畑に塩を蒔く者は愚か者である Ⅳ

 待ち焦がれた末にようやく訪れた眠りは浅く、けれども重々しく少年にのしかかる。押しては引く漣のごとくひたひたと歩み寄り、いつしか足首を絡め取って、目鼻までをも包んで……。

 自らを孕んだ折には既に四十を迎えていた老母の胎からこの世に生まれ落ちてからの十二年と少し。少年は教えられずとも、意識せずとも容易に行えていたはずの行為――呼吸をしばし失念した。息苦しさに耐えかね、節の目立つ指がまだ滑らかな喉をかきむしる。切り揃えられた爪が幼い皮膚を削り、桃色の筋は鮮血を滲ませた。枯渇した大気を求めて開いた眼に飛び込んだのは、所々寝癖で跳ねた柔らかな髪に覆われた頭の中で渦巻いていた黒煙と紅蓮ではなかった。

 幾つかの見知った少年たちの寝姿と白金の一条。嵌め殺しの窓に隔てられた世界は朝焼けの薔薇色と黄金で染められていて。少年の胸中で蟠る暗雲はどこにもなかったことが、同輩の少年たちの安らかな寝顔が腹立たしかった。黒ずんだ血と皮膚が食い込んだ爪の先を、薄っぺらな敷布と掌に食い込ませる。蟀谷から伝う不快な汗をそっと拭う。

「――っ」

 盛んに寝不足を訴える頭痛と魂の軋みに比較すればほんの僅かな手の甲のひりつきが、昨夜の三つの衝撃は幻ではありえぬのだと少年に突き付けてきた。望んでもいないのに。俄かには認めがたい下賤な願望の現れでも何でもいいから、いっそ夢であれば良かったのに。

 眼裏に、脳裏に、魂に焼き付いたのは雪花石膏の肌だった。トゥミネの肌は一般的な大陸中部人同様かそれ以上に明るいが、その白さはどこかこの地の民のものとは異なる。そして、闇夜に仄白く浮かぶ肌に引きたてられる、僅かな紫を含み甘やかな褐色の毛髪。

 黒にも見える緩やかに波打つ茶の毛髪という特徴だけなら、合致する特徴を有する下女はこの屋敷にも幾人かいる。熱砂の帝国の侵攻から現在に至るまでに流れた四百という歳月の合間に、大陸の西と中央の血脈と文化は混交した。

 唯一神を崇める先祖代々続くエテルヴェリ人、それこそ世襲貴族であっても、その白皙の皮膚の下に潜む血管には一滴や二滴の他民族に由来する生命が流れていても不思議ではない。しかし、月光すら射さぬ仄暗い寝台の上で、燈明の灯りに艶めくうねりはトゥミネのものでしかありえなかった。

『もっと啼け、娼婦』

 娼婦と蔑まれ自らを穢し蹂躙する男に抵抗一つせず、全てを諦めていたはずの女の目は、アリムを見出した瞬間に更なる絶望に堕ちていっていた。沈んだ灰褐色は、燃え盛る炎の飛び込む蛾の翅を思わせた。握り締めればぐしゃりと潰える羽虫の脆さと儚さを。きらきらとした鱗粉の毒を。

 アリムを除く屋敷の住人は、それこそ幼いカトゥラでさえも、把握していたのだろう。トゥミネがどういった女で、何のためにこの邸宅に留め置かれているのか。だからこそ男も女も老いも若きも、彼女の名を呼ぶ際には嫌悪に顔をこわばらせて、吐き捨てるのだ。あの女には近づくな、と。――ならば何故、アリムに教えてくれなかったのだろう。もしも彼女が「それ」だと知っていたら。

 ――私の友達になって……。

 無垢な少女のように微笑む女に、花と思慕を捧げたりしなくとも済んだはずなのに。心臓を締め付ける想いからも自責の念からも解き放たれ、穏やかな春の朝の訪れを言祝げもしただろうに。トゥミネが対価を支払われればどんな男にでも脚を開く女だと知っても、安らかなままでいられたのに。神よりも尊く映った魂の檻である肉体も、数え切れない男の手垢と体液に塗れているのだと分かって捩れる心などありはしなかったのに。騙されたのだと悟って傷つく弱さと愚かしさも。自分だけのものにしたいと希った笑顔を向けられたであろう男達に燻る妬心も。

 目覚めの刻は既に訪れているのに、指一本動かす気力すら湧かない。心が疲れ切っているから、身体が動かないのだ。寝ぼけ眼を擦り挨拶を交わす同室の少年の声を遮断すべく被った布団はやはり薄く、アリムの願いを――独りきりになりたいという欲求を満たしてはくれなかった。

「さっさと起きろよ。それともお前、食い過ぎでキツイのか?」

 お節介にもアリムの両の肩を揺すり、気づかわしげに伏せた面を覗き込むのは、部屋でも最年長の少年だった。

「待ってろよ。俺、ちょっくら薬湯でも貰ってくるから」

 清しい朝に相応しい笑顔を刷いた唇から漏れた響きは消化しきれぬまま嘔吐された丸薬とはかけ離れているはずなのに、汗で濡れた背筋が震える。昨夜の出来事の目撃者であるアリムは、メジュイェと名乗った女からすれば抹消したい存在であるはずだ。もしも、自分に差し出される薬とやらが、彼女の手を介したものであったとすれば……。

 温かな色彩を宿していなが冷ややかな双眸から放たれる眼光の冷たさが、掻き抱いた躯からぬくもりが失われる虚無感が蘇る。

「……ま、待って!」

 翻る袖を掴み、威勢よく駆け出す寸前だった少年を引き留める。

「起きれるから! 少し眠たかっただけだから、薬なんて取りに行ってくれなくてもいいから!」 

 死にたくない。死んではいけない。生ある唯一神の被造物であれば皆備える本能が鳴らす警鐘はけたたましかった。寒くもないのにがちがちと鳴る歯と蒼ざめた頬からあらぬ勘違いをしたのか、得心のゆかぬ顔をした少年を説得するのは容易ではなく、

「……でも、お前やっぱり今日はゆっくり休んでた方がいいぜ。親方には俺から話つけとくから」

 人の良い彼を食卓に向かわせるまでには、蒼穹からは薄紅と朱の面紗が取り払われていて眩かった。ぼやけた眼に突き刺さる光は鮮烈で、慌ただしく離れる足音に耳を傾けると乱れた室内の異様なまでの静寂が引きたった。アリムが抱える孤独の根深さも。糜爛した傷に軟膏を塗り癒してくれるはずのただ一つの手は、アリムの胸を切り裂く刃でもある。

 トゥミネに会いたいのに、会って話がしたいのに、会いたくない。トゥミネが、彼女に対峙した際の自分はどのように反応するのか。制御できぬ怒りに囚われ彼女を売女と罵り傷つけるのも、嫉妬に駆られて細い身体を組み伏せるのも、呆気ないほどに簡単だろう。

 他の男の痕跡と臭いを消し去るには、自分の物で上書きすれば良い。沐浴や香油では誤魔化せぬまでになよやかな肌にアリムを沁みつかせれば、トゥミネに近づく男などいなくなるだろう。野原で駆ける者も囲いの中で草を食む者も、獣は皆そうやっているのだから。

 だが激情と欲望を十分すぎるほどに虐げられてきただろう哀れな女にぶつけ注いだところで、喉元で痞えた澱みはどうにもならないのだ。アリムはトゥミネをもうこれ以上傷つけたくはないし、愛した姉を殺した獣と同じに堕ちたくはないから、やはりもう彼女には会えない。声も聴かない。いない者――それこそ幽霊として接する他ないのだ。

「……さよなら」

 僕の友達。僕の初めての……。

 音もなく徒花が散る。降り注ぐ緋と白の花弁は暗澹に呑みこまれはしなかった。アリムの内側の、氷雪と火炎の輝きが深淵から浮かびあがる。お前の想いはこの程度のものなのかと、問いかけ揺さぶる。自分自身から齎される責苦からは、独りきりで横たわっていても逃れられない。むしろ、想うがままにがむしゃらに駆け出してしまった方が幾分か気が晴れる。

 蹴破るように開いた扉を締めもせず、望むがままに俊敏な脚を動かした少年が辿りついたのは、枝という枝に固い蕾を付けた林檎の樹の下。初めてトゥミネと言葉を交わした、彼女の部屋がある離れにほど近い場所だった。自分自身の未練がましさに呆れて溜息すらも吐けないのに、汗ばんだ肢体は痙攣的な哄笑に引き攣れる。

 大地に身を投げ出して虚空を仰ぐ少年の虚ろな眼に、薄青い影が伸びる。

「アリム!」

 良く親しんだ娘の声と顔に漂うのは怒気だけではなかった。戦場で負傷し敗走した戦士を労う一方で彼の怯懦を嘲るような、憂慮とも呆れともつかない翳りが、イリセの虹彩の緑を深めている。

「あなた、具合が悪いから部屋で休むんでしょ? なのにこんなとこにいるなんて、どういう……」

 荒れた手は働き者の手だった。男に身体を開いて快楽を差し出し糧を得る女を、彼女らが侮蔑し嫌悪するのももっともだと納得してしまうぐらいに。くるくると変わる表情と朗らかな笑顔は太陽のようだった。アリムのあの馬丁に倣って、イリセのような真っ当な・・・・娘を好きになることができたら幸福になれたのだろう。しかし、アリムにはもはや歩んだ道を引き返す気概すら残されていない。

 生い茂る葉を擦らせる一陣の風は、滴る翠が奏でる調べではない音を少年と娘の耳元に運んだ。

 かさついても嫋やかな指が乱れた前髪を整える。はっと息を呑んだ彼女は、慌ててアリムの背を叩き手を引いて、樹の幹に隠れた。

「気が向けば私に抱かれる名誉を再び与えてやろう、娼婦」

 重厚な扉が発する軋みと共に白日の下に表れた男の顔にあるどこか賤しい満足と充実も、幾ばくか経たぬうちに驚愕と激怒に取って代わられるのだろう。しかし、その時にはもう遅い。軛から逃れた美しい銀毛の女鹿は、既に彼の猟場から飛び出してしまっているのだから。彼が別の、鉄格子の中に閉じ込められた若鹿を味わっている間に。 

「……ええ。お待ちしておりますわ」

 少年の両の耳を塞いだ指はか細く、合間からは心優しい娘が隠したかっただろう呟きが忍び込んできた。閨を共にした男の姿が庭木に紛れるやいなや、彼に背を向けた女の肢体は華奢で頼りなかった。反射的にトゥミネの下に駆け寄ろうとしたアリムを引き留めた腕も。

「……忘れなさい」

「……」

「忘れなさい、全部。それがあなたのためだから」

 勝気な眦から零れた大地に吸い込まれた少年の一粒の涙と、石畳に崩れ落ち泣きじゃくる娼婦の涙。透明な一粒もどろどろに崩れた白粉と紅を含み濁った雫も、平等に熱と懊悩を孕んでいるはずなのに。嘆く女の震える肩を支えることすらままならぬ己が呪わしく、奔る激痛は堪えられなかった。

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