蜜よりも甘いものはなにか Ⅱ

 ひしと我が身を掻き抱きあらん限りの熱をかき集めても少女の歯の根は合わないままだった。紛い物の嬌声と花代を巡った駆け引きが飛び交う路地裏では、満足に眠ることすらできない。

「ここ、あたしの場所なんだけど」

 禿げあがった中年の男に腕を絡める、まだ十にも満たぬだろう少女の爪先に蹴飛ばされ、仮初の居場所から追い出される。トゥミネは、しばし立ち上がることさえできなかった。おどろに縺れごわついた髪と棒のような手足を路地に投げ出していても、どうしたのかと優しく抱き起してくれる人はもういない。母は、もうこの世にいない。

 飢えと疲労と寒さに苛まれた小さな身体には、母を呼ぶ余力すら残されていなかった。乾いた唇から漏れたのは、我ながら惨めったらしい喘ぎだけ。頭は濃い靄に覆われたように霞み、手足は軛を嵌められたのかと錯覚してしまうほどで、指一本すら主の意に従わない。

 このままじゃ、わたし……。

 暗澹とした恐怖を克服する方法は分かっている。生まれ落ちて以来常に身近にあった、もはや肌に沁みついた母の媚態を真似ればよい。祖父と孫ほどにも年が離れた男を搾り取る少女に倣う他には、生きる術はありはしないのだと。だが、それはあまりにも罪深い裏切りだった。

『だったら、わたしにも来てくれるかな?』

 訪れたことなどないのに懐かしい母の故郷の伝承の救世主を重ねて――あるいは投影して――焦がれ、待ち続け続けた大切な友は、穢れたトゥミネを受け入れてはくれないだろう。まだ起こりもしない仮定にさえ、呼吸を忘れてしまうほどに胸を締め付けられるのに、それを現実になどできるはずがない。トゥミネは弱くてみっともないから、侮蔑の眼差しにも嫌悪の罵りにももう耐えられないのだ。

 どうせ死ぬなら綺麗なままで死んで、綺麗なままで彼に会いたい。

 望みを拒絶して目蓋を下ろすと、眼裏に心地よい闇が広がった。幼い魂は飢え凍えた肉の檻から解き放たれる。この世の全ての悪と退廃が押し込められた歓楽街から浮遊した少女は、柘榴に囲まれた庭園に立っていた。

 硝子と鏡の破片ではない、本物の煌めきは美しかったが、傍らに立つ彼には及ばない。彼こそが、待ちわびた救世主なのだ。

 眩い星芒を浴びて抜き身の切先のごとく艶めく長い髪の感触を確かめてみたかった。剣に鍛えられ固い指先に触れられたかった。彼と、彼だけと我が身の熱を分かち合いたかった。だから少女は目を閉じた。

 密かに望んだぬくもりは齎されなかったけれど、友の目は自分だけを映していた。初めて見るはずなのに懐かしい面に湧き起こる甘やかな至福と達成感が、苦い自責に濁らされる。脳裏に垂れ込める靄は乳の白から煙の黒に色を変えていて……。

「おい!」

 歓楽街のうらぶれた路地裏に舞い戻った少女の視界に飛び込んだ長靴の先端は傷はあっても煤けた痕跡はない。湧き起こる疑念に突き動かされるままに伸ばした指は、固い爪先に弾き飛ばされる。

「触んじゃねえ! 汚れるだろうが、このクソガ、」

 薄汚れ、一切の血の気を手放し蒼白く透き通った頬を打ち付けんとしていた足先が、野太い痛罵が驚愕に遮られる。

「……お前、ちょっと顔見せてみろ」

 襤褸切れと化した上衣の襟首を掴む仕草は乱雑で、くぐもった悲鳴と息苦しさを留めることはできなかった。

「悪い、悪い。ちと締まったか」

 言葉とは裏腹に涙でへばり付いた毛の束を払う手つきもまたぞんざいだったが、食べ滓で汚れた口元から飛び出た名に少女の緊張は解される。

「やっぱり、似てる。――もしかしてお前、サヒネの娘なのか? お袋はどうしたんだ?」

 母の顔見知りだと自らを紹介した男が、母と知り合った経緯など教えられずとも察せられる。男は母を買い、母は男から快楽の見返りを得たに違いない。

 母と肌を重ねた男に対する嫌悪感とも親しみともつかない感情を抑えた囁きは涙に濡れくぐもっていた。

「……おかあさんは、死にました」

「そうか」

 緩やかに伏せられた面は、幼子には死者を悼んでいるようにも捉えられた。

「可哀そうになあ。こんな小さな子供を残して死ぬはめになるなんて、あいつは考えてなかっただろうなあ」

 痣ができるのではと不安を覚えるまでに握られた手首の軋みは、頭頂に置かれた掌の存在を凌駕する。

 ――いたい。はなして。

 飛び出しかけた悲鳴は武骨な指先に遮られる。

「俺や俺の仲間は、お前の母さんには随分世話になったんだ」

 だから恩返しさせてくれ。男は嘯いて、少女の小さな身体を抱き上げた。身じろぎすらも許されぬ圧迫感とけたたましくなる心音に苛まれながら荷物か何かのように運ばれた、月の光すら暴けぬ闇が蟠る突き当りには、いずれも日雇い労働者だと一目で察せられる身なりの四人の男がいた。見ず知らずの男に囲まれる恐怖に尻もちをついた少女の背が、しなびた林檎らしき果実の芯を押しつぶすのは――誰かの食べ残しが散らばる路地に叩き付けられるのは、一瞬のことだった。

 もがく手足をそれぞれ四人の男に抑えられる。

「母親の代わりに稼ぎ方を教えてやるんだ! おとなしくしろ!」 

 下卑た笑みを浮かべた残りの男にのしかかられると、あまりの重みに気が遠くなった。衣服をたくし上げられ肌理細やかな肌を露わにされ、まだ膨らんでもいない胸を弄られても、薄れゆく意識は戻らない。厚い舌の滑りも、汗ばんだ他者の肌のざらつきも、饐えた体臭も、全てが厭わしかった。この嫌悪感から逃れられるのなら、このまま死んでもいいかもしれない。

 絶望に打ちひしがれ、自らを取り囲む一切を拒絶すべく閉ざされた少女の目蓋は、未熟な身体の中心をこじ開けられる激痛に開かれる。痛みは、悲鳴を上げることすら赦さぬほどに苛烈だった。揺さぶられ、腰を打ち付けられるたびに増幅する苦痛はこの世のものではなかった。聞き覚えのある吐息を漏らし最初の男が果てても、喪失の涙を零す少女に休息は与えられなかった。

 拓かれた虚ろは、空になるやいなや別の肉を埋め込まれた。トゥミネは朧にぼやける月を見上げながら、五人の男に代わる代わる穿たれた。鉄錆と白濁の匂いは嘔吐感を催したが、喉を灼くのは酸っぱい黄色の液体だけで。

「俺たちはお前の母さんに世話・・になったから、住むとこの世話ぐらいはしてやるよ」

 獣よりも浅ましい男達は、涙と吐瀉物と破瓜の血と精液に塗れた少女を、壮麗に装っているが禿げた塗装がその内実を暗示する館の一室に放り込んだ。 

「なんだ。結構しけてんな」

「でも、明日と明後日の飲み代ぐらいにはなるだろ? 馬鹿女の馬鹿なガキのおかげでいい儲けができた。ありがてえなあ」

 娼館の使用人が投げ与えた貨幣らしき円盤状の物体で膨らんだ袋に群がる男たちは、やはり犬よりも浅ましかった。だがそれは初めての屋根のある住まいたる館の住人も同様で、トゥミネはじくじくと陰湿な下腹部のひりつきを癒す間もなく客を宛がわれた。

 トゥミネは来る日も来る日も、多ければ一晩に数十の男に脚を開き続けた。陽が昇ってからも男を悦ばせるための手管を叩きこまれ、教師役の男の意に添えなければ食事を抜かれ、折檻され犯される日々は地獄だったが、たとえこの娼館から逃れても別の地獄に堕ちるだけ。

 手に手を取って逃げ出したはずの同輩の娘の成れの果て――見せしめのためにか、老いも若きも全ての娼婦が集まった広間で手足の指全てに針を刺され、想い合った少年の目の前で館の下男たちに陵辱され、しまいには狂死し打ち捨てられた亡骸。その惨たらしさは「反抗」という単語の響きすら忘れさせた。

 ある者は監視の目を盗んで自死し、ある者は衰弱して死に、ある者は客の不興を買って殴り殺された地獄において、新参だったはずのトゥミネは初潮を迎える頃にはすっかり古株になっていた。

 背丈は伸び、平らだったはずの胸と腰はまだ青いが芳しい実をつけている。だが少女の果実の風味は、館の趣向には合わぬ類のものだった。

 熟しきれぬまま堕ちた果物の腐臭が漂う娼館の中において最も静寂を強いられる一室に呼ばれ、館の主人と対峙するまで、トゥミネは思い込んでいた。成長し子供ではなくなった自分はとうとうここから追い出されるのだと。

「入りなさい」

 入室を促す声は存外に穏やかだが、脈拍を乱れさせる緊張は癒されない。割れんばかりの頭痛を堪えながら足を踏み入れた部屋には豪奢な寝台が鎮座していた。トゥミネたちの仕事道具である、黴臭くあらぬ染みに蝕まれたものとは似ても似つかぬ清潔な敷布に横たわるのは壮年の男だった。

「お前が学んだ全てを披露しなさい」

 命ぜられるままに奉仕すると、紳士然としていた男は獣の唸りを出した。男が腰を振るたびに二重顎が揺れる様は滑稽だったが、笑みは浮かばなかった。トゥミネの心はほころぶには乾きすぎているのだ。

「合格、だ」

「……ありがとうございます」

 意味も分からぬままに形作ったのは、嘘偽りである。太い指先は名残り惜しげに未発達な曲線をなぞる。主の意図を察し、自ら開いた脚のあわいに潜り込むのは異物感に他ならないが、少女は愉悦に喉を鳴らす。堪えきれぬ悦びがとうとう抑えきれなくなった――振りをする。これもまた偽りだが、肥った顔を己が体液で光らせる男は擬態に満足したらしく、果てるのは先程よりも早かった。

「だが先程の受け答えは良くない。これからは“ご満足していただいたようで幸いですわ”と答えろ」

「――っど、どうしてですか?」

 飽きずに三度目を求めた男の愛撫は執拗だった。

「……お前には素質はあるが教育が必要だな。早速、今日からでも」

「わたしたちには、お勉強なんて、」

「必要なのだ。他はともかく、お前にはな」

 高く突きあげた腰を、撓る背を撫でるように浴びせられた決定と隠されていた真なる姿は、冷え切っていたはずの少女の心身を氷にした。

「お前はこれからわたしたちの一員になる」

 少女が囚われていたのは、特殊な趣味の持ち主の孤独を癒す娼館の看板を掛けた反政府組織の組織であり、自分たちが身を削って稼いだ資金の多くはいつ実を結ぶかも定かではない怪しげな――要人の暗殺や、他組織や不満を持て余し蜂起した民衆への武器の援助に消えていた。

 政府高官や世襲貴族を筆頭とする高貴・・な男達。彼らに取り入るための話術や仕草を叩きこまれる最中で得た真実にこみ上げたのは、乾いた嗤いだけで。

「……馬鹿みたい」

 心も体も乾ききっているはずなのに、涙が零れることが不思議だった。水が、潤いが、安息が欲しくて仕方なかった。

 一体何のために好きでもない男と寝て、恨んでもいない男やその家族を破滅に追いやっているのだろう。

 この館からどこぞの高官の館に羽ばたいていった多くの先達も口にしたであろう謎の答えは既に出ている。

「私、どうしてここまでして生きたいのかしら?」

 その問いの答えもまた決まり切っていた。何があっても生きると、遠い昔に誰かと約束したからだ。

 ――今度こそ、絶対に……。

 冷え固まった胸の裡から、魂の奥底から誰かが命じる。少年のものとも少女のものともつかない囁きは、あるいは自分のものかもしれなかった。

「……あなたは私を赦してくれるかしら?」

 三番目の問いは、泡雪よりも儚く薄闇に融けて消えてしまった。

 学習・・を終え、組織が支配する別の娼館に移されたトゥミネに、やがて初めての大任が下る。

 表向きは世襲貴族の愛人として振る舞い、裏では彼の交友関係を探る。七日に一度の教会通い――に見せかけた、前任を殺害しその座を奪い取った、司祭に扮した組織の一員への報告。その義務を除けば一切の労苦から解き放たれた日々は、天国さながらだが退屈でもあった。

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