に刻まれた表情は、彼の孫娘のものと似通っている。

「君が私を赦せないのはもっともだが、」

 気に入りの玩具を自ら壊してしまった幼児の、癇癪とも悔恨ともつかない激情は、男が相対する女のみに注がれている。しかし赦してほしいと全身で訴える男の熱意は、氷を融かすには至らなかった。

「あなたはどうしてわたくしからあの娘を奪ったのです?」

 爛々と輝く琥珀は戦慄くトゥミネの脚を縫い止める。明るみに引きずり出される他者の過去と秘密が恐ろしく、いっそ逃げ出してしまいたいのに知らずにはいられない。

「……妻が、そうせねば死んでやると泣いて騒いだのでな」

「そう、ですか。あなたは奥方に随分と愛されているのですね。……羨ましい」

 情けなく震えた応えに返されたのは、残酷なまでに美しい微笑。

「だが、私は妻よりもお前を、」

「あなたみたいなつまらない男のために、例え狂言でも流す涙があるあなたの奥方のおめでたさが」

 自らから仔を取り上げた狩人に向ける雌狼の微笑みは哀しくも猛々しかった。

「――この、街娼風情が」

 激高した男の拳を打ち付けられ、切れた口の端から紅蓮を滴らせてもなお。匂い立つほどに。

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