畑に塩を蒔く者は愚か者である Ⅲ
頭上の三日月は庭園で凝る闇を暴くには細すぎるが、少年の眼差しは迷いない。足取りは舞うように軽やかではないが、夜闇の中で闊歩する獣の力強さがあった。月光を浴びて白く浮かび上がる露台は、いつかの死した女の柔肌をどろどろに崩れ、腐敗し入り混じった記憶の澱から浮かび上がらせた。
肌蹴た襟から覗く胸元は滑らかで豊かだったが、やつれた頬には溌剌とした娘の面影はなかった。
甘酸っぱい死の臭いは、乳の甘さが入り混じるがゆえに一層耐えがたかった。とうに体温を手放した、血を分けた弟であるアリムや父母さえも近寄ることをしばし躊躇った亡骸に縋りつき、涙する男。魂に焼き付いた敗北の苦痛と自責を忘れ去るには、生きながら焔で焼かれる苦痛を鎮めるにはどうすればよいのだろうか。
心の乱れは歩みに表れた。意匠化された太陽と月が精緻に彫り込まれた水差しは傾き、水面の月は揺れ消え去る。均衡を崩した真鍮の盆からは、弾丸にも似た黒い丸薬が転がり落ちた。
音もなく大地に落ち闇に飲みこまれた一粒を手探りで求めるには、余程の幸運か根気が要されるだろう。
「あ、」
頭を抱えたくとも、両手は既に塞がっている。微かな燈明が漏れる部屋の寝台に疲弊した心身を横たえているだろうトゥミネは、アリムの不手際を許してくれるだろうか。
『やだ、そんなこと気にしてたの?』
慈悲深い彼女は、心から詫びれば笑って受け流してくれるだろう。だが、一通りの謝罪だけで今回の失態を終わらせてしまうには、アリムの男としての矜持はいささか堅牢に培われすぎていた。目覚めているものといえば夜行性の鳥か人間たちぐらいの夜半。爽やかな緑の香気が冴えわたる春の庭園も、既に眠りに就いている。花弁を開いて夜更かしをする花を探し出すのは容易ではなかったが、少年は己の足元にひっそりと佇む雛菊を見出した。
親方の師事を受けて手ずから植えた花を最も気にかけているのは、親方でもアリムでもなかった。とうに乳母の胸に抱かれて宴席の場から離れただろう亜麻色の髪の幼い令嬢は、何故だか頻繁に可憐な白い花が群れる庭園の一画に足しげく通っていた。そして何をするでもなく、ただアリムの仕事の邪魔をして食事の時間を遅らせるのだ。
祖父に付けられた教師の下から逃げ出した彼女をあるべき場所まで連れ戻すのは、名を知ったばかりの女の役目ではなかった。奥方はメジュイェを厭っているから。いつも堅苦しい、屋敷においてはトゥミネに匹敵するほどに蔑まれ嘲られ、確実に耳に届く距離でもはや陰口ではない陰口を叩かれていてもなおぴんと背筋を伸ばしている、若くはない女。彼女が己の役目を他者に――それも、アリムのような新参の未熟者に任せたのは、これが初めてではないだろうか。メジュイェは己が職分を放棄しても良しとするほどトゥミネを軽んじ疎んじているのか。
――わたくしは、果たさねばならぬ……。
あるいは用事とやらがよほど急を要するのか。アリムには何も分からなかったし、分かりたいとも思わなかった。
手折った茎から漂う青臭さが鼻腔を刺す。月は男であるはずなのに恥じらう女のように雲の面紗の陰に隠れ、足元すら覚束なくさせる漆黒が少年の肌に張り付いた。夜空を仰いでも、もはや意気地のない天体の輝きはなかった。月は捕食されているのだ。
年老いた母が産んだ、牙が生えた人喰いの魔物たる妹から命からがら逃れた男は、深い森の中で茶色の髪と雪の肌をした美しい娘に出会う。妻となった彼女との満ち足りた生活の後、残してきた兄弟たちや母の身を案じた男は、妻の制止を振り切って懐かしい我が家に帰るが、そこには既に妹以外の家族はいなかった。皆、妹に呑みこまれたのだ。再び逃げ出した男を追いかけ塔まで追い詰めた妹と、男の妻はある約束を交わす。それぞれ一月の半分ずつ、男を我が物とすることに同意しよう、と。以来、男は――月は妹に食され痩せ細り欠けるが、妻の下に戻り魔法で我が身を満ちさせることを繰り返しているのである。
故郷に伝わる説話を、アリムは気に入ってはいなかった。物語の主人公たる男が惰弱にすぎるからだ。家族を捨て置いて人喰いの妹から逃亡するまではまだ理解できる。誰だって命は惜しい。ただ一つきりの己が生命と家族のそれを秤にかければ、天秤が己の側に傾くのも致し方ないだろう。しかし妻に頼ってばかりで、妻が化物である妹と争っても彼女を助けるどころか加勢しようともしないとは何事か。あまりにも情けない。男たる者、
アリムは姉を守り抜けなかった。ならば自分は、もしかしたら男ではないのかもしれない。トゥミネの部屋に赴いているというのに鬱屈とした胸の蟠りもそのままに、離れの入り口の扉をそっと叩く。
「トゥミネさん?」
返事はなかった。もしかしたら階上のトゥミネは待ちくたびれて眠っているのかもしれないし、そもそもアリムの声が聞こえていなかったのかもしれない。塵一つ、髪一本の存在すらも許容せぬ執拗さでもって手入れされている
――あ。
念入りに調律された琴の響きは、弦が切れた楽器さながらに乱れているが、紛れもなく……。
深淵から浮かびあがる泡に閉じ込められた悲鳴とそれは酷く似通っていた。曝け出された腿を無造作に掴み押し広げる男の手。大切な女に加えられる苦痛を目の当たりにしていながら何もできない、幼く不甲斐ない自分。吐き出された体液の生臭さ。下卑た笑い声――あんなものはもう二度と見たくない。
金属に金属が、木材に金属と水が叩き付けられる音は不快極まりなかったが、少年を縛めから解放する切っ掛けにはなった。決して短くはないが長くもない廊下を駆けただけなのに息が乱れ、額や背筋からは冷たい汗が滲んだ。冷気が脊椎を伝い流れ落ちると、悪寒は一層激しさを増した。
わざとなのか偶然なのか、完全には閉ざされていなかった扉の隙間から水色の虹彩に飛び込み魂に突き刺さったのは、脳裏に思い描いたものとは似て異なる光景だった。
幾度となく腰かけた寝台の上には、二匹のけものがいた。そのどちらにも憶えがあった。葡萄の艶を帯びる黒褐色の髪のみで素肌を隠す女は、四つん這いになっている。高く突きだしたまろい臀部を鷲掴み、己が腰を顔を伏せる女に打ち付けているのは、泥酔し宴席から下がったはずの高官だった。武骨な手が揺れる乳房の先端を捻ると、苦悶の喘ぎが桃色の唇から漏れた。
「……い、」
汗に濡れた肌は薄闇を纏い艶めかしく。どこか蛇の腹を思わせた。
「お前は声が善い」
大きく見開かれた灰の双眸は夢を見るように潤んでいて、焦点は定まっていなかった。男の呟きが届いているのかいないのかすら、定かではなかった。
組み敷いた女の無反応に気を害してか加虐心を煽られてか、男は丹念に結い上げていたはずの髪を力任せに引く。けれども女の面は蒼ざめたまま――元来血色の悪かった頬からは、ますます血の色が引いて、生きていることが不思議な程になった。女が、トゥミネの瞳が、扉の向こうでへたり込む少年を捉えたから。
「もっと啼け、娼婦」
滴る水音と肉に肉がぶつけられる音は聞くに堪えなかった。アリムは悲痛な嬌声とはっきりと傷つけられた顔をしたトゥミネに背を向けた。転がる水差しと盆を蹴飛ばし、散らばった花を踏みつけ、転がるように階段を降りて庭園に飛び出てからも走り続けた。ぶよついた塊に足を取られるまで。
ひび割れた心が身体ごと地に叩き付けられて砕け散ってしまいそうで、立ち上がる気力すら起こらなかった。やがて夜が明け使用人たちが行き交う朝が巡っても、邪魔者として人々に踏まれ足蹴にされても、アリムはそのままでいただろう。蹴飛ばした物体が、温かな血肉を備える生物でさえなかったら。
少年の土に塗れた頬をくすぐるのは、細く柔らかな猫の毛だった。アリムにも懐いている虎猫がげえげえとえづき、大柄な身体を痙攣させているのだ。小さな胃の内容物を吐き出した猫は、やがてぴくりとも動かなくなった。濁った茶の吐瀉物には、黒い丸が混じっていた。震える指先が掴んだのは、アリムが落とした胃薬でしかありえない。
きっとメジュイェは、トゥミネではなく彼女の部屋で酒と料理に代わる享楽を貪る男のために「これ」を用意していたのだろう。彼女が体調を案じていたのは厭う女ではなく、屋敷の主や一族の帰趨をも左右する高官だと考える方が理に適う。しかし、ならば彼女はなぜ高官の殺害を目論んだのか。
もしもことがメジュイェの思惑通りに進み、泡を吐いて倒れ伏したのが猫ではなく、人間であったなら。真っ先に疑われるのは屋敷の主人だ。さすればこの館に集う者たちや、エテルヴェリ人、あるいはペテルデの全ての民が責任を問われ断頭台の露となりかねないのに。
ぬるぬるとした胃液が衣服や肌に付着することも構わず、小さな毛むくじゃらの亡骸を抱きしめた少年の足首に、しなやかな尾が巻き付いた。足音もなく寄ってきた小さな茶の斑の猫は、息絶えた父の額に己が額を擦りつけ、啼いた。吊り上がった丸い目は、雲の合間に隠れてなお朧に光る月ではなく、聳える鉄の門を見ている。優美だが居丈高な黒鉄の根元には、銀に煌めく影があった。
数日前は親方の長女が袖を通していたはずの質素な衣服に身を包み涙しているのは、銀髪の美しい娘だった。
彼女は何事かを呟き、頑なに首を横に振って拒絶する女の胸を濡らしている。だが、どうあっても女が説得に応じぬと悟ると、幾度となく振り返りながらも鉄門をよじ登って外に帰っていった。強い風が、軟弱な男を面紗の影から引きずり出す。子猫と女の茶色のぎらついた瞳は、目撃者たる少年を見据えて離さなかった。
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