獅子の中の蜜 Ⅱ

「おどろいたでしょ?」

 得意げに満面の笑みを浮かべる頬を掴む。

「な、なにするの?」

 しっとりと指の腹に吸い付く肌のぬくもりは生身の人間のものだ。カヤトが生み出した都合の良い幻でも怪奇現象でもない、温かな血肉を備えた生命の証。

「……どうしておまえ、こんなところに?」

「お、王妃さまが、ひしょの予定をはやめられたの。今年はいつもよりあついから」

「そうか」

 念には念を入れ、熟れた小麦の色した三つ編みをぐいと引く。すると「いたい!」との甲高い非難と潤んだ眼差しが返って来た。豊かな睫毛に囲まれた大きな目には涙さえ浮かんでいる。確かにこれは、昨年の夏の終わり以来カヤトが待ち続けていた少女――メゼアでしかありえなかった。

 彼女はしばらくは頬袋一杯に木の実を詰め込んだ栗鼠のような面相をしていたが、

「いきなりひっぱってごめんな。つい、ゆめかまぼろしを見てるんだと思って……」

 カヤトが軽く非礼を詫びるとようやく膨れた頬を元に戻してくれた。 

「……そういうときってふつう、じぶんのかみのけやほっぺたをひっぱるんじゃないの?」

 淡く開いた小作りな唇はふっくらとしていて、いかにも柔らかそうだった。

「じゃあ、こんどからそうする」

 カヤトにも、背の半ばまで伸びた三つ編みがある。水で薄めた墨色の束は、毎朝丹念に梳る母の努力の甲斐あってか艶々と光っていた。細く絡まりやすい猫毛を持て余しているらしいメゼアは、カヤトの髪に触れるといつもほうと溜息を漏らす。まるで絹みたいだ、と。

 雪深い田舎の村で生まれ育ったカヤトは「絹」がどのようなものなのか想像すらできなかったが、少女の口ぶりから察するにそう悪いものではないのだろう。

「“みやこ”からここまで十日いじょうもかかるんだろ? たいへんだったな」

 まだほとんどまっさらな地図に浮かぶ三つの孤島の一つ。母の故地でも父祖の地でもない、カヤトには縁などないはずなのに何故だか懐かしいその都はムツタシという名を冠していた。

『みやこは大きなかべで囲まれてて、中にはいろいろなお店があるんです』

 ネミル人たちの祖に攻め入られ崩壊し、今はもう亡い国の王の娘が再建させた城壁には「第二の羊の門」と称される入り口がある。なぜ「第二」なのか。「羊の門」とは何を意味するのか。答えはやはり灰となって遙かなる歴史の陰に埋もれて久しい。だが一説では、五百年前に焼き払われた都の城壁には、同名の「羊の門」があり、後代に同じ位置に設けられた門がいつしか「第二の羊の門」と呼ばれるようになった、とされているらしい。

『姫さまがおしえてくれたんです。今はおしろがあるばしょには、むかし“神殿”があって……』

 少女の口から滔々と流れる情景は、カヤトの頭の中では黄褐色の城壁に囲まれた雑然とした街並みとして再現される。門の向こうに広がる、神に見離されたけものたちが住まう原始の森は、恐ろしくも恵み豊かで……。

 古の女神の息吹が色濃く残る森は既に切り拓かれ、大部分は長閑な農村に生まれ変わっている。戻らぬ流れの目まぐるしさに思いを馳せた時、少年の胸を締め付けたのは喪失の痛みだった。

 未だ尾を引く疼きを鎮める一番の良薬は、いつか必ずやってくるが永遠ではない別離だった。

「で、おまえはいつみやこに戻るんだ?」

「まだ決まってないよ。……でも、夏がおわれば、」 

 この少女はいずれカヤトの前から姿を消す。しかし、夏が巡れば必ず会える。だから寂しくはない。

 だが少年は、おずおずと馬の腹に触れる少女の横顔を見つめながら願わずにはいられなかった。ずっとこの夏が続けばよいのに、と。

 馬はおとなしくしゃがみ込んで、見ず知らずのはずの少女に鼻面を突かれている。この馬がカヤトと母以外の人間に呻らなかったのは初めてだった。喉元を撫でられ機嫌を良くしたのか、馬はそのまま寝入ってしまった。

 拳一つ分の距離を空け、少年と少女はごつごつとした木の根に腰かける。

「この花はだめだね。虫にたべられてる」

「あいつはそんなこと気にしねえよ」

 少女のものにしては暗く沈んだ藍色の前掛けには、青紫の勿忘草が散らばっていた。これで冠を拵えて被せてやったら、馬もきっと喜ぶだろう。メゼアはそう言い張って、あれは草のほうが喜ぶだろうと渋るカヤトにも花を摘ませたのだった。

「そんなことないよ。お馬さんだって、もらうならきれいなお花のほうがいいにきまってる」

 ――カヤトはあいかわらず大ざっぱだね。

 責めるような口ぶりとは裏腹に、穏やかに目を細める少女の爪は緑の汁で染まっていた。つんと青臭い、けれども不快ではない香りが人間の体液の生臭さに麻痺した鼻腔を刺激する。

 二年前、初めてこの泉の畔で彼女に出会った午後も、メゼアは花を握っていた。違うのは、捧げる相手が姫君か馬かということぐらいだ。


「あなたたち、オオカミの……」

 袖を捲って泉に腕を突っ込んでいた少年に投げかけられたのは、幼くたどたどしい、ツァディン人の――カヤトの同胞が暮らす村のほど近くに住まう山岳民の言葉だった。これならば、父の部族の言語しか操れぬカヤトでも、どうにか意味を成す連なりを紡ぎ出すことができる。

「……おまえ、だれだよ?」

 弾んだ声の方角を振り返ると、視界に飛び込んできた少女の顔はたちまち曇った。

「……それ、だれに……?」

 薄赤い花弁が張り付いた指先が示す頬は腫れあがっている。水鏡に映さずとも、じくじくとした陰湿な熱が、我が身の状態を教えてくれた。お前は初めて会ったはずの女にさえ同情されるような、酷い有様を晒しているのだと。

「おやじ」

「……そんな、ほんと、に?」

「こんなことでうそついて、おれが得することなんてねえよ」

 カヤトの誇りを幾分か削ぎ取った、名も知らぬ彼女を拒絶することもできたのにそれをしなかったのは、少女が涙を浮かべていたからではなかった。

「い、いたい?」

「……別に。なれてるし」

 こいつの色々な顔が欲しい。

 自らに振るわれた暴力ではなく、駆けだしざまに目撃した惨状に蟠る胸の塞ぎをこんこんと押し流す好奇心に、歯止めをかけることができなかったからで。

 少年は折よく水面に浮上してきた蛙を鷲掴み、赤らんだ頬に押し当てる。

「こうしてればそのうちもとに戻る」

 滑った皮膚から染み入る冷たさが心地良かった。

「おまえもやってみるか?」

 げろげろと濁った悲鳴でカヤトの暴挙に抗議する生き物を、自分のそれとは似て異なる健やかな桃色をした肌に押し当てる。

「――ひっ」

「つめたくてきもちいいだろ?」

 少女の元々大きな目は零れ落ちんばかりに瞠られ、小さな唇は呆然と開かれた。四肢はふるふると戦慄き、細い喉からは蛙のものとは比べ物にならない、澄んで高い悲鳴が迸って――

「……いや! たすけて、お母さん! ひめさま!」

 へなへなと腰を抜かしたために立ち上がることもできない少女は、煌めく目尻を怒りに吊り上げながらも、差し伸べた手を握った。

「おまえもしかして、カエルきらいだったのか?」

「お、女ならだれだってきらいにきまってるでしょ! あんな、ぶよぶよしたイボだらけの……」

 想起するのも厭わしいと言わんばかりに我が身を抱きしめる少女がはっと息を呑む。

「ひめさまにあげるおはな!」

 小さな掌の中からはいつの間にか色とりどりの色彩が零れ落ち、そのいくつかは少女やカヤトの足下に敷かれていた。

「……ひどい。せっかくきれいなおはなをえらんだのに」

 ぐずぐずと鼻を啜る少女の姿は何故だかカヤトの心に突き刺さった。物心ついて以来カヤトの日常は、少女の泣き顔などよりも悲惨で痛ましい光景に埋め尽くされているのに。

 ――こいつ、すっげえみっともねえツラして泣くんだな。

 泣き顔も美しい母とは異なり、涙に濡れぐしゃぐしゃになった少女の面はお世辞にも美しいとは言い難かった。だからカヤトは、彼女を泣き止ませることにした。薄茶の斑点が散った顔に笑顔を咲かせてみたくなったのだ。

「ほら」

 適当に千切った野の花で、水滴が伝う頬を拭う。

「泣くとブスがもっとブスになる。だからおまえは笑ってろ」

「……」

 透明な滴を止めたのはもしかしたら憤慨だったのかもしれない。けれどもメゼアは確かにあの花を受け取ってくれたのだ。  


「できた!」

 誇らしげな高音が少年を微睡みの世界から連れ戻す。いつの間に再び寝入っていたのかは分からないが、頭の靄と疲労は幾分か晴れてさっぱりとしていた。

「きれいでしょう?」

 青紫の花の輪は、白み艶を失った葦毛には華やかにすぎたが、不思議と似合っている。どことなくくたびれて臆病な顔をした馬も、この時ばかりは立派だった。

「この子、あなたに似てるよね」

 だが、見目はどうあれ村中から駄馬と蔑まれる彼に似ていると呟かれれば、反論せずにはいられない。

「はあ? おれはこいつほどばかじゃねえよ」

「けのいろが」

 花冠の礼のつもりなのか。馬は少女の首筋に鼻を寄せ、長い舌でうっすらと滲んだ汗を舐め取った。メゼアは何を思ったのか「この子に乗ってみたい」などと要求してきたが、万が一を考え止めさせた。受け身もろくに取れない彼女が落馬したらどうなるかなど、説明せずとも理解してもらわねば困る。

「……カヤトのけち」

「けちでけっこうだ。んなことされたら、おれの命がいくつあっても足りねえ」

 不満げに唇を尖らせる少女の面立ちを彩る、くるくると変わる表情は少年を惹きつけて離さない。

「おいしいでしょ?」

 持参した胡桃入りのチュルチヘラの葡萄の風味にほころぶ口元も。

 ――母さんのほうが、こいつなんかよりもよっぽど美人なのに。

 村一番の美貌を誇る母を見慣れた自分の胸が、十人並みの愛らしさしか備えぬ少女にどうしてこれほど掻き乱されるのか。

「メゼア」

「なに?」

「……なんでもない」 

 数年来の疑問は歯を突き立て咀嚼せんとしてもぐにぐにと纏いつくばかりで、芳しいはずの酸味はしつこく少年の舌を刺した。

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