蜜よりも甘いものはなにか Ⅲ

「いつまでそうしているおつもりですか?」

 穏やかな微睡みを剥ぎ取り、気怠い疲労を呼び覚ます囁きの冷たさには慣れている。

「……ごめんなさい、メジュイェ」

 薄絹の紗に覆われたようではっきりとしない視界に、光に透かした琥珀の甘やかさを湛えた眼差しが映った。どこか母の焦げ茶の双眸と通ずる瞳は、いつも明確にトゥミネを否定していた。嘲るでもなく侮蔑するでもなく、拒絶されている。その理由を確かめる愚など犯す必要もなかった。メジュイェは息子どころか孫もいる主の、齢と地位に似合わぬ遊興を疎んじているのだろう。いかにも潔癖な彼女は、屋敷の使用人でも指折りの古参である自分が、娼婦の部屋付きとされた現状に納得しかねているのだ。

「そうお思いになるなら、少しは早く――せめて太陽が天頂に昇らぬ頃合いに起きる努力をなさいませ。もっとも、昨晩はお疲れだったようですが」

 乱れ、汗と生臭い体液で穢れた敷布を籠に詰める女の手つきには堪えきれぬ嫌悪が滲んでいた。心から愛し欲した伴侶や恋人のものならばともかく、好いてもいない男の白濁に進んで触れたがる女などいるものか。それ・・を生業とする、数え切れぬほどの男の体液に塗れた自分だって、仮初の主が部屋から去るやいなや、彼の残滓を拭わずにはいられなかったのに。夜更けに湯を張った盥を運ばされたメジュイェの端整な面立ちは、暗がりに覆われていてもなお顰められていると一目で察せられた。月光に照らされていても遮るもののない陽光の下にあっても、この中年の女の表情は分かりやすい。

「早く召し上がって下さいませ。でないといつまでも片付けられませんから」

 茶器の白さを際立たせる赤い液体はすっかり冷め、渋みばかりが際立っているが、眠気ざましにはちょうど良い。芳醇な香りで自らの質を誇示する茶を飲み干すと、曇った鏡面の中の女の顔に生気が昇った。

「ほんとうに、ごめんなさい」

 日が沈んだ後に歌劇と夜の享楽を共有する予定の、主の年下の友人であり上役である男の趣味に合わせて髪を結うには、メジュイェの手を借りなければならない。

「あなたにはいつも迷惑をかけるわね」

 慣れた手つきで長い髪を纏め上げる女の技術には、いつも密やかな感嘆と郷愁を抱かせられてしまう。

「わたくしとて気は進みませんが、これも命ぜられた仕事ですから」

 いかにもつまらなそうに黒檀の一房を弄ぶ女の面は、ふと覚えのある柔らかさを醸し出すのだ。

『とっても可愛いわ。その色、似合ってる』

 幼かったトゥミネの波打つ髪を指で梳き、編みこんで、どこぞで拾った褪せた緋のリボンで結んだ亡き母とメジュイェが、時折重なって見えることがある。世襲貴族の邸宅の使用人と、歓楽街の掃きだめで泡沫の快楽をひさぐ街娼。虹彩を除けば似ても似つかぬ二人なのに。

「ねえ。あなた、もしかして……」

 自ら紅を刷いた唇を割った問いかけは、全貌を明らかにする間もなく断ち切られた。

「できました」

 容易ではない使命を成し遂げた達成感も、誇りも感じられぬ乾いた囁きが項をくすぐる。しめやかな足音が消え去ると、室内は言い知れぬ静寂に包まれた。澱んだ空気には、昨夜の情交の名残が混じっていた。老い、弛緩した男の肌が自らの肌が叩き付けられる幻聴は秘めやかであるはずなのにけたたましく、細身の肢体は自らの裡から轟く衝撃に耐えられなかった。

 なにもかも、きもちわるい。

 こみ上げる嫌悪感をほんのしばしであっても癒すのは、清冽な外の大気しかない。僅かな救いを求めて飛び出した露台の白い唐草文様は、高雅に洗練されているはずなのにどこか歪に感ぜられる。主の由緒正しい血統を繁栄した樫の木とすれば、古来からの大陸中部式の建築の館に設けられた西方趣味の離れは、樫の木に寄生した宿木だった。どちらも、他者に寄りかからねば生きられない。

「……私も、同じね」

 トゥミネも、母も、河向こうの街で蠢いていた娼婦たちも、この離れも――ひいては、四百年前に海を越えてやって来た征服者が遺した全てはもはや異物なのだ。唯一神が手ずから整えた庭園に迷い込んだ異郷の草の種のうち、神とその僕の心に適う者だけが、この広大な庭を彩ることを赦される。美か力。至高なる神の楽園を守る庭師に認められるに足るどちらの輝きにもさして恵まれぬトゥミネは、いずれ引き抜かれてしまうに違いない。あるいはその時を待たずして、乾いて枯れ果ててしまうのかも……。

 冬の最中の、抜き身の剣のごとき寒風は、蟠る鬱屈を吹き飛ばしてはくれない。だが、結わずに残した房に隠れた耳殻に、澄んで高い歓声を運んできた。

「もうお昼を食べていいってほんとですか、親方!」

 観賞用の林檎の樹の隙間に擦り切れ色褪せているが華やかな女物を見出した時、心臓に甘い痺れが奔った。

「今日は寒いからな。さっさとメシ食って身体温めてこい、アリム」

「やった!」

 アリムと呼ばれた子供の性別は一見だけでは判然としなかった。少女の上衣に袖を通しているのに男物の脚衣を穿き、髪は肩を掠める長さに切り揃えている。淡い灰黄の髪に縁どられた幼い面に張り付いた、くっきりとした双眸の大きさは少女じみているが、その上の真っ直ぐな眉の太さと凛々しさは少年のもの。変声期を迎えぬ声に通る芯も少年のもののように響くが、少女のものであってもおかしくはない。熟れた林檎の赤が叩かれた頬と唇の愛らしさは、幼さゆえに男女どちらともつかなかった。

「……ああ」

 けれども、トゥミネには分かった。アリムは――「彼」は男なのだと。十を一つか二つ越えたばかりだろうこの幼子こそが、自分が待ち望んだ救世主なのだと。沙漠さながらに乾ききったトゥミネを潤してくれる甘い水なのだと。

 でなければ、どんな男に弄られても一切の愉悦を覚えなかったこの身が火照り、立っていられないほどの歓喜に戦慄くはずはない。しなやかな筋肉で盛り上がる二の腕の硬さを己が身で確かめたいと、撥ねる癖毛の柔らかさを己で確かめたいと欲するはずはないのだ。

 もはや二度と還らぬ過去の残影が蘇る。落日の残照を浴びながら、自らのみを映す紅蓮に囚われる幸福は凍えた身体の芯ごと自制を蕩かした。

 まだ声変わりも迎えていない少年に己が望むものは、決して浅ましいものではない。トゥミネは、幼かった自分が名も知らぬ顔立ちすらも曖昧な男達に強いられた肉の交わりを彼に求めない。穢さない。だが、どうしても感じたかった。

「会いたかった」

 彼のぬくもりと魂を。無垢な少年に触れれば、皮膚から魂にまで沁みこんだ汚濁が雪がれるわけでもないのに。

 ――あの子は、綺麗な目をしていた。

 ある若者が火の鳥に導かれて出会った美しい姫君が結ばれて終幕となる、お決まりの恋愛劇の科白に耳を傾けながら。幾度か顔と肌を合わせた男に貫かれる苦痛を噛みしめながら。密かに敵対心を募らせる若き友が、どのように自分を抱いたのか執拗に問い詰める主の肉体の下で、トゥミネは彼に想いを馳せ続けた。

 ――青い目。晴れの日の、雲一つない空を映した泉みたいな……。

 ぶよついた肉袋から解放されてからは、暇ができればずっと。窓辺でアリムを待ち、あの子の姿を探し続けた。

「親方! これどこに植えるんですか?」

 トゥミネは来る日も来る日も、雪の日も雹の日も霙の日もアリムを見守っているのに。

「あなた最近、一体何を――子供? ……結構な御趣味ですこと」

 化物の腐乱した死骸に投げかけるような、メジュイェの蔑みと忌避の念にも背を向けて注視し続けたのに、アリムはトゥミネに気づいてもくれなかった。

 ――見ているだけではつまらない。話がしたい。

 不満はいつしか欲望となり、そして行動となる。

「……そんな薄着で外にいると、風邪をひいちゃうわよ」

 弾けんばかりのくしゃみを炸裂させた幼子に応えられた瞬間の恍惚は蜜よりも甘やかだった。やはり齢とあどけない顔立ちに反した指の硬さが愛おしかった。アリムが樹から落ちて負った怪我は痛ましかったが、手当のために彼を部屋に招いて共有した時間は喜びに溢れていた。

 手負いの雪豹の仔は、気性の強さと烈しさを醸し出す眦に恥じらいを添え、自分を見上げている。痛みに潤んだ水色の眼差しに射抜かれた瞬間、眼裏に広がった大切な誰かの微笑みは母のものではなかったが懐かしかった。

 アリムにもっと会いたかったから、トゥミネは細やかな罪を犯した。天空から大地へ。花瓶の口から煌めき堕ちる流れは、摘まれた花の儚い生命を永らえさせるためのものだが、トゥミネは泡沫の華やぎではなく確かな体温こそを欲していたから。


 存外に濃やかな睫毛の影と木漏れ日が交錯する頬のまろやかな曲線をなぞっても、猫の仔のごとく丸まった少年の目蓋は開かない。

「ほんとによく寝るのね」

 乱れ縺れた毛先を整えても、口元の食べかすを払っても、目覚める気配はなかった。穏やかで規則正しい寝息がかかる腿は唾液でじっとりと湿っている。肉と勘違いされているのか、寝ぼけた鋭い歯を立てられ、食いちぎらんばかりの勢いで太腿を齧られても、不快ではない。

「これじゃ痣が残っちゃうわ」

 うっすらと汗ばんだ額にかかる前髪をそっとかき分けぴんと弾くと、薄赤い徴が刻まれた。

「悪い事ばっかりする子には、」

 然るべき時が流れれば儚く消え去る刻印にくちづける。

「お仕置きをしなきゃだけど、あなただからこれで許してあげる」 

 さる物語の姫君は夜毎、麗しい若者の屍を魔法の鞭で打って甦らせ交わったが、自分にもアリムにも目覚めに鞭は必要ない。トゥミネは姫君ではないし、アリムにはもうどんな苦痛も味わわせたくはなかったから。

 彼はもう十分に打たれた。彼に与えられるべきなのは、非情な革の撓りではないのだ。

「――あ。トゥミネさん」

「おはよう。一体どんな夢を見ていたの?」

「柘榴の夢を」

 寝ぼけ掠れた応えに緩む頬を亡き母に見られたら、何と言われるだろう。

 ほら私の言った通り。いい人と巡り合えたでしょう、と少女じみた笑顔で歓迎してくれるのか。それとも、流石に子供は駄目よ、と唇を尖らせつつも受け入れてくれるのか。いずれにせよ、トゥミネは忙しなく瞬く少年からもう離れられない。アリムの側にいるためなら、どんな責苦も受けられる。

「そう。……それはいい夢だった?」

 曖昧に微笑む少年の首筋からは甘酸っぱい汗の匂いがした。饐えた脂の悪臭が混じらぬ若々しい体臭は芳しく、いつまでもいつまでもトゥミネの奥底を疼かせた。   

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